オーストラリア経由、ヨーロッパ、そして、ポーランドへ
人は、動くことで知ることがある。透は、たくさんの人と出会い、自分の人生を見つめてきた。そして、それを、生かして、、、、
長谷川が笑った。透も笑った。そして、長谷川がグラスを掲げた。
「未来に乾杯しよう」
「乾杯」
「カンパーイ!」
三つのグラスが、テーブルの上で軽くぶつかった。カチン、と乾いた音がした。
その夜、三人は、一番近い長谷川のアパートに行き、遅くまで飲み続けた。最後には、誰が先だったのかも分からないほど、三人とも酔い潰れていた。
それから一か月後。長谷川は仕事を辞めた。結婚し、栃木へ行った。出発する前、透の家の電話が鳴った。
「じゃあな」
「たまには連絡しろよ」
「分かってるって」
「じゃあな」
「おう」
それだけだった。しばらくして、長谷川からの電話はなくなった。そして、いつの間にか――
音沙汰もなくなった。
透は、あの夜のことを時々思い出した。酔い潰れた夜。空になったビール瓶。三人でぶつけたグラス。そして、
「未来に乾杯しよう」
という、長谷川の声。あのとき三人が見ていた未来は、まだ一つだった。今はもう、それぞれの場所にある。長谷川のアパートのテーブルの上に残された、三つの空のグラスのように。
送別会
オーストラリアへ 出発する少し前のことだった。吉成さんから、久しぶりに 飲みに行こうと誘われた。恵比寿のいつものように店に入り、酒を注文する。しばらくして、吉成さんが透の顔をじっと見た。
「お前、体重増えたな」
「はい」
「また、どうしてだ?」
透は少し考えてから、笑った。
「えーと……オーストラリアで 餓死をしないためです」
「餓死?」
「はい。体重、十キロ増やしました。正直、重いです」
吉成さんは、透の身体を上から下まで眺めた。
「はあ……まあ、確かに情報があまりないからな」
透は黙って頷いた。インターネットもない。今のように、海外の生活を簡単に 調べられる時代でもなかった。だからこそ、透なりに考えた。何が起こるか分からないのなら、今、自分にできることをやっておこう。吉成さんは、そんな透を見て、突然、大きな声で笑った。
「お前らしいなあ」
透もつられて笑った。しばらくして、吉成さんが少し声を落とした。
「あのな……青山えつ子だけど」
「はい」
「彼女、長崎に帰ったよ。滝口さんにあったら、よろしくって言ってた。」
透の箸が止まった。
「そうなんですか」
「体調が、やっぱり戻らないらしい」
「……そうですか」
それ以上、透は何も言えなかった。青山えつ子。東京で出会い、いつの間にか 心に残っていた人だった。もう会えないかもしれない。そんな思いが、ふと胸をよぎった。
「いつの日か……会えるといいですね」
透がそう言うと、吉成さんは少しだけ間を置いて、
「そうだな」
と答えた。二人は、それ以上その話をしなかった。目の前の酒を飲みながら、やがて始まる 新しい生活の話をした。オーストラリア。まだ見たことのない国だった。透は、少し重くなった自分の身体を 感じながら、これから始まる一年間のことを 考えていた。
「それと、長谷川だけどな」
吉成さんが、ふと思い出したように言った。
「はい」
「女の子の赤ちゃんが、産まれたってよ」
「そうですか。頑張ってますね、長谷川」
透は、少し嬉しくなった。ホテルを辞めてからも、それぞれの場所で生きている。長谷川も、いつの間にか父親になったのだ。
「おまけだけどな……」
「はい?」
「奥さん、バツイチだったってよ」
「えっ?」
「婚姻届を出すときに、初めて分かったらしい」
透は、一瞬、言葉を失った。
「だから、奥さん、結婚式はしなくていいとか 言ってたんですね」
「そうだな。ハハハ」
二人は顔を見合わせた。いろいろある。人には、人に言えないこともある。それでも、今、長谷川が家族と一緒に笑っているのなら、それでいい。
「本人が幸せなら、それでいいですね」
透が言うと、吉成さんも小さくうなずいた。
「そうだな」
少しの沈黙のあと、吉成さんが笑った。
「今頃、俺たちが噂してるって、くしゃみでもしてるんじゃないか?」
「そうかもしれませんね」
二人は、顔を見合わせた。そして、長谷川の顔を思い出し、同時に笑った。遠く離れていても、昔の仲間は、ふとした瞬間に 心の中へ戻ってくる。その夜、二人の笑い声の中に、長谷川の姿がもう一度だけ、浮かんでいた。そして、もうすぐ、透はオーストラリアに旅立つ。
人生を変える本との出会い
そもそも、その本との出会いは、ワーキングホリデーで 海外へ出たことが、すべての始まりだった。海外で暮らしていると、日本にいた頃には 当たり前だった日本語の情報が、驚くほど少ないことに気づかされた。そんなある日、仕事場に置かれていた、先輩が残していった書籍の中に、一冊の本が 埋もれているのを見つけた。アウシュビッツに関する本だった。
なぜ、こんな本がここにあるのだろう。透は、その本を手に取った。その当時、海外では、簡単には手に入らない 日本語の活字だった。ページをめくるたび、文字の一つ一つが、妙に重く感じられた。読み進めるうちに、透の中に一つの思いが生まれてきた。
――いつか、自分の目で確かめてみたい。本に書かれていることが、本当にこの場所で起きたのか。写真や文章だけではなく、自分の足でその土地に立ってみたい。そんな気持ちは、すぐに消えるものではなかった。やがて透は、その機会が訪れた。
一九八九年八月、アウシュビッツ
透は、本の中でしか 知らなかった場所へ向かった。そしてついに――その場所に、たどり着いた。
透は、その場所で立ちすくんだ。目の前には、集められた髪の毛の山があった。
アウシュビッツは、訪れなければわからないことがある。その空気、温度、静寂、透は、海外で生活する中で、その事実を確かめようと、行動した。そして、、、




