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第13話「本当のことを言う男」

 午後六時。

 銀行の通用口から外に出ると、昼間にちらついていた雪はもう止んでいた。

 だが、足元から這い上がってくるような寒さは、むしろ夕暮れと共に鋭さを増していた。

 浩二はコートの襟を立て、吐く息の白さに目を細めながら駅へ向かって歩き出そうとした。


「遅いな、銀行員」

 街灯の影から、声がした。

 振り向かなくてもわかった。

 二十七年経っても、その声の響き、空気の震わせ方を、浩二の耳は正確に記憶していた。

 影からゆっくりと歩み出てきたのは、木村光だった。

 昼間、応接室で着ていたツイードのジャケットの上に、くたびれたウールのコートを羽織り、ポケットに両手を突っ込んでいる。

 肩をすくめながら、木村は浩二の前に立った。


「……何の用だ。融資の件なら、もう話したはずだが」

 浩二は、可能な限り平坦な声を装った。

 だが、その声は冷たい空気の中で、ひどく虚しく響いた。

 木村は小さく鼻で笑った。

「融資の話じゃねえよ。少し付き合え」

「断る。帰るところだ」

「五分でいい。いや、十分だな」

 木村は浩二の言葉など最初から聞いていないように、駅とは反対の方向へ顎をしゃくった。「そこの角を曲がったところに、昔ながらの喫茶店があったろ。あそこでいい」

「おい」

「来るまで待ってるぞ、俺は。明日も明後日も、銀行の前に立っててやろうか」

 脅しでも冗談でもなく、本気でやりかねない男だ。

 学生時代から、こいつのこういう強引なところは何も変わっていない。

 浩二は小さく舌打ちをし、周囲に銀行の関係者がいないことを確認してから、木村の背中を追った。


 二十七年ぶりの再会。

 それは昼間の、無機質な応接室で終わったはずだった。

 あの完璧な「融資部長」という鎧を着たまま、全てを終わらせるべきだった。

 木村の背中を見ながら歩くこの数分間だけで、浩二は、自分の中に築き上げてきた堅牢なダムに、無数のヒビが入っていくのを感じていた。

 角を曲がった路地裏にあるその喫茶店は、昭和の時代から時間が止まっているような場所だった。

 カラン、と古びたベルが鳴り、焙煎された珈琲豆の深い香りと、長年染み付いた煙草のヤニの匂いが混ざった空気が二人を包んだ。

 客は、奥の席に新聞を広げている老人が一人いるだけだった。

 一番奥の、臙脂色のベルベットが張られたボックス席に二人は向かい合って座った。


「ブレンドを二つ」木村が勝手に注文した。

 浩二は何も言わず、テーブルの上に置かれた真鍮のシュガーポットを見つめていた。

 沈黙が落ちた。

 昼間の応接室にあったような「銀行員と客」という明確な境界線は、ここにはない。

 古いジャズが低い音量で流れるこの薄暗い空間で、浩二はただの四十九歳の男として、かつての親友の前に引きずり出されていた。


「……お前」

 先に口を開いたのは木村だった。

 運ばれてきた珈琲を一口飲み、カップをソーサーに戻す。

「本当に、ただの銀行員になっちまったんだな」

 その言葉の裏にある響きを探るように、浩二は木村を見た。

「立派な職業だ。お前のように、いつまでも夢を追いかけているわけにはいかなかった」

「夢、ね」

 木村は皮肉っぽく笑った。

「そんな綺麗なもんじゃねえよ、芝居なんてのは。泥水すすって、他人の人生を勝手に借りて、それでやっと息ができる。呪いみたいなもんだ。俺はずっと、その呪いに縛り付けられたまま生きてきた」

