第9話「木村の声」
行くつもりはなかった。
本当に、なかった。
隣県の公演のことはSNSで知った。
来月の第二土曜日、県立の小劇場で二日間だけ。
座席数は三百程度の中規模のホールで、シェイクスピアを下敷きにした新作、主演・木村光。チケットは完売と書いてあった。
完売なら行けない。
そう思った。そう思いながら、当日の夜、浩二は隣県の劇場の前に立っていた。
最寄り駅から電車で四十分だった。
陽子には「少し出かける」とだけ言った。
「どこへ」と聞かれたので「用事がある」と言った。
「土曜の夜に?」と陽子は言ったが、それ以上は聞かなかった。
浩二のそういう言い方が何を意味するか、二十二年の歳月が教えてあった。
電車の中、浩二は窓の外を見ていた。
途中で何度か、引き返そうと思った。
次の駅で降りて、反対のホームに行って、戻ればいい。
それだけのこと。
でも次の駅が来るたびに、電車に乗ったままでいた。
乗り換えの駅でも、乗り換えなかった。
「行くつもりはない」という言葉が、どこかで「行く」と同じ意味になっていた。
いつそうなったか、分からない。
ただ、気づいた時にはそうなっていた。
それが、今夜の浩二の正直なところだった。
劇場は駅から徒歩七分のところにあった。
県立の文化施設の一部で、外壁がコンクリートの打ちっぱなし、エントランスに丸い照明が並んでいた。
開演は十九時。
浩二が着いた時、開演まで二十分ほどあった。
ロビーが見えた。
ガラス張りのエントランスから、中が見えた。
観客がプログラムを手に持ち、連れと何かを話しながら入っていく。
年齢層は幅広かった。
二十代の若いカップルもいれば、六十代らしき夫婦もいた。
演劇を観に来る人間の顔は、どこかに共通の何かがある、と浩二は思う。
何かを期待している、という顔だ。
これから自分の知らない時間が始まる、という、少し前のめりな顔。
浩二はエントランスの前で立ち止まった。
チケットは持っていない。
完売だった。
それでも、エントランスに入ることはできた。
ロビーには入れる。
チケットを見せる必要があるのは、ホールの入り口だ。
浩二は自動ドアを抜けて、ロビーに入った。
受付の女性スタッフが「いらっしゃいませ」と言った。
浩二は「少し中を見ていいですか」と言った。
「どうぞ」
それだけで済んだ。
開演のベルが鳴って、客がホールの中に吸い込まれていった。
ロビーが静かになった。
スタッフが数人、所定の位置に立った。
ホールの重いドアが閉まった。
浩二はロビーのソファに座った。
プログラムが一部、ソファの脇のラックに置いてあった。
手に取った。
公演のタイトル、キャスト、スタッフ一覧。
「木村光」の名前があった。
プロフィール欄に、顔写真と経歴が載っていた。
四十八歳、と書いてある。
その横の写真は、舞台の稽古場で撮ったものらしく、台本を持って何かを笑っている木村の横顔だった。
笑い方が、大学の頃と変わっていなかった。
浩二はプログラムを閉じて、ラックに戻した。
九時前後に、幕間のベルが鳴った。
重いドアが開いて、客が流れ出してきた。
浩二は立ち上がって、ロビーの端に移動した。
流れてくる人の顔を見た。
分かった。
説明しにくいが、分かった。
いい舞台を観た後の顔というのがある。
興奮しているのとも違う。
感動しているのとも少し違う。
何か、自分の中にあった鍵のかかった引き出しを、誰かに開けられてしまったような、少し困惑したような、でも不快ではない、という顔だ。
その顔をした人間が、ドアから出てくるたびに増えた。
「すごかったね、やっぱり」と若い女性が連れに言っていた。
「最初の場面から、もう」と連れが答えた。
別の二人連れが近くを通った。
中年の男性と、同じくらいの年齢の女性。
「木村さん、初めて観たけど」と男性が言った。
