ワーキングホリディビザで オーストラリアへ
吉成も、長谷川も、それぞれの道を選び始めた。そして、透は、また、海外に行く計画を、、、
こうして透は、コンビニで 夜勤のアルバイトが始まった。勤務は夜十時から朝の七時まで。夜勤だった。ホテルマンの時は、深夜一時までは 普通に働いていたから、大丈夫と思った。夜勤初日、透が店に入ると、それまでの賑わいが嘘のように 店内は静かだった。
「お疲れさまです」
先に入っていた店員に 挨拶をすると、平井と共に、引き継ぎを受ける。
「この時間帯は、だいたい二時くらいから 納品が来るから。あと、三時過ぎたら床の掃除をお願い」
「分かりました」
深夜になるにつれて、客の数は目に見えて減っていった。透たちは二人体制で、深夜営業を見る。時折、仕事帰りと 思われる客が入ってくる。弁当と飲み物を買うサラリーマン。眠そうな顔で雑誌を手に取る若者。タクシーの運転手が、コーヒーを一本だけ 買っていくこともあった。客が来れば、透はレジに立つ。
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」
ホテルで働いていた頃に比べれば、接客そのものはシンプルだった。だが、夜勤の仕事はレジだけではない。客が少なくなると、透は商品の補充を始めた。飲料の棚を確認し、空いているところに 新しい商品を並べる。弁当やおにぎりの棚も確認する。消費期限を見ながら、古い商品を前に出し、新しい商品を後ろに入れる。午前三時を過ぎる頃には、弁当用のトラックが到着した。
「納品、来ました」
段ボールが次々と店内へ 運び込まれる。業者は商品を種類ごとに分け、飲料、菓子、日用品など、それぞれ決められた場所へ 運んでいった、納品の確認が終わると、今度は店内の掃除。床をモップで拭き、ゴミ箱を交換する。トイレを掃除し、レジ周りも整える。時計を見ると、午前四時を過ぎていた。外はまだ真っ暗だった。店内に流れる小さなBGMだけが、静かな空間に響いている。透は一度、レジの椅子に腰を下ろした。
――こんな時間に働くのも、悪くないな。
朝が近づくにつれて、少しずつ客が増えてきた。新聞を買う人。出勤前にコーヒーを買う人。
朝食用のおにぎりを手に取る人。
そして、空が少しずつ明るくなっていく。午前七時。交代の店員がやって来た。
「お疲れさまです」
「お疲れさまでした」
透は店のエプロンを脱ぎ、タイムカードの打刻をして、店を出た。外へ出ると、朝の渋谷の街が動き始めていた。夜の静けさから、朝の喧騒へ。その境目を歩きながら、透は不思議な感覚になった。夜から朝まで働いたというのに、思ったほど疲れていない。むしろ、どこか充実していた。
深夜勤務なので、時給も悪くなかった。そして何より、不思議なことに、この仕事を全くきついとは 感じなかった。透は歩きながら、ふと思った。
――もしかして、ホテルマンだったのは 良かったのかもしれない。ホテルでは、時間に追われながら働いた。お客様への言葉遣い。立ち振る舞い。周囲を見て動くこと。忙しいときほど、落ち着いて仕事をすること。そうしたことが、いつの間にか身についていた。
コンビニの夜勤でも、それらは自然と役に立った。忙しくなれば先回りして動く。店内を見渡し、足りないものがあれば補充する。客が困っていれば、すぐに声をかける。ホテルマン時代に覚えた「働く」という感覚が、今の透を支えていた。仕事が変わっても、働くということは変わらない。朝の光を浴びながら、透はそんなことを少しずつ感じ始めていた。
最後の飲み会
透が渋谷区のコンビニでアルバイトを始めて、一年が過ぎた頃だった。ある日、長谷川から飲み会の誘いがあった。珍しいことだった。いつも飲むのは、吉成さんと二人だった。長谷川と会うのは、久しぶりだった。
「せっかくだから、吉成さんも誘おうよ」
透はそう思い、久しぶりに 三人で飲むことになった。待ち合わせは、恵比寿駅の近くにある、いつもの飲み屋だった。それでも透は、何となく引っかかっていた。
――何かあるな。理由は分からない。ただ、長谷川からわざわざ飲みに誘ってくることが、少し気になった。時間になると、三人が揃った。
