天世・一
目の前が真っ暗だった。何も見えない。何処に居るのかも判らなかった。
不図、誰かが何かを云っている事に気が付いた。耳を澄まし、其方へ顔を向けた。やはり、何かを云っている。能く聞くと、「目を、目を」と云っている様だった。目が何うしたと思い、其処で漸く悟った。私は目を開いていなかったのである。暗いのも、何も見えないのも当り前だ。
ゆっくりと目を開くと、目の前に知らぬ坊主が居た。ならば、此処は寺なのであろう。坊主は何やら不思議な笑みを浮かべ、じっと私を見ていた。其の笑みに、私は少しく嫌味な感情を読み取った。憮然として、何が可笑しいのかと尋ねると、急に居眠りをしたからだと応えた。私は、ふん、と鼻を鳴らし、此処へ来た覚えも無ければ、貴様に会った覚えも無い。居眠りなどするものか、と、云い放った。更に、己は無信教だと云って遣った。実際、輪廻など信じてはいないのだから。すると、では何故、今拙僧の前に居るのかと問うて来た。其の問いに、私は愈々気を悪くした。知らぬ。貴様が勝手に己の前に居るだけだ。そう云って辺りを見回すと、やはり、寺なのである。其の証拠に、坊主の後ろには仏像が在るのだから。
何時の間に、此処へ連れて来た。何う遣って連れて来たのだと、問うと、自然に此処へ来たのだと応えた。何を云うのかと思うと同時に、之までの記憶の全く無い事に気が付いた。私の、少なからぬ動揺に付け込む様に、ほれ、自然に来た事が解ったろう、と、嫌らしく、くつくつと笑った。不座けるなと云いたかったのだが、如何せん記憶が無いものだから、何も云い返せなかった。只、一つだけ気になる事が有った。
己は死んだのか。坊主は只笑っていた。気取る様でもなく、嘲笑するでもなく。




