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第14話「声をかけてくれた人」

 土曜日の朝。

 浩二は、クローゼットの奥から古いキャメルのセーターと、チノパンを引っ張り出した。

 銀行員になってから、休日の外出といえばゴルフか、せいぜい近所のスーパーへの買い出し程度だった。

 自分のために、自分が着たい服を選ぶという行為自体が、ひどく久しぶりな気がした。


 鏡の前に立つ。

 そこにいるのは、融資部長の坂本浩二ではない。

 スーツという完璧な装甲を脱ぎ捨てた、四十九歳の、ただの男だった。

 なんだか心もとないような、しかし同時に、何十年ぶりかに深い呼吸ができているような、奇妙な感覚だった。


 木村との喫茶店での再会から、三日が経っていた。

『俺が勝ったんじゃない。お前が、怖がられたんだよ』

 その言葉は、浩二の中で静かに、しかし確実に、全てを造り変えていた。

 自分は才能がなかったから夢を諦めたのではない。

 自分の抱える狂気のような熱量に、自分自身が怯え、世界から拒絶されるのが怖くて、自ら蓋をしたのだ。

 言い訳は、もうできなかった。


 浩二は車を出し、市外れの「さくら苑」に向かった。

 銀行のボランティアの日ではない。

 完全に個人的な訪問だ。

 冬の陽射しが、フロントガラス越しに眩しく差し込んでいた。


 さくら苑のロビーに入ると、見慣れた顔の若い介護職員、池田あかりがカウンターにいた。

 私服姿の浩二を見て、池田は目を丸くした。

「あ、坂本さん……ですよね? 今日はボランティアの日じゃ……」

「ええ。今日は個人的に伺いました」浩二は言った。

 自分の声が、いつもより一段低く、胸の奥から響いているのがわかった。

「香川澄江さんに、お会いできますか」


 池田は少し驚いた顔のまま、「はい、いつもの談話室にいらっしゃいますけど」と案内してくれた。

 廊下を歩く浩二の足音は、静かだった。

 談話室の入り口に立つ。

 窓際の、日当たりのいい特等席。

 そこに、香川澄江はいた。

 膝に薄いブランケットを掛け、外の枯木立をじっと見つめている。

 背筋はピンと伸び、その周囲だけ空気が澄んでいるように見える。

 浩二はゆっくりと近づき、その背中に声をかけた。


「香川さん」

 澄江がゆっくりと振り返った。

 浩二の顔を見て、そして彼が着ている私服を上から下まで一度だけスッと見極めるように眺め、それから言った。

「今日は、スーツという名の着ぐるみは脱いできたのね」

 相変わらず、容赦のない観察眼だった。

 浩二は微かに笑った。

 愛想笑いではなく、自然な笑みがこぼれた。

「ええ。今日は、銀行員として来たわけではありませんから」


 浩二は澄江の真正面に立ち、まっすぐにその目を見た。

 八十二歳の、元舞台女優。

 かつて無数の観客を魅了し、怪我と不運によって不完全燃焼のまま舞台を降りざるを得なかった人。

 彼女の目の中には、まだ消え残っている熾火おきびがあった。

 そして今、浩二の中にも、二十七年間くすぶり続けていた同じ炎があった。


「文化祭の相手役」浩二は、深く息を吸い込み、喉を開いて言った。

「私に、やらせてください」

 静かな談話室に、浩二の声が響いた。

 それは、融資の条件を説明する時の平坦な声ではない。

 言葉の一つ一つに血が通い、相手の鼓膜を直接震わせるような、舞台役者の「声」だった。

 澄江は、浩二の目をじっと見つめ返した。

 五秒。十秒。

 二人の間に、目に見えない火花が散るような沈黙が流れた。

 やがて、澄江の口元が、わずかに吊り上がった。

「遅い」


 澄江は短く、切り捨てるように言った。

「私が声をかけてから、何日経ったと思ってるの。役者なら、呼ばれた瞬間に板の上に立っていなさい」

「すみません。少し……迷子になっていまして」

「二十七年間も?」

「はい」

「長すぎるわね。呆れるくらい」

 澄江はふん、と鼻を鳴らした。

 だが、その目には明らかな歓喜の色が浮かんでいた。

「でも」と、澄江は言った。

「来たわね」


 その言葉には、ただの了承以上の響きがあった。

「ずっと待っていた」という、舞台人としての執念。

 自分と同じ匂いを持つ人間が、必ず戻ってくると信じていた者の誇り。

 浩二の胸の奥が、熱く疼いた。

「ええ。来ました」

「台本は、私が頭の中で作ってあるわ。二人芝居よ。ただの朗読じゃない。ちゃんと動くし、感情もぶつけ合う。あなた、ブランクがあるからって手加減しないわよ」

「望むところです」

「声は出るの?」

 澄江が挑発するように浩二を見た。

「出します。あなたの芝居を、壊さない程度には」

「生意気ね」

 澄江が、笑った。

 皺くちゃの顔全体がほころび、少女のような、それでいて圧倒的な華やかさを持った、本物の「女優」の笑顔だった。


「えっ……!」

 入り口の方から、小さく息を呑む音がした。

 振り返ると、様子を見に来た池田あかりが、両手で口を覆って立ち尽くしていた。

 浩二が怪訝な顔をすると、池田は慌てて浩二のそばに駆け寄り、声をひそめて言った。

「坂本さん……香川さんが、笑いました……!」

「え?」

「私、ここに入社して三年になりますけど、香川さんが笑った顔、初めて見ました……! いつも怒ってるか、無視されるかだったのに……!」

 池田の目は、感動で少し潤んでいた。


 浩二は再び澄江を見た。

 澄江はもう普段の気難しい老婦人の顔に戻り、「何をコソコソ話してるの。さっさと台本の打ち合わせをするわよ。時間はあまりないの」と急かした。

 だが、その声には確かな張りと、生きるエネルギーが満ちていた。

「はい」浩二は池田に軽く頷いてから、澄江に向き直った。

「よろしくお願いします」


 談話室の窓から差し込む冬の光が、二人の足元を白く照らしていた。

 そこは、リノリウム張りのただの介護施設の床だったが、浩二には、そこが四角く切り取られた「舞台ステージ」に見えた。

 二十七年ぶりに、俺は板の上に立つ。

 浩二は、誰にも聞こえないように、心の奥底で深く息を吸い込んだ。

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