「なら、なぜやめない」

「やめられないからだ。お前だって、知ってるだろ」


 浩二は珈琲のカップに手を伸ばした。

 指先が微かに震えそうになるのを、力で抑え込む。

「知らないな。俺は二十七年前に、全て置いてきた」

「置いてきた?」木村は目を細めた。

 その瞳の奥に、かつて舞台上で見せていたような、他者の内面を抉るような鋭い光が宿った。「お前は置いてきたんじゃない。逃げただけだろう」

「……言葉に気をつけろ」

 浩二の声が、一段低くなった。

 怒りが、抑えきれない熱を持って喉の奥から這い上がってくる。

「俺は逃げたわけじゃない。現実を受け入れただけだ。あのオーディションで、俺はお前に負けた。掲示板に貼り出されたキャスト表に、ハムレットとしてお前の名前があった。俺は選ばれなかった。それが全てだ。才能の差を突きつけられて、それでもしがみつくほど、俺は馬鹿じゃなかった」


 一気にまくし立てた浩二の言葉が、ジャズの音に溶けて消えた。

 言った後で、浩二は少し後悔した。

 こんなに感情を露わにするつもりはなかったのに。

 木村は何も言わず、ただ浩二の顔をじっと見つめていた。

 その視線が、浩二の皮膚の下にある一番脆い部分をまさぐっているようで、浩二は息苦しさを覚えた。


 やがて、木村は深く息を吐き出し、テーブルの上に両手を組んだ。

「お前、本気でそう思ってたのか?」

「何がだ」

「自分が、俺に実力で劣っていたと。だから選ばれなかったと」

「事実だろうが」

「事実じゃねえよ」

 木村の言葉は、静かだが、刃物のような切れ味を持っていた。

「お前があの時、選ばれなかった理由。……知りたいか?」

 浩二の心臓が、大きく跳ねた。

 聞きたくない、と直感が叫んだ。

 二十七年間、自分が信じ込んできた前提。

 自分が舞台を降り、スーツを着て、堅実な銀行員として生きてきた根本的な理由。

 それを根底から覆されることへの、本能的な恐怖。

「いい」

 浩二は視線を逸らした。

「今更、聞きたくない。もう済んだ話だ」

「言うよ」

 木村は逃がさなかった。

「俺はずっと、いつかお前に会ったら、これだけは言わなきゃならないと思ってた。俺の口から言うのは、最高に惨めだけどな」

 木村は珈琲に口をつけることもなく、まっすぐに浩二の目を見た。

「お前は、うますぎたんだよ」


 浩二は息を呑んだ。

 意味が理解できず、眉間に皺を寄せた。

「……何を言っている」

「言葉通りの意味だ。お前はうますぎた。というより、狂いすぎていた」

 木村は少しだけ自嘲するように笑った。

「あのオーディションの夜、お前のハムレットを見た時、俺は正直、背筋が凍ったよ。あれは演技じゃなかった。舞台の上で、お前は本当に父親を殺された狂気の王子だった。空気が淀み、息ができなくなるほどの圧迫感。審査員をやってた教授やOBたちが、お前の芝居に引き込まれるのを通り越して、恐怖を感じていたのを、俺は横で見ていてわかった」

「そんな……馬鹿なことを言うな。俺はただ、役を完璧に理解しようと……」

「だから怖かったんだよ」木村の言葉が、浩二の抵抗を容赦無く押し流していく。

「お前の熱量は、劇全体のバランスを破壊しかねなかった。学生演劇の枠に収まらない、異物みたいなエネルギーだった。他の役者がついていけない。演出家がコントロールできなくなる。だから彼らは、お前を主役に据えるのを恐れた。そして、安全で、計算できて、『そこそこ上手い』俺を選んだ。それが現実だ」


