16冊目 隠しごとの香り
「いや、おかしいでしょ!?」
私は、がたんっと机を叩いてしまった。
父上の権威なんて借りた覚えはないし、そもそも女子生徒をいじめたこともない。ただ、あれは注意しただけだ。
「はい、姫様は間違っていません」
シルフィードは、悔しそうに拳を握った。
「姫様は、ただ注意しただけのこと。悪く言われる筋合いなどありえません」
しかし、現実に噂は広まってしまっている。
ソフィーは「可哀そうな被害者」として男子生徒を中心に認知され、「監査官リコール」の署名運動まで始まっているらしい。
「男子学生って、多いのよね……」
私は、深いため息をついた。
女子学生は婚姻を機に中退してしまうことが多々あるらしい。上の学年に進級すればするほど、女子学生の割合は少なくなっていくのだ。その女子生徒のなかにも、ソフィーの親派がいるのだから、本格的に署名運動が加速してしまったが最後、私のリコールが成立してしまう恐れがあった。
「そもそもよ、ソフィーはアルフォンス兄様との接近禁止命令が出てるんでしょ? なんで、男子学生は接近禁止命令が出された令嬢に惚れてるのよ」
私は、ここ数日間で抱いていた疑問を口にした。
「接近禁止命令」なんて、王族に悪い意味で眼をつけられたことを意味する。良識のある学生ならば、ここで彼女から身を引くだろう。このままではソフィーの取り巻きとして認識され、自分の家に迷惑をかけてしまう恐れがあるからだ。
しかし、それをする学生が少ない。あまりにも少なすぎる。
「アタランタ子爵令嬢に弱みを握られてるとか、でしょうか?」
「それにしても、数が多すぎるわよ。まったく、どうなってるの」
私は額に手を当てながら、理由を考え込む。
事前の調査が正しければ、ソフィー・アタランタの実家は成り上がりの子爵。
たしか、ソフィーの祖父の代に金を積んで貴族へなったらしいが、それ以後、目立った活躍はない。むしろ、祖父の時代が絶頂期であり、ソフィーの父であり現当主になってから、業績は落ち込むばかりだ。ソフィーの代、もしくは、その次の代には没落し、再び平民に逆戻りしていることだろう。
「金もないし、権威もない家なのに、他の貴族の弱みを握ることができるとは考えられないわ。握ることが出来ても、せいぜい1,2件程度よ」
「では、姫様。アルフォンス王子様たちが傘下の学生に、アタランタ子爵令嬢を敬うよう強要……しているようには、みえませんよね」
「そうよね……どいつもこいつも、自分から惚れているように見えるわ」
これといって、子爵令嬢に味方する理由がまったく思いつかない。
媚薬でも盛ったのか?とさえ思えてくる。でも、ころっと媚薬にやられるとは考えにくい。有力貴族になればなるほど、毒殺を筆頭とした暗殺・陰謀の影が付きまとう。故に、幼いころから、毒に身体を慣らす訓練を行っているのだ。それは、媚薬でも同じこと。
媚薬の効果で下手なハニー・トラップにはまり、家や国をめちゃくちゃにしたら取り返しがつかないからだ。
……まぁ、ある意味、アルフォンス兄様たちはハニー・トラップにかかってしまったと断言しても良いのかもしれないが……少なくとも、普通の媚薬程度で籠絡することはできないだろう。
となると、他になにがあるのだろうか?
「あー、もう疲れた!」
私は大きくため息をつくと、思いっきり立ち上がった。がたんっと椅子が音を立てるが、気にするものか。このまま座っていたところで、なにも妙案は浮かばない。むしろ、いらだちが募り過ぎて、頭が煮詰まってしまいそうだ。
「シルフィード、ガルーダ! 書庫へ行くわよ。お供しなさい」
「はい、かしこまり――え、姫様?」
「書庫よ、書庫! 気分転換!」
もう、やっていられるか!
