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第10話「澄江の過去」

 一月の最初のボランティアの日は、空気が違った。


 年が明けると光の角度が変わる。

 同じ廊下でも、冬の光が窓から入る時、細くなる。

 さくら苑の廊下も同じだった。

 一月の午前、窓から入る光が床に細い長方形を作っていた。

 その長方形の端に、香川澄江の椅子があった。


「また来ましたね」と澄江は言った。

「来ました」と浩二は言った。

「文化祭まで、あと一ヶ月です」

「知っています」

「考えましたか」

 浩二は少し間を置いた。

「考えています」

「まだ答えが出ませんか」

「まだです」


 澄江は何も言わなかった。

 判断しているのでも、急かしているのでもない顔だった。

 待っている、とも少し違う。

 ただ、そこにいる顔だった。

 しばらくして、浩二は廊下の端の壁に背を預けた。

 いつも立ったままの場所で、今日は少しだけ楽な姿勢にした。

 澄江もそれを特に言わなかった。

「一つ、聞いてもいいですか」と浩二は言った。

「どうぞ」

「先生が出られなかった舞台というのは、どんな舞台だったんですか」

 澄江の目が、浩二を見た。

 それから窓の外の細い光に向いた。

「池田から聞きましたか」

「いいえ。あなたが以前、演じられなかった役がある、という顔をした時に」

 澄江は少しの間、黙った。

「顔に出ましたか」

「少し」

「歳を取ると隠せなくなる」と澄江は言った。

 独り言のように。

 それから、正面を向いた。

「オフィーリアです」

 オフィーリア。


 浩二は動かなかった。

 ハムレットの中の、オフィーリア。

 狂乱の場面と、花と、水の中に沈む場面。

 ハムレットの物語の中で最も壊れやすい、最も痛ましい役。

「いつのことですか」と浩二は聞いた。

「三十四歳の時です」と澄江は言った。

「今から、四十八年前になります」


 澄江は視線を手元に落とした。

 膝の上に置いた自分の手を見た。

「私はずっと、その役を待っていました。若い頃から、いつかやると思っていた。オフィーリアというのは、若くなければ演じられない役ではないんです。三十代でも、四十代でも、やり方によっては演じられる。私はそう信じていた。信じて、準備していた」

「三十四歳の時に、機会が来たんですか」

「来た、と思っていました」澄江の声は静かなままだった。

 乱れていなかった。

 長い時間をかけて整理された言葉の、その整理の跡だけが、声に残っていた。

「あの頃の私は、ある演出家と組んでいました。その演出家がハムレットを手がけることになり、オフィーリアを誰にするか、という話が出て——私の名前が候補に上がった」

「それが」

「決まらなかった。理由は三つありました」


 澄江は指を一本立てた。

「一つは、怪我です。右の手首を稽古中に傷めました。大したことではなかったが、演出家が慎重になった。全力で動ける状態かどうか、と」

 指をもう一本。

「二つ目は、タイミングです。公演の時期が前倒しになった。私が完全に回復するより早く、本番が来ることになった」

 三本目。

「三つ目は、人間関係です」

 そこで、澄江は少し止まった。

「演出家には、別の女優がいました。個人的に。その女優も候補にいた。演出家がどちらを選ぶか——演技ではなく、そちらの理由で選ぶかもしれない、という話が、周囲の間で出ていた」

「それで」

「その女優が選ばれました」


 廊下が静かだった。

 遠くで、多目的室の音楽レクリエーションの音がしていた。

 田所のタンバリンが、今日も元気よく鳴っていた。

 その音が、この廊下に届いていた。

「怪我は治りました」と澄江は続けた。

「演出家との関係も、その後変わりました。タイミングの問題も、別の公演では解消された。だから周囲は言いました。——仕方なかったね、と。条件が重なってしまったね、と。次の機会があるよ、と」

