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第15話「悠樹の舞台」

 息子の通う高校の体育館は、独特の匂いがした。

 古い床ワックスの匂い。

 埃っぽい暗幕の匂い。

 そして、無数の若者たちが発する熱気と緊張感が入り混じった、文化祭特有の少し酸っぱいような匂い。


 三月の初旬。

 底冷えのする日曜日だった。

 暖房の効きが悪い体育館の空気は、足元からじんわりと体温を奪っていく。

 浩二は、パイプ椅子が等間隔に並べられた客席の中央付近に座っていた。

 隣には妻の陽子が座っている。

 膝の上にコートを畳んで置き、もらったばかりのホチキス留めの手作りのパンフレットを、真剣な顔で眺めていた。


「悠樹の出番、第三幕からだって」

 陽子が小声で言った。

「そうか」浩二は短く答え、薄暗いステージの方へ視線を戻した。

 開演前のざわめきの中で、浩二の心臓は自分でも驚くほど静かに、しかし重く打っていた。

 浩二が自分の過去——学生演劇に狂うようにのめり込み、ハムレットの主役を親友の木村光と争って敗れ、逃げるように舞台を降りたこと——を、妻である陽子に詳しく話したことは一度もない。

 陽子は結婚当初の会話の中で、浩二が「昔、少しだけ演劇をかじっていた」ことくらいは知っているはずだが、決して深くは踏み込んでこなかった。

 堅実な銀行員としての浩二しか知らないはずだった。

 だから、悠樹が突然「演劇部に入って、今度の発表会でハムレットをやる」と言い出した時の夕食の席でも、陽子はただ「へえ、すごいじゃない。セリフ覚えられるの?」と無邪気に驚いただけだった。

 浩二自身も、その時「そうか。頑張れよ」としか言えなかった。

 なぜ、よりによって演劇なのか。

 なぜ、よりによってハムレットなのか。

 血の繋がりという、目に見えない恐ろしい引力のようなものを感じずにはいられなかった。

 浩二が二十七年間、固く鍵をかけて心の奥底に埋めていたパンドラの箱を、息子が何食わぬ顔で、無防備に掘り起こしてしまったような感覚だった。


 やがて、ブザーが鳴り、体育館の照明がゆっくりと落とされた。

 暗闇の中、パイプ椅子の軋む音や、誰かの咳払いが響く。

 そして、重たい暗幕が左右に開いていった。

 舞台を照らすピンスポット。

 高校生の演劇発表会。

 大道具は段ボールにペンキを塗った手作りの城壁で、照明の切り替えも少しもたついていた。


 第一幕が始まる。

 生徒たちの演技は、やはりどこか初々しく、硬かった。

 セリフを噛む者もいれば、立ち位置を間違えてあわてて修正する者もいる。

 浩二の中にある「役者」としての厳しい目が、無意識のうちに彼らの発声や重心の置き方を採点しようとしてしまう。

 いけない、と浩二は心の中で自分を戒めた。

 これはプロの舞台ではないし、大学のコンクールでもない。

 息子の晴れ舞台なのだ。

 ただの保護者として、大らかな気持ちで見守ればいいのだ。


 だが、第三幕。

 ステージの中央に、黒い衣装に身を包んだ悠樹が現れた瞬間、体育館の空気がわずかに変わった。

 親の欲目ではなかった。

 悠樹は、決して器用なタイプではない。

 家でも口数は少なく、どちらかと言えば感情を内に秘める少年だ。

 しかし、その彼がステージの中央に立ち、客席に向けてゆっくりと顔を上げた時、そこには明確な「存在感」があった。

 周囲の空気を自分の側に引き寄せる、役者特有の引力だった。

 暗い照明の中、悠樹がゆっくりと歩き出す。

 その足取りは重く、何かに取り憑かれているかのようだった。

 そして、その唇が開かれた。


「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」

 To be, or not to be.その第一声が発せられた瞬間、浩二の呼吸が完全に止まった。

 悠樹の声は、まだ声変わりしきっていない、少し線の細い少年の声だった。

 しかし、その声には、一切の嘘がなかった。

 借り物のセリフをそれらしく喋ろうとする小手先の技術ではなく、狂気に陥った(あるいは陥ったふりをしている)王子の苦悩を、自分自身の魂の底から絞り出そうとする、生々しいまでの誠実さがあった。