「ほんとに三人で飲むの、久しぶりだな」
吉成さんが笑った。透も笑いながら、グラスを手に取った。今のように、LINEもなければ、インターネットも スマートフォンもない。連絡を取るには、電話をするか、直接行くか。手紙を書くしかなかった。だから、仕事や住む場所が変われば、それだけで人との距離は 少しずつ遠くなっていく。意識して会おうとしなければ、久しぶりに会うことさえ難しい。そんな時代だった。
「何かあるよね、長谷川さん」
透は、明るく笑って言った。
「おう」
長谷川は、少し照れたような顔をした。そして、グラスを置いた。
「実はさ……、オレ結婚することになった」
「えーっ!」
透と吉成さんの声が重なった。二人とも、本当に驚いた。長谷川は、そんな二人を見て笑った。
「それだけじゃないんだ」
「えっ?」
透が聞き返した。
「仕事も辞める」
「えっ……どういうこと?」
今度は、吉成さんも身を乗り出した。長谷川は、少し間を置いてから話し始めた。
「彼女、栃木の人なんだ」
「栃木?」
「そう。結婚したら、田舎に帰ることになってさ。俺も、それについていく」
透は黙って長谷川を見た。東京で働き、東京で暮らしていた男が、仕事を辞めて、故郷ではない土地へ行く。それだけでも、大きな決断だった。
「それに……」
長谷川が続けた。
「子どももできたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、二人の間から言葉が消えた。できちゃっち結婚である。さっきまで笑っていた吉成さんも、透も、静かになった。長谷川は、少し照れながら グラスに口をつけた。
「結婚式は、しなくていい。そう、彼女は言ったんだ。」
その横顔を見ながら、透は思った。人の人生は、自分が思っているよりも早く動いていく。
同じ職場で働き、同じ寮で過ごし、同じ時間を笑っていた仲間でも、いつかそれぞれの道へ進んでいく。その夜、三人は久しぶりに顔を合わせた。けれど、それは同時に――三人で過ごす時間が、少しずつ 終わりに近づいていることを、透はまだ知らなかった。
吉成さんの近況
今度は、吉成さんが話し始めた。
「そう言えばさ……」
吉成さんは、少し照れたように笑った。
「オレ、劇団に入ったんだ」
「劇団?」
透は、思わず聞き返した。
「そう。小さな劇団だけどな。小さな役も、少しずつだけど、こなしてるよ」
透の顔が明るくなった。
「さすがですね。もうすぐスターですねー」
「そんなわけないだろ」
吉成さんは笑いながら、手を振った。
「役者なんて、この東京に山ほどいるんだ。自分の思い通りになるなんて、なかなかないよ」
その言葉に、透は黙って頷いた。
――そうかもしれない。平井さんも役者だ。東京には、夢を追いかけている人間が、数え切れないほどいる。その中で、自分の名前を知られるようになる人間は、ほんの一握りだ。
それでも――。透には、吉成さんが、いつもより輝いて見えた。会社を辞め、劇団に入り、自分のやりたいことに向かって歩いている。結果がどうなるかなんて、誰にも分からない。
それでも、吉成さんは前を向いていた。
「それとさ……」
吉成さんが、ふと思い出したように言った。
「滝口、青山えつ子って、知ってるか?」
「はい。一つ後輩だった、王室ホテルの子ですよね」
透は、ビックリしながらも サラッと答えた。青山えつ子。王室ホテル時代の後輩だった。吉成さんは知らなかった。透が、青山えつ子と京都旅行をしたことを。そのことを悟られないように、透は何気ない顔をして聞いた。
「どうしたんですか? えっちゃん」
吉成さんの表情が、少し曇った。
「……病気らしい」
「病気?」
「内臓が、悪いらしいんだ」
透の手が止まった。
「えっ……」
さっきまでの明るい空気が、一瞬で消えた。
吉成さんは、声を落として続けた。
「たぶん、20歳になって、酒を覚えて、そして、飲み過ぎたんじゃないかって話だ。体調を崩して、入院したところまでは聞いてる」