「次は来なかったんですか」

「来ませんでした」澄江はまっすぐ浩二を見た。

「正確に言えば、似た機会は来ました。オフィーリアではない役が、何度も。それなりの仕事も、しました。でも、あの役ではなかった」

「それが、納得できなかった」

「『仕方なかった』という言葉が」澄江の声が、わずかに低くなった。

「三つ理由があれば、仕方ないんですか。怪我も、タイミングも、人間関係も、どれも完全に私のせいではない。だから、仕方ない。——そうですか」


 浩二は答えなかった。

「仕方なかったかもしれない」と澄江は言った。

「でも、それで納得できるかどうかは、別の話。私は今も、納得していません。八十二歳になっても、していない。それは正しいことではないかもしれない。みっともないかもしれない。でも、本当のことです」

 浩二の口の中に、言葉が来た。

 ——よくある話ですね。

 来た瞬間に、飲み込んだ。

 飲み込みながら、「よくある話」ではないと思った。

 いや、よくある話なのかもしれない。

 でも、そう言えなかった。

 澄江の話が「よくある話」なら、自分の話も同じだ。

 同じ言葉で括られる話が、自分の中にある。

 その話を、浩二は誰にも言ったことがなかった。


「坂本さん」と澄江が言った。

「はい」

「あなたも、同じですか」

 浩二は窓の外を見た。

 一月の細い光が、床の長方形をほんの少し動かしていた。

「似ているかもしれません」と浩二は言った。

「似ている、というのは遠回しな言い方ですね」

「そうかもしれません」

「なぜ遠回しにするんですか」

 浩二は少し考えた。

「言いたくないのか、言えないのか、自分でも判断できないので」

 澄江は何も言わなかった。


 しばらく、二人とも黙っていた。

 廊下の向こうで、レクリエーションが終わりに近づいているのか、拍手の音がした。

 田所が誰かと笑っている声も、かすかに聞こえた。

「文化祭の話ですが」と澄江が言った。

「はい」

「私が選んだ演目は、短い二人芝居です。台詞は三十行ほど。稽古は三回もあれば十分だと思っています」

「そうですか」

「オフィーリアではありません」澄江はわずかに口の端を動かした。

「私の年齢では、さすがに無理がある」

「先生の年齢でも、十分な役はあると思いますが」

「お世辞は要りません」と澄江は言った。

 でも、その言い方は、嫌ではなかった。

「相手役の返事を」と澄江は続けた。

「来月のボランティアの日までには、いただけますか」

「考えます」と浩二は言った。

「先月も同じことを言いました」

「今月も、そう言っています」

 澄江は少しの間、浩二を見た。

 それから目を窓の外に向けた。

「考える、という答えが続く限り、私は待ちます」と澄江は言った。

「断ったわけではないから」

 浩二は頷いた。


 それからしばらく、二人はそこにいた。

 澄江が窓の外の光を見ていた。

 浩二も同じ方向を見た。

 一月の細い光が、廊下の床をゆっくり動いていた。

「先生」と浩二は言った。

「なんですか」

「オフィーリアを演じていたら、どんな舞台になっていたと思いますか」

 澄江は少し黙った。

「分かりません」とやがて言った。

「分からないから、四十八年経っても手放せない。分かっていたら、もう少し楽だったかもしれない」


 浩二は何も言わなかった。

 分かる、と思った。

 声に出さずに、分かる、と思った。

 多目的室から人が出てくる気配がした。

 浩二は「失礼します」と言って、澄江に頭を下げた。

 澄江は頷いた。


 廊下を歩きながら、浩二は「言いたいのか、言えないのか、判断できない」と先ほど自分が言った言葉を、もう一度反芻した。

 正確ではなかった、と思った。

 言えないのではなかった。

 言う相手が、今まで、いなかっただけだ。

 でも今、言える相手が、廊下の端の椅子にいる。

 それに気づいたのが、この廊下での今日の、一番の出来事だった。

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