こうなったら、ストレス発散だ。物語がないとはいえ、書庫は書庫。本特有の香りだけでも、たまりにたまった陰鬱な気分を吹き飛ばし、すっきりリフレッシュすることができるはずだ。
「……ここか」
書庫の前に到着した。
城の書庫よりも扉は薄く、鍵もかかっていない。
「たしか、学生が自由に出入りするため、常時開放になっているのよね?」
「ええ。ですが、試験前以外に利用する生徒は稀だと」
シルフィードが、つらつらと教えてくれた。
そもそも、調べ物を行う授業自体が稀だ。
もちろん、ときにはレポートを執筆するための資料が必要になることもあるだろう。そんなときは、従者に命令して資料だけ探してこさせればよい。つまるところ、誰もが集中して勉学に励みたい時間――試験前以外は、書庫を利用する学生が少ないのだろう。
「まっ、物語がないんだし、当然よね」
「姫様?」
「なんでもないわ。入るわよ」
扉を開けた瞬間、懐かしい香りが鼻孔をくすぐった。
本特有の紙とインクの匂いが、胸いっぱいに広がっていく。
「あぁ、この香り……」
感嘆の声が漏れる。
目を閉じると、瞼の裏に懐かしい図書館が浮かんだ。
通い慣れた図書館。
天高くそびえる本棚。そこに並ぶは、世界各国から揃えられた玉石混合の物語の数々。そのなかから、埋もれた宝石を発掘する心地の良い時間。
「……姫様?」
シルフィードの声と共に、ゆっくりと瞼を開ける。
そこに広がっていたのは蛍光灯の輝く図書館ではなく、どこか薄暗い書庫だった。壁は手触りの暖かい木材ではなく、地下牢みたいな石の壁。ガルーダの背程度しかない棚に、幾冊かの本が行儀よくおさまっている。それも、物語性皆無の味気ない本ばかりだ。
「でも、これでいいの」
窓から差し込まれた午後の陽光は、木造りのテーブルを照らしている。そっと指で撫でてみると、ほのかに暖かい。ここだけは、私の知っている図書館と同じだ。私は、ちょっと硬い椅子に腰を下ろした。
「少し、休憩させて」
この時期、書庫を利用する学生は誰一人としていない。
まさに、私の貸切りだ。うっとり瞳を閉じて、午睡に浸ろう。大好きな紙とインクの香りに包まれて眠れば、きっと――良い、夢が――……
「誰だ!?」
そんな優しい癒し空間を引き裂く声が響き渡った。
私は、驚きのあまり飛び上がってしまう。がたんっと椅子を鳴らしてしまった。
「どうしたの!?」
「そこに誰か隠れています」
声の主は、ガルーダだった。
右手を剣の柄に置き、腰を低く落としている。ぎらりと光った双眸は、まっすぐ本棚の角に向けられていた。
「……」
さて、これはどうすればよい?
そこにいるのは、学生か? それとも、密偵の類か? はたまた、私の命を狙いに来た暗殺者か?
「はぁ……落ち着いて本の香りを楽しむことも出来ないなんて……」
私は椅子から立ち上がると、本棚に一歩近づいた。
少しでも王女らしく見えるよう、私は胸を張り、できるかぎり背筋を伸ばした。
「書庫は、静かに本を読むための場所です。この空間を乱してしまい、申し訳ありませんでした」
「……」
「もし、よろしければ顔を見せてくださいませんか? あなたの顔を見て、お詫び申し上げたいです」
私は勝負に出ることにした。
もし……あの本棚の向こうに隠れる何者かが、素直に姿を見せれば問題ない。
常識的に考えて、一般学生は王女自らの申し出を断れない。私は「もし、よろしければ出てきなさい」なんては言っているが、実際のところ「王女が謝罪するんだから、顔くらい見せなさいよ」と言っているようなものだ。むしろ、従わない方だ不敬罪である。
つまり、相手が顔を見せない場合……それは、王女の言葉に従わない不届きものか、姿を見せられない事情があるかの二択だ。
「遠慮なさらずに、どうか……お願いします」
私は、書庫の出口に目を走らせた。
書庫の出入り口は、たった1つ。
こっそり、そこから出ていくのは不可能だ。どうしたって、書庫を出るためには私たちの目を避けることができない。
