仕事とプライベート
高校までのアルバイトとは、まったく違った。仕事とは、こんなにも体を動かすことなのかと、透は思い知らさせた。しかし、一生懸命に働いていたら・・・
一九八二年。日本は、バブルの時代へと向かっていた。けれど、その頃を生きていた人たちは、もちろん自分たちがバブルの中へ向かっているなどとは思っていなかった。
透も、その一人だった。高校を卒業し、ホテルマンになった。東京で働くことになり、会社が用意した千葉の男子寮で暮らした。朝、目を覚まし、仕事へ行く。仕事が終われば寮に戻る。
そんな毎日だったが、透はその一日一日を精いっぱい生きていた。社内報に載った写真が、たまたま写真写りがよかったこともあり、先輩の女子社員から声をかけられることもあった。
「滝口くん、今度、映画でも観に行かない?」
そんな誘いに、透は少し戸惑いながらも、嬉しかった。映画を観て、食事をする。それだけのことだったが、透にとっては、東京での新しい生活を実感する時間でもあった。とにかくあの頃は、誰もが未来を明るく見ていた。
頑張って働けば、きっと何とかなる。そんな空気が、街全体に流れていた。もちろん、それは身の丈に合った生活をしていれば、という話だった。透もまた、無理をすることなく、自分のできる範囲で東京の暮らしを楽しんでいた。
そして、もう一つ。透には、東京で確かめたいことがあった。自分の野球が、どこまで通用するのか。ホテルの野球部に入った。そこで待っていたのは、本当に厳しい現実だった。自分では、そこそこ野球ができると思っていた。しかし、上には上がいる。同じホテルで働きながら、野球に打ち込んでいる選手たちを見ているうちに、透は少しずつ気づいていった。
プロ野球選手というのは、とてつもない世界にいる。テレビの向こうで簡単そうに打って、投げて、守っている。しかし、その一つ一つのプレーの裏には、想像もできないほどの技術と努力がある。野球部に入ったことで、透は自分の夢を少し違った角度から見るようになっていた。
友人
そんな透のそばに、気の合う仲間がいた。同じ宴会課で仲良くなった吉成ヒトシだった。
二人は仕事が休みの日になると、時々、野球を観に出かけた。後楽園球場。そして、神宮球場。
大きな球場に足を運び、スタンドからプロのプレーを眺める。吉成は中日ドラゴンズのファン。
そして、透は大洋ホエールズのファンだった。当時の二人の贔屓球団は、どちらも決して人気球団とは言えなかった。だからこそ、二人は妙に気が合った。
「俺、ドラゴンズが好きなんだ。今日のヤクルト戦、滝口、一緒に神宮球場に見に行かないか」
「はい。では、ドラゴンズ。応援します。」
そんな他愛のない言い合いをしながら、二人でどちらかの応援に球場へ向かった。試合が始まれば、少年の頃と変わらない。声を上げ、拍手をし、選手の一挙手一投足に夢中になる。高校を卒業して、社会人になった。ホテルマンとして働き、東京で暮らしている。それでも、野球を好きな気持ちだけは、少年の頃から何も変わっていなかった。透にとって、後楽園球場や神宮球場で過ごした時間は、仕事とは違う、もう一つの東京だった。夢を追い、現実を知り、それでも好きなものを手放さない。透が王室ホテルに入社して、まだ三か月ほどしか経っていなかった。それでも自分で少しずつ楽しみを見つけながら、懸命に生きていた。
人事異動
七月のある日、宴会課の上司から突然、集合を命じられた。
「これから、宴会課の人は、会議室に集まってください」
何かあったのだろうか。透は隣にいた吉成ヒトシと顔を見合わせた。言われた通り会議室へ行くと、そこには宴会課の社員を中心に、二十人ほどが集まっていた。しばらくして、上司が口を開いた。
「急な話ですが、人事異動があります」
部屋の空気が、少しだけざわついた。入社してまだ三か月。透にとって、人事異動という言葉は、まだ自分とは遠いもののように感じられていた。
ところが――。
「食堂課への異動です」
その言葉を聞いた瞬間、透は耳を疑った。話によれば、数日前、食堂課にあるコーヒーショップで、社長の友人が深夜に、コーヒーショップで食事をしたという。ところが、帰り際になっても、店の誰一人として挨拶をしなかった。そのことが社長の耳に入った。ホテルにとって、お客様への挨拶は基本中の基本だった。社長は、この出来事を重く受け止めた。
