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第12話「木村光、現る」

 二月。

 雪の降る日だった。

 路面に積もるほどではないが、空気が鋭く冷え込み、自動ドアが開くたびに銀行のロビーの空気が震えた。


「部長、少しよろしいですか」金田が浩二のデスクにやってきた。

 手にしているのは新規の融資相談のファイルだった。

 困惑した顔をしていた。

「どうした」

「先週から何度か面談しているんですが、話が噛み合わなくて」

「業種は」

「舞台の制作会社です。小規模な劇団の運営母体なんですが、次の公演のつなぎ資金として五百万円の融資希望で。ただ、売上予測の根拠が曖昧で……数字の話をしているのに、ずっと『作品の熱量』とか『観客の動員ポテンシャル』とか、そういう話にしかならなくて」


 浩二はファイルを受け取った。

 法人名。

 代表者名。

 直近三期の決算書。

 パラパラとめくりながら、浩二は言った。

「舞台の興行は水物だ。過去の動員実績と、今回の劇場のキャパシティ、それにチケット単価。そこから最悪のシナリオでの想定売上を割り出して、それでも返済原資が回るかどうかだ。熱量は担保にはならない」

「そう言っているんですが、どうしても『この台本なら絶対に当たる』の一点張りで。どうも私では説得しきれないというか」

「代わろう」


 応接室の三番。

 浩二はドアの前に立ち、小さく息を吐いた。

 相手が誰であれ、やることは変わらない。

 相手の夢を数字という冷たい現実に翻訳し、可能か不可能かを提示する。

 それが銀行員の仕事だ。

 ドアをノックし、中に入った。

「お待たせしました。融資部長の坂本です」


 ソファに座っていた男が、ゆっくりと立ち上がった。

 逆光気味の窓を背にして、その男は立っていた。

 黒いタートルネックのセーターに、くたびれたツイードのジャケット。

 長身で、少し肩が落ちた立ち姿。

 顔を見る前に、浩二の心臓が不自然なリズムを打った。

 空気が、一瞬にして二十七年前のあの楽屋に戻ったような感覚があった。

 男が顔を向けた。

 目元の深い皺。

 少し白髪の混じった髪。

 しかし、その瞳の奥にある射抜くような光は、二十七年前と何も変わっていなかった。

 木村光。


 浩二は立ち止まった。

 足が床に縫い付けられたように動かなかった。

 喉の奥が干上がり、さっきまで完璧に機能していた銀行員としての思考回路が、完全に止まった。

 木村もまた、浩二を見ていた。

 数秒の沈黙。

 応接室の中だけ、真空になったかのようだった。

「……浩二か」

 木村の声だった。

 低く、よく響き、空気を震わせる声。

 二十七年前、ハムレットの主役を持っていった、あの声。

 金田が驚いて木村と浩二を交互に見るのがわかった。


 浩二は、息を吸った。

 ゆっくりと、肺の底まで冷たい空気を入れ、そして、自分を「融資部長」という殻に閉じ込めた。

 演じる必要があった。完璧に。

「坂本です」と、浩二は言った。

 木村の目が少し細められた。

「ああ。坂本部長、か」

「お座りください」と浩二は促し、自分も対面のソファに腰を下ろした。

 金田が隣に座り、手帳を開いた。

 テーブルを挟んで、二人が向き合う。

 二十七年ぶりの再会が、融資相談室という無機質な空間で起きている。

 そのシュールさに、浩二は少しだけ眩暈を感じた。

 だが、顔には一切出さなかった。


 浩二は金田から受け取ったファイルを開いた。

「株式会社フロントライン。次の公演の制作資金として、五百万の融資をご希望ですね」

「そうだ」木村はソファの背もたれに深く寄りかかり、浩二を見た。

「うちの劇団の十周年記念公演だ。劇場もいつもより一回り大きいところを押さえた。絶対に当たる」

「絶対、という言葉は銀行では使えません」浩二は平坦な声で言った。

「決算書を拝見しました。直近二期、わずかですが赤字が続いています。今回の公演の予算案も見ましたが、広告宣伝費と舞台美術費が前回公演の二倍に膨らんでいる。これでは、仮にチケットが完売しても、利益はほとんど出ない計算になります」


 木村は少し笑った。

 昔と同じ、少し斜めに構えた笑い方だった。

「利益を出すために芝居を打ってるわけじゃない。最高のものを観客に見せるためだ。そのために必要な金だ」

「それは芸術家の理屈です。我々は事業として融資の可否を判断します。返済の確証がないものに、お金は貸せません」


 浩二の言葉は正確だった。

 だが、普段よりも少しだけ硬かった。

 言葉の端々に、無意識の棘があった。

 木村は浩二から目を逸らさなかった。

「相変わらずだな、お前は」

 金田が手帳から顔を上げた。

「どういう意味ですか」と浩二は言った。

「理屈ばかり並べて、一番大事なものを見ようとしない。あの頃と何も変わってない」

「木村さん」

 浩二は、その名前を口にする時、声のトーンを落とした。

「ここは銀行です。過去の話をする場所ではありません。数字の根拠を示せないなら、この話はここまでです」


 木村はゆっくりと身を乗り出した。テーブルの上に両肘をつき、浩二の顔を覗き込んだ。

「数字の根拠? そんなもの、幕が開いて客が泣くのを見ればわかる。俺たちの芝居には、それだけの力がある。お前だって、知ってるはずだろう?」

 浩二は黙った。

 知っている。

 木村の芝居がどれほど人の心を動かすか。

 その声が、どれほど残酷に他者を圧倒するか。

 誰よりも、自分が一番よく知っている。

 腹の底から湧き上がる黒い感情があった。

 嫉妬。

 悔恨。

 そして、逃げ出した自分への怒り。

 それを抑え込むのに必死だった。

「知りませんね」と、浩二は言った。

「私は、数字しか見ないので」


 木村はしばらく浩二の目を見つめていた。

 やがて、短く息を吐き、立ち上がった。

「わかった。今日は帰る。だが、諦めるつもりはない。もう一度、完璧な事業計画書を作って持ってきてやる。お前が文句のつけようがないやつをな」

 木村はドアに向かって歩き出し、途中で立ち止まって振り返った。

「なあ」

 浩二は顔を上げた。

「お前、ずっとそんな顔して生きてきたのか?」

 浩二の心臓が、大きく鳴った。

「……何の話ですか」

「ならいい」


 木村はそのまま部屋を出ていった。

 ドアが閉まる音が、ひどく大きく響いた。

 応接室には、浩二と金田だけが残された。

 金田が恐る恐る口を開いた。

「部長……お知り合い、だったんですか?」

「昔の同級生だ」と浩二は言った。

「そうだったんですか。でも、全然そんな感じが……」

「仕事だからな」


 浩二はファイルを閉じ、立ち上がった。

 金田が先に部屋を出るのを待ち、浩二は少しだけ、応接室に一人で残った。

 ソファのくぼみ。

 木村が座っていた場所。

「浩二か」と言われた時、本当は、どう返したかったのか。

「久しぶりだな」と言えただろうか。

 言えなかった。

 二十七年間、一度も口にしなかった感情が、今になって泥のように底からかき混ぜられていた。

 浩二は深く息を吐き出し、応接室の電気を消した。

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