透は、黙って聞いていた。胸の奥が、少し重くなる。青山えつ子とは、京都で一緒に過ごした。そのときの彼女の笑顔が、ふと頭に浮かんだ。それを吉成さんには、言えなかった。
「そうか……」
透は、それだけを口にした。吉成さんはグラスを見つめながら、静かに言った。
「彼女も、もう二十歳を過ぎたんだな」
その言葉のあと、少し間があった。
「だから……健康が大切だな」
吉成さんは、それ以上言わなかった。透も、何も聞かなかった。店の中では、相変わらず 他の客の笑い声が聞こえていた。けれど、三人のいるテーブルだけは、別の時間が流れているようだった。結婚。仕事。夢。そして、病気。この夜、三人が話しているのは、それぞれの人生だった。透はグラスを握りながら、ぼんやりと思った。人は、それぞれの場所で、それぞれの人生を生きている。
そして、その人生は――思っているほど、思い通りにはならない。
ワーキングホリデイビザ
今夏の、三人で飲む酒は、なぜか、いつもより少しだけうまかった。店の奥では、テレビから野球中継の音が 流れていた。テーブルの上には、料理とビールの空き瓶。時々、店員が注文を取りに来る。吉成さんが話し終えると、今度は滝口透が、少し間を置いて口を開いた。
「吉成さん、長谷川……実は今、オレが考えている計画があるんだ」
「何だよ、改まって」
長谷川が笑いながら、透の顔を見る。
「オーストラリアで、一年間生活しようと思っている」
「えっ?」
長谷川の箸が止まった。
「オーストラリア?」
「そう」
「そんなこと、できるのか?」
「できるよ」
透は、ビールを一口飲んだ。
「まあ、ビザが必要だよね」
「うん。ワーキングホリデービザを使う。その申請をしようと思っている」
「ワーキングホリデーか……」
長谷川は、その言葉を確かめるように呟いた。吉成さんが身を乗り出した。
「本気か?」
「はい」
透は頷いた。
「アメリカで生活してみて、新しい目標が見つかったんです」
「目標?」
「日本で普通に仕事して、普通に暮らす。それも悪くないと思うんですけど……」
透は一度、言葉を切った。
「せっかく 一度きりの人生なんだから、もう少し違うことを やってみたいなって」
二人は黙って透の話を聞いていた。
「アメリカに行ってみて、世界って思っていたより 広いんだなって感じたんです。それで、今度はオーストラリアで、暮らしてみたいと思いました」
「それで一年か」
「はい。一年です」
「仕事はどうするんだ?」
「向こうで探します。ワーキングホリデーなら、ある程度働けるから」
「英語は?」
長谷川が聞いた。
「……それは、これから勉強します」
「おいおい、それは遅いな」
三人が笑った。
「でも、今、少しずつお金も貯めています」
吉成さんは、しばらく透を見ていた。そして、ふっと笑った。
「滝口は、やっぱり面白いな」
「まだ計画の段階ですけどね」
「いつ頃行くんだ?」
「南半球だから、向こうが夏になる十二月頃を 目安にしてます」
「十二月か」
吉成さんが腕時計を見る。
「じゃあ、あと少しだな」
「そうですね。これから準備していきます」
その頃、海外へ行くということは、今よりずっと遠い話に聞こえた。しかし、時代はバブル時代へと 向かっていた時代だった。
その当時は、インターネットで 何でも調べられるわけでもない。ガイドブックを開き、旅行会社のパンフレットを眺め、誰かの経験談に耳を傾ける。それでも透には、それで十分だった。分からないことが多いからこそ、楽しみだった。吉成さんがグラスを持ち上げた。
「わかった。応援するよ」
「ありがとうございます」
すると吉成が、冗談めかして言った。
「まあ、俺たちは応援するだけだからな。金は出せないぞ」
「当たり前ですよ」
透が笑った。
「気持ちだけで、大丈夫です」
三人の笑い声が、店の中に響いた。やがて吉成さんが、ふっと呟いた。
「なんかさ……」
「はい?」
「俺たち、段々と人生が面白くなってきたな」
長谷川が笑った。透も笑った。そして、長谷川がグラスを掲げた。
この飲み会が、3人で飲む最後になるとは、この時は、思っていなかった。そして、ついに、透は、、アウシュビッツへの、、、