 木村は身を乗り出し、浩二の瞳の奥を覗き込んだ。

「あれは、俺が勝ったんじゃない。お前が、怖がられたんだよ」

 浩二は何も言えなかった。

 頭の中が、真っ白になっていた。

 二十七年間。

 自分には才能がないのだと、自分に言い聞かせてきた。

 木村という天才の前では、自分の演技など児戯に等しいのだと。

 だから潔く諦めるのが、大人になるということなのだと。

 そうやって自分を納得させ、経済の本を読み、銀行の試験を受け、頭を下げることを覚え、決算書の数字を読み解く術を身につけた。


 喉の奥からこみ上げてくるセリフを飲み込み、冷たい数字の世界で生きてきた。

 それが、もし。もし、木村の言う通りだとしたら。

 俺は、自分の才能に見切りをつけたのではなく、ただ世界に受け入れられなかったことに怯え、勝手に背を向けただけだったということになる。

 逃げたのだ。

 自分の本質から。

「……嘘だ」浩二の声は、掠れていた。

「お前は、俺を慰めるために……」

「慰める? ふざけんな」

 木村が突然、ドンとテーブルを叩いた。

 カップの中で珈琲が跳ねた。

 奥にいた老人が驚いてこちらを見たが、木村は気にしなかった。

「俺がどれだけ惨めな思いでこの二十七年芝居をやってきたか、お前にわかるか? 俺はな、お前のあの狂気みたいな芝居を、一度たりとも超えられたと思ったことはないんだよ。どれだけ賞をもらおうが、どれだけ客が呼べるようになろうが、あの夜のお前には勝ててない。俺はずっと、あの夜のお前の亡霊に取り憑かれたまま、舞台に立ち続けてるんだ」


 木村の顔には、痛切な苦痛が浮かんでいた。

 それは、彼もまた、二十七年間ずっと地獄を生きてきたのだという証左だった。

 勝者の顔などではなかった。

 浩二は震える手でカップを持ち上げようとした。

 だが、指先に力が入らず、カップとソーサーがガチャリと不快な音を立てた。

 諦めて手を膝の上に置く。

 珈琲は、すっかり冷めきっていた。


「……なぜ」浩二は絞り出すように言った。

「なぜ、今になってそんなことを言う」

「お前の目を見たからだ」木村は静かに言った。

「昼間、応接室でお前の目を見た。死んだような目をして、完璧な銀行員を演じてた。見事な芝居だったよ。でもな、隠しきれてなかったぞ。お前の中の、まだ燃え尽きてない何かが、俺を見て暴れ出そうとしてた」


 木村は立ち上がり、伝票を手に取った。

「俺は、お前に同情してるわけじゃない。むしろ恨んでる。俺にあんなものを見せつけておいて、自分だけさっさと安全な場所に逃げ込んだお前をな」

 財布から千円札を出し、テーブルの上に置く。

「事業計画書、ちゃんと作り直してまた持って行くからな。銀行員として、きっちり審査しろよ。……手加減したら、承知しねえぞ」

 木村はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。

 カラン、と古びたベルの音が鳴り、ドアが閉まった。

 

 喫茶店には、浩二だけが残された。

 ジャズの音だけが、変わらずに流れている。

 浩二は、テーブルの上に置かれたままの自分の珈琲を見つめていた。

 黒い水面に、歪んだ自分の顔が映っている。

 四十九歳の、白髪の混じった、くたびれた男の顔。

『お前は、うますぎたんだよ』

『俺が勝ったんじゃない。お前が、怖がられたんだよ』


 木村の言葉が、耳の奥で、頭蓋骨の裏側で、反響し続けていた。

 浩二はゆっくりと、自分の喉元に右手を当てた。

 ネクタイの結び目の奥。

 二十七年間、強引に押し込めて、蓋をして、見ないふりをしてきたもの。

 それが今、巨大な熱の塊となって、喉を焼き尽くそうとしていた。

 To be, or not to be.(生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ)

 あの日、楽屋の鏡の前で呟いた言葉。

 息子の悠樹が、今まさに暗記しようとしているセリフ。

 そのセリフの続きが、血の味と一緒に、喉の奥まで込み上げてきていた。

 浩二は、誰にも聞こえない声で、小さく喘いだ。


 目から、一滴だけ。

 自分でも気づかないうちに、熱いものが頬を伝い落ちていた。

 それは、二十七年分の痛みが、後悔が、そして抑圧されてきた熱情が、ようやく外の空気に触れて溶け出した瞬間だった。

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