アウシュビッツ
想像を超える施設を実際に見た。本当にあったとは思えない。しかし、透は現実を目の当たりにして、心に誓った。
一九八九年八月、アウシュビッツ
透は、本の中でしか知らなかった 場所へ向かった。そしてついに――その場所に、たどり着いた。
透は、その場所で立ちすくんだ。目の前には、集められた髪の毛の山があった。その隣には、無数の靴が積まれている。白黒の写真に写る人々の顔は、どれも無表情だった。
髪を剃られ、名前ではなく番号で呼ばれ、この場所を出ることなく 命を奪われた人たち。透は、しばらく何も考えることが できなかった。ただ、そこにあるものを見つめていた。胸の奥が、ゆっくりと締めつけられていく。
息が苦しい。深く息を吸おうとしても、喉の奥で 何かがつかえているようで、うまく吸えない。一人一人に、きっと夢があった。
家族と暮らしたい。
仕事をしたい。
好きな人と結婚したい。
明日も、生きていたい。
そんな、ごく普通の願いを 持っていたはずだ。そう思った瞬間、透の喉が大きく詰まった。
「……」
声にならなかった。胸の奥から、何かが込み上げてくる。透は唇を噛んだ。泣いてはいけない。なぜか、そう思った。けれど、目の奥が熱くなっていく。瞬きをしても、涙がこぼれ落ちた。一度こぼれると、もう止まらなかった。頬を伝う涙を手の甲で拭う。それでも、次から次へと溢れてくる。呼吸が震えた。肩が小さく上下する。透はうつむいた。
自分がなぜ、これほどまでに泣いているのか、分からなかった。目の前にいるのは、もう何十年も前に亡くなった 人たちだ。一度も会ったことのない人たちだ。
それなのに――。一人一人に、人生があった。夢があった。家族がいた。好きな人がいた。明日が来ることを信じていた。けれど、その人たちは、自分ではどうすることもできない時代の中に生まれた。生まれる場所が違えば。生まれる時代が違えば。人は、これほどまでに 厳しい人生を 生きなければならないのか。その思いが、透の胸を強く締めつけた。
透は顔を上げた。涙で景色が滲んでいた。アウシュビッツ。人間が、人間に何をしたのかを残す場所。
負の遺産。ここにあるものは、過去の出来事ではない。ここで生きていた人たちにも、一度しかない人生があった。透は、もう一度、静かに息を吸った。今度は、少しだけ深く息が入った。
そして、涙を拭った。人生は、一度しかない。だったら――。自分にできることを、自分なりに精一杯やって生きていこう。それが、この場所で亡くなった人たちを 前にして、透が出した答えだった。
エピローグ
一冊の本との出会いが、透をここまで連れてきた。ポーランド。アウシュビッツ。透は、言葉少なに施設の中を歩いていた。そこに残されているものを、一つ一つ 目に焼きつけるように見ていく。写真。収容された人々の記録。当時の生活の跡。しばらく歩いていると、透は立ち止まった。胸の奥に、重いものが沈んでいく。
「……本当に、こんなことがあったのか」
生まれる場所が違う。生まれた時代が違う。それだけで、人の人生は、これほどまでに変わってしまう。透は、これまでの 自分の人生を振り返った。中学生の頃、野球部の公式戦で、最後まで バッターボックスに立つことが できなかったこと。プロ野球選手になりたい と思いながら、その夢をかなえられなかったこと。
あの頃は、それが 人生の大きな挫折のように 思えた。けれど――。今、この場所に立ってみると、それさえも、なんて 贅沢な悩みだった のだろうと思う。
これから先も、きっと人生には、いくつものピンチがやってくる。逃げ出したくなることもあるだろう。思い通りに ならないこともあるだろう。それでも――。透は、ゆっくりと前を向いた。ピンチは、終わりではない。そこから何かが始まることもあ。
もしかしたら、ピンチは チャンスにつながっている のかもしれない。そう思って、生きていこう。透は、心の中で静かに誓った。アウシュビッツの空を見上げる。そこには、青空が広がっていた。与えられた道を、自分なりに歩いていけばいい。
透は、ゆっくりと歩き始めた。これで、この物語は終わる。
透は、もう一度、収容所の建物を振り返った。ここで、多くの人が夢を奪われた。行きたい場所へ行くこともできず、会いたい人に会うこともできず、自分の人生を自分で選ぶことさえできなかった。
透は、静かに息を吐いた。自分は、違う。今も自由だ。日本に帰れば、好きな場所へ行くことができる。会いたい人に 会いに行くこともできる。それは、当たり前のことでは ないのかもしれない。
そして、透は、ふと 青山えつ子のことを思い出した。
長崎。
そういえば、まだ行ったことがない。透は、少しだけ笑った。そして、あの京都旅行を思い出した。彼女は、あの時、何を望んでいたのだろう。透は、
「えっちゃん元気にしているかな? そうだ。 日本に帰ったら……長崎に、行ってみようかな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。その言葉は、小さかった。けれど、その小さな言葉の中に、透がこれから生きていく人生が、少しだけ見えた気がした。
滝口透の人生は、まだ始まったばかりだった。
これから先、一度の人生を、どう歩んでいくか。その一助になればと思い、この小説を書きました。最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。