「どう?」
「ああいう間の作り方、初めて見た気がする。台詞の間に、空気が変わる感じ」
浩二は前を向いたまま、動かなかった。
台詞の間に、空気が変わる。
地方紙のコラムに書いてあった。
「台詞の間の使い方に定評がある」と。
読んだのは活字だった。
今、その言葉が、見知らぬ人の口から出てきた。
この人は木村を知らなかった。
今日初めて観た。
それでも同じことを言った。
二十七年前、稽古場の石壁に当たって戻ってくる声が、記憶の中にある。
それが今夜、この三百席のホールで、三百人に向けて同じように届いている。
浩二は視線を窓の外に向けた。
外は夜だった。
駐車場の照明が白く光っていた。
幕間は十五分だった。
浩二はその十五分、ロビーを流れていく客の顔を見ていた。
笑っている人、何かを考えている人、隣の人と感想を交わしている人。
その全員が、今夜の木村の舞台を観ている。
自分だけが観ていない。
再開のベルが鳴った。
客がホールへ戻り始めた。
ドアの前でもぎり係がチケットを確認していた。
浩二は動かなかった。
後半だけのチケットを当日売りで出すことがある、と聞いたことがあった。
受付に聞けばよかった。
でも聞けなかった。
チケットを手に入れて、あの重いドアを開けて、暗い中に入って、木村の舞台を観る、という自分を、今夜の浩二は想像できなかった。
できなかった、というより——
したくなかった、のかもしれない。
観てしまったら、何かが変わる。
何かが変わることを、今夜の自分はまだ、用意できていなかった。
最後の客がホールに消えた。
ドアが閉まった。
ロビーが、また静かになった。
スタッフが浩二に気づいて、少し視線を向けた。
浩二はソファから立ち上がって、エントランスの方へ歩いた。
外は冷えていた。
十二月の夜の空気が、頬に当たった。
浩二はコートの前を合わせて、駅の方向へ歩き始めた。
しばらく歩いて、立ち止まった。
振り返ると、劇場の外壁が見えた。
コンクリートの打ちっぱなしの壁に、公演のポスターが貼ってあった。
遠くて読めなかったが、木村光の名前が載っているはずだった。
あの壁の向こうで、今も舞台が続いている。
木村の声が、三百人に届いている。
浩二はポケットに手を入れた。
手が冷えていた。
「台詞の間に、空気が変わる」と、今夜初めて木村を観た男性が言っていた。
浩二には、その場面が分かった。
ホールに入っていなかったが、分かった。
どの場面で木村の「間」が入るか。どのタイミングで客席が息を止めるか。
二十七年前の稽古場で、あの声が石壁に当たって戻ってくる感覚を、浩二の体は覚えていた。
だから、観なかったのかもしれない。
観なくても、分かってしまうから。
浩二は前を向いて、また歩き始めた。
駅のホームのベンチに座って、電車を待った。
スマホを開いた。
木村のSNSをひとつ、確認した。
公演初日のレポートが更新されていた。
稽古場から撮った写真と、短い言葉。
「声が届くといいな、と思いながら立っている。それだけで、十分な気がする。」
浩二はその言葉を三回読んだ。
新聞のコラムを三回読んだ夜を、思い出した。
「いいね」のボタンは、押さなかった。
スマホをポケットに戻して、電車を待った。
ホームに風が吹いていた。
冷たかったが、不快ではなかった。
電車が来た。乗った。
帰り道の四十分間、浩二は窓の外を見ていた。
暗い車窓に、時々、自分の顔が映った。
四十九歳、融資部長の顔。
その顔をしながら、ロビーで見た客の顔を、交互に思い出した。
引き出しを開けられたような、少し困惑した、でも不快ではない、あの顔を。
浩二も同じ顔をしていたかどうか、分からない。
ただ、胸の奥に、今夜、何か温度のあるものが残っていた。
それが何かを、家に帰るまでの間、ずっと考えていたが、名前がつかなかった。




