第11話「田所のコーヒー」
一月は、融資の季節だ。
年度末を前に、資金繰りを整えたい企業が動く。
申し込みが増え、審査が増え、判断が増える。
浩二の机の上には常に三件から四件のファイルが積まれていた。
書類の量は問題ではなかった。
問題は、その中に一件だけ、答えを出すのが難しいファイルがある、ということだ。
今月のそれは、小さな印刷会社だった。
業歴は三十二年、先代から引き継いで現社長で二代目。
従業員は八名。
売上は減少傾向にあって、直近二期が赤字。
担保は少ない。
ただ、受注の内訳を見ると、地域の印刷需要の中で特殊な分野に強みを持っていた。
他が参入しにくい、年配の職人が必要な仕事。
今の社長はその技術を持っている。
あと十年持つかどうかは分からないが、少なくとも今は持っている。
問題は、数字だけ見れば、融資は難しい、という結論になることだ。
浩二は朝、そのファイルを開いた。
決算書を見た。
キャッシュフローを確認した。
もう一度、受注明細を見た。
それを三回繰り返した。
答えは変わらなかった。
「難しいですか」と田所が言った。
隣のデスクから、気配だけで察したらしい。
「難しい」と浩二は言った。
「どっちに難しいですか」
「通す方向で何か手がないか、考えているが、手が少ない」
「そうですか」と田所は言い、自分の書類に目を戻した。
昼前に、印刷会社の社長・柳田が来た。
六十代、小柄で、額に深い皺がある。
浩二は応接室で向き合った。
金田が同席したが、今日は浩二が話す方が多かった。
現状の数字と、それが何を意味するかを、浩二は丁寧に話した。
感情的にではなく、しかし冷たくでもなく。
必要な言葉を、必要な順番で。
柳田が黙って聞いた。
話が進むにつれて、柳田の顔が少しずつ変わった。
状況が伝わっている、と浩二には分かった。
受け入れている、とは言えない。
でも、逃げていない顔だった。
「現状では、申し込みの条件での融資は難しいです」と浩二は言った。
柳田は頷いた。
「ただ」と浩二は続けた。「御社の技術的な強みを数字に結びつける方法が、一つあります。今すぐではないですが、半年の準備期間があれば、別の形で話ができる可能性があります」
柳田が顔を上げた。
「詳しく聞けますか」
「どうぞ」と浩二は言った。
そこから先を話した。
応接室を出た時、金田が廊下で「よかったですね、あの提案」と言った。
「部長が突然あの方向に話を持っていくとは思わなくて」
「最初から考えていた」と浩二は言った。
「でも最初に『難しい』って言ってましたよね」
「難しいのは事実だ。別の方向が一つある、というのも事実だ。どちらも言った」
金田は少し考えてから「そういうことですか」と言い、メモを取り始めた。
昼休み、浩二は一人で自販機の前に立った。
売れ残ったような静かな廊下だった。
午後の仕事が始まる前の、十五分の隙間。
浩二は温かい缶コーヒーを一本買って、窓の外を見た。
一月の街が、白い光の中にあった。
「お疲れ様でした」と田所が来た。
いつの間に現れたのか分からなかった。
田所は浩二の隣に立って、自販機で缶を二本買い、一本を浩二の前に差し出した。
「さっきのもう飲んだんですか」
「まだだ」
「じゃあそっちは後で飲んでください」
それだけ言って、田所は自分の缶を開けた。
二人で並んで廊下の窓の外を見た。
「柳田さん、一定の手応えがあったみたいでしたね」と田所は言った。
「そうかな」
「最後に顔が変わりましたよ。希望が見えた顔になった」
「希望が見えたかどうかは、半年後に分かる」
「そうですね」と田所は言い、コーヒーを一口飲んだ。
「でも、今日の部長の話し方を聞いてて、思ったんですよ」
「何を」
「部長って、舞台俳優向きですよね」
浩二はコーヒーを一口飲もうとして、止まった。
「そんなわけない」と浩二は言った。
「いや、向いてると思いますよ。悪い意味じゃないですよ。今日の話し方、言葉の選び方、間の取り方——あれ、計算してやってますよね」
「仕事の話し方だ」
「でも普通の人は、ああいう間は取れないと思うんですよね」田所は壁に缶をかざして、少し遠くを見るような顔をした。
「相手が受け入れていく速度に合わせて、言葉の密度が変わってたじゃないですか。ちゃんと見てましたよ」
浩二は何も言わなかった。
「私が変なこと言ってますかね」と田所は言った。
「変ではない」と浩二は言った。
「でも、黙った」
「考えていた」
「何を」
浩二は窓の外を見た。
「演じてる、という言葉について」
田所は少し驚いた顔をして、「そうか」と言った。
「お前が言ったのは、演じてる、という意味で言ったのか」
「褒め言葉のつもりだったんですけど。人を動かす話し方ができる、という意味で」
「そうか」と浩二は言った。
「ただ、その言葉は、少し引っかかった」
田所はしばらく浩二を見た。
それから前を向いて、コーヒーを飲んだ。
「部長、最近ちょっと違いますよね」と田所は言った。
「何が」
「なんとなく。うまく言えないんですけど。ボランティアが始まってから、というか——何か引っかかってるものがある感じ」
「いつもある」
「いつもよりある感じ、ですかね」田所はそう言って、少し笑った。
「気のせいかもしれないですけど」
「気のせいかもしれない」と浩二は言った。
「でも、演じてる感じがしない時の方が少ないですよね」
浩二は田所を見た。
田所は真面目な顔で前を向いていた。
「部長が、演じてないな、という顔をするのって、あんまり見たことなくて。今日の柳田さんへの話は、計算しながら演じてる感じがしたんですけど——それとはまた別の、計算なしに素が出てる瞬間が、最近、ちょっとある気がして」
「いつだ」と浩二は聞いた。
「さくら苑から帰ってくる時、ですかね。あと、息子さんの話が出た時。なんか、一瞬、違う顔になる」
浩二は缶コーヒーを持ったまま、動かなかった。
「田所」
「はい」
「お前は、気がつきすぎる」
「よく言われます」と田所は言い、自分の空き缶を自販機のゴミ箱に捨てた。
「邪魔でしたら言ってください。余計なことを言うのが癖で」
「邪魔じゃない」と浩二は言った。
「ただ、答えを持っていないから」
「答えは要りませんよ」と田所は言った。
「そういう話ってそういうもんじゃないですか」
それだけ言って、田所は「午後もよろしくお願いします」と頭を下げて、廊下を歩いていった。
浩二は一人残って、窓の外を見た。
温かいコーヒーが二本、手元にあった。
一本は自分で買った。
一本は田所が置いていった。
どちらも同じくらいの温度だった。
演じてる感じがしない時の方が少ない。
田所はそう言った。
浩二は自分が、いつ演じていないかを考えた。
思い返した。
さくら苑の廊下で澄江と話している時。
体育館の外壁に背を預けて悠樹の声を聞いていた時。
隣県の劇場のロビーで、客の顔を見ていた時。
そして——深夜の書斎で、暗い部屋に向かって「俺はここが好きだった」と声に出した夜。
それだけだった。
それだけしか、なかった。
四十九年生きて、演じていない時間がそれだけだ、というのが、正しいのかどうか、浩二には判断できなかった。
ただ田所に言われるまで、考えたことがなかった。
考えなかったのではなく、考えないことにしていたのかもしれない。
コーヒーを一口飲んだ。
冷め始めていた。でも、飲み切った。
もう一本も、飲んだ。田所の分も。
温かいうちに。