そして、食堂課を中心に、およそ五十人にも及ぶ大規模な人事異動が行われることになった。透は、その話を聞きながら、何とも言えない気持ちになっていた。
自分は何もしていない。それでも、人事異動の波は、新入社員である透のところまでやって来た。
「滝口君は、食堂課のコーヒーショップへ」
透は思わず顔を上げた。そこは、今回の人事異動のきっかけとなった、まさにその場所だった。そして、隣にいた吉成ヒトシにも辞令が出た。
「吉成君は、食堂課のスワンレストランへ」
同じ宴会課で働き始めたばかりだった二人は、こうして別々の場所へ向かうことになった。
入社して、わずか三か月。透のホテルマンとしての人生は、思いもよらない形で、新しい扉を開けようとしていた。そんな日々の中で、透の東京での青春は、静かに始まっていた。
一八歳の滝口透は、この人事異動によって、初めて「仕事の大変さ」というものを、身をもって知ることになった。コーヒーショップは、とにかく、身体を動かす仕事だった。料理の名前を覚え、客からオーダーを取り、キッチンへ伝える。料理が出来上がれば、それを運び、空いた皿を下げる。身体だけではない。頭も、常にフル回転させていなければならなかった。
――こんなに働くものなのか。
入社したとき、透はここまで仕事が大変だとは思っていなかった。
「大変なんだな……」
そう思うようになっていた。そして、ふと以前の自分を思い出した。挨拶をしても、先輩たちに余裕がないように見えたことがある。今なら、その理由が少しわかる。これだけ忙しければ、挨拶することさえ忘れてしまう瞬間があるのだ。何しろ、異動した先は、王室ホテルの中でも「一番の激務」と言われているコーヒーショップだった。そのことは、ホテル中に知れ渡っていた。だからこそ、逆にコーヒーショップのユニホームを着ていると、他の部署の社員からも一目置かれた。社員食堂でその姿を見かけると、まるで憧れのような視線を向けられることさえあった。仕事ができる人たち。そう見られていた。そんな透も、三か月ほど経つと、ようやく仕事の流れが少しずつ見えるようになってきた。
そして、仕事を覚える中で、もう一つ大切なことにも気づいた。――人間関係だ。キッチンの人たちに嫌われたら、仕事はうまく回らない。料理を出してもらわなければならない。注文を正確に伝えなければならない。忙しいときには、お互いに声を掛け合わなければならない。仕事は、一人ではできない。18歳の透は、それを少しずつ理解していった。自分は、まだ一番下の平社員だった。だからこそ、透は自分から挨拶をすることを心掛けた。
「おはようございます」
「お願いします」
「ありがとうございました」
忙しいときでも、できるだけ声を出した。それだけで、人との距離が少し近くなるような気がした。
――仕事とは、人間関係がすべてなのかもしれない。透は、そんなことまで考えるようになっていた。
しかし、その厳しい仕事に耐えられず、同期入社の仲間の中には、突然、職場に来なくなる者もいた。
「あの人、辞めたらしいよ」
そんな話を聞くたびに、透は驚いた。入社したときには、みんな同じ夢を持っていたはずだった。それでも、半年も経つ頃には、同期の仲間のうち、二十人ほどがホテルを去っていた。それほどまでに、厳しい仕事だった。ただ、透は辞めていった仲間を責める気にはなれなかった。仕事には、向き、不向きがある。
この仕事を離れることが、その人にとっては、むしろ新しい人生への一歩になることだってある。そう思った。そして透自身も、まだ知らなかった。このコーヒーショップでの経験が、これから先の人生で、何度も自分を支えることになるとは――。
少しずつ仕事が分かるようになると、透にも余裕が生まれてきた。最初の頃は、目の前の仕事をこなすだけで精一杯だった。料理の名前を覚え、オーダーを取り、キッチンとのやり取りをする。それが、いつの間にか自然にできるようになっていた。すると、不思議なものだった。
あれほど大変だと思っていた仕事が、少しずつ面白くなってきた。自分が頑張れば、その分だけ仕事ができるようになる。仕事ができるようになれば、周りから声を掛けてもらえる。そして――頑張っていると、思いがけないことも起こる。それは、デートの誘いだった。
この後、透は、人生を生きる上で、大事な生き方を学ぶことになる。さて、、、それは、、、