万が一、他の方法で――たとえば、窓から逃走を図ろうとするとか――こっそり逃げようとした場合、異変を察知したガルーダが動くはず。
……まぁ、それでも動き出さなかった場合は、私たちが書庫から出たふりをして、シルフィードにでも入口を見張らせておけばいい。あとで出てきた人物の顔を照会し、要監視リストにでも乗せておけばよいだろう。
「嫌なら構いません。私は、これにて失礼させていただき――」
「お、お待ちください」
そろり、そろりと1人の学生が本棚の影から顔を覗かした。
姿を現したのは、女学生だった。くるくるとした橙色の瞳と目があった途端、がばっと女学生は頭をさげ、最敬礼の姿勢をとった。
「4学年のアイリス・ウェンハムでございます。
こ、このたびは、監査官様がいらっしゃるというのに、しょ、書庫に入ってしまい、まことに申し訳ありませんでした!」
長い茶色の髪の毛が、床につきそうになるくらい頭をさげている。
どうやら、密偵の類ではなさそうだ。普通の常識を持った一般学生だろう。
……貴族としての階級は分からないが。
「ウェンハム様、お顔をお上げになってください」
「しかし!」
「私は、さきほども申しました」
柔らかな微笑みを心がけようと、にかっと口角をあげてみた。
「書庫とは、静かに本を読むための場所です。
最初に乱したのは、貴方ではありません。非があるのは、この私です。貴女の空間を乱してしまい、申し訳ありませんでした」
少しだけ頭をさげる。
本当に、気持ち分だけ。こういう時、思いっきり頭をさげることのできない身分がもどかしい。
「い、いえ! 王女様! お顔をあげてくださいませ!」
アイリスが慌てて顔をあげた。がくがくと、手も声も震えている。
「わ、私がいけなかったんです」
「そんなこと言わないでください。私が悪かったのですから」
「い、いいえ! 私が――!」
「アイリス・ウェンハム様!」
このままでは、らちがあかない。
この謝罪スパイラルを断ち切らなければ!
「そこまで言うのでしたら、1つ条件がありますわ」
私はアイリスに一歩近づくと、軽く扇子を広げた。
「条件、ですか?」
「ええ。簡単なことです」
私が微笑んでみせると、アイリスの顔がますます青ざめた。もう青を通り越して、白く染まってしまっている。そこまで怯える必要はないのに、と思いながら、私は彼女に要求を伝えた。
「貴方の家に伝わる物語をお話しして欲しいのです」
「――っえ?」
アイリスは意表を突かれたように、ぽかんと口を開けた。
大方、理不尽な要求をされるとばかり考えていたのだろう。しかし、蓋を開けてみれば、なんとも珍妙なお願いときたものだ。驚くのも無理はない。
「私、物語を聞くのが好きなの。
よろしければ、貴方の家に伝わる話をお聞かせくださる?」
書の香りに包まれながら、物語に耳を傾ける。
物語を読んだ充実感は味わえないが、これはこれで贅沢な時間だ。
「えっと、本当にそれでよろしいのですか?」
「それでいいのよ。ほら、お話してくださる?
もし、時間がないのでしたら構いませんわ。私は、これで失礼させていただきます」
……とはいっても、無理に語らせるのは良くない。
彼女だって、家の事情があるだろう。話せる物語と口外厳禁の物語があるはずだし、なにしろ、いきなり「なにか話せ」と命令されても「はい。私の家ではー」とペラペラ話せるわけがない。例えるなら、校長先生から唐突に「小学校で習った曲を歌え」と命令されても、ぽんっと謳えるわけないのと同じだ。
「い、いえ。話します! 待ってください」
アイリスが、私の腕をつかもうと手を伸ばす。
服の袖から、やけに白い腕が伸びた。
「あっ!」
その腕があらわになった瞬間、アイリスは、しまった!と言わんばかりに手をひっこめる。
でも、もう遅い。私は、気づいてしまった。
「ウェンハム様……その腕は、どうなされたのです?」
アイリスの左手首に、まっしろな包帯が巻かれていることに――。