『どちらの生き方が気高いのか。過酷な運命の矢弾をじっと耐え忍ぶことか、それとも怒涛の苦難に立ち向かい、戦って終わらせることか』

 悠樹のセリフが続く。

 浩二の視界の中で、ステージ上の悠樹の姿が、ふいに滲んで歪んだ。

 照明の光が拡散し、背景のチープな段ボールの城壁が消え、高校の体育館のワックスの匂いが消えた。

 代わりに浩二を包み込んだのは、強烈なスポットライトの熱と、埃っぽい大学の小劇場の匂い。

 そして、肌を刺すようなドーランの油の匂いだった。


 二十七年前。

 オーディションの前夜、誰もいなくなった楽屋の鏡の前で、たった一人でこのセリフを呟いていた若き日の自分。

 誰よりも深くハムレットを理解し、その狂気に魂まで同化しようとしていた自分。

 鏡に映る自分の顔が、まるで別人のように歪み、血の気を失い、本当の狂人の目をしていたあの夜。

『お前は、うますぎたんだよ。審査員がお前を怖がったんだ』

 木村の言葉が、耳の奥で鮮烈にフラッシュバックした。


 ステージの上で、悠樹が苦悩に顔を歪め、天を仰ぐ。

 その顔の輪郭に、二十七年前の自分の顔がピタリと重なった。

 浩二の耳にはもう、二つの声が同時に聞こえていた。

 目の前で響く悠樹の若くひたむきな声と、記憶の底から蘇ってくる、熱病に浮かされたような二十七年前の自分の声。

 二つの「To be, or not to be」が、時空を超えて共鳴し合っていた。


『……眠る。それだけのことだ。眠りによって、心の痛みも、肉体が引き受ける無数の苦悩も終わるのなら……それは願ってもない結末だ』

 悠樹の声が震えている。

 それは、大舞台に対する緊張からくるものではなかった。

 役の圧倒的な感情の波に飲み込まれそうになりながら、それでも必死に言葉の輪郭を保とうとする、魂の震えだった。

 浩二は、両手を膝の上で固く、固く握りしめていた。

 爪が手のひらに食い込み、血が滲むのではないかと思うほど強く。


 逃げた自分。

 圧倒的な才能と狂気を抱え込みながら、世界から拒絶されることに怯え、安全な銀行員という道に逃げ込んだ自分。

 狂うことを恐れ、正気を装い、数字と帳尻を合わせるだけの毎日に自分を縛り付けてきた。

 だが今、目の前で、自分の血を分けた息子が、逃げずにそこに立っている。

 何百人もの観客の視線という暴力に晒されながら、自分の内面にある最も脆くて痛い部分を曝け出し、言葉に変えて客席に届けようとしている。

 恐怖に打ち勝ち、板の上に立っている。


 お前は、すごいな。

 浩二は心の中で呟いた。

 お前は、あの時の俺より、ずっと強い。

 悠樹のセリフが、クライマックスに向けて熱を帯びていく。

 浩二の視界は、すでに完全に歪んでいた。

 目頭が熱く、視界の端で光がチカチカと点滅していた。

 泣いてはいけない。

 ここで父親が涙を見せるのは、息子の真剣な芝居に対して失礼だ。

 これは悲劇であって、お涙頂戴のメロドラマではないのだ。

 浩二は必死にまばたきをして、涙を押し留めようと奥歯を噛み締めた。

 だが、胸の奥底からこみ上げてくる巨大な熱の塊は、どうしようもなく浩二の喉を塞ぎ、呼吸を浅くさせた。

 二十七年間、無意識のうちに喉の奥に堰き止めていた感情が、決壊しようとしていた。


 その時だった。

 浩二の、膝の上で硬く握りしめられていた右手に、柔らかな温もりが重なった。

 陽子の手だった。

 浩二はハッとして、隣を見た。

 陽子は浩二の方を見ていなかった。

 その視線はまっすぐにステージ上の息子に向けられている。

 だが、彼女の左手は、浩二の強張った右手を、包み込むように優しく、そして力強く覆っていた。

 陽子は何も言わなかった。

「大丈夫?」とも「泣いてるの?」とも聞かなかった。

 ただ、その手の温もりが、浩二の全てを肯定していた。


 浩二がかつて舞台を目指し、そして夢破れて絶望したこと。

 その過去を隠して、不器用ながらも必死に「夫」として「父親」として、そして「銀行員」として、この二十七年間を這いずるように生き抜いてきたこと。

 陽子は、浩二の過去の全てを知っているわけではないかもしれない。

 だが、結婚してからの二十数年、浩二が時折見せる遠い目や、夕食の席で言葉を飲み込む瞬間の影を、一番近くで見てきたのは彼女だ。

 陽子は、浩二が今、言葉にできないほどの巨大な感情のうねりの中にいることだけは、正確に察知していた。

 だからこそ、言葉ではなく、ただ触れることで「私はここにいるよ」と伝えてくれたのだ。

 その無言の優しさに触れた瞬間、浩二の肩から、二十七年間背負い続けてきた見えない重い枷が、ふっと外れ落ちるのを感じた。

 こらえていたものが、音を立てて崩れた。

 一筋の涙が、浩二の頬を伝って落ちた。

 陽子の手の下で、浩二の右手の力がゆっくりと抜け、代わりに陽子の指を静かに握り返した。


『……決心の本来の色合いも、物思いという青白い病のせいで病み衰え、大いなる企ても、いつしか流れを逸れて、行動の名を失ってしまうのだ』

 悠樹の独白が終わった。

 静寂。

 体育館全体が、一人の少年の発した言葉の余韻に完全に支配されていた。

 数秒の深い沈黙の後、誰かが拍手を打った。

 それを合図にしたように、客席から割れんばかりの拍手が沸き起こった。

 浩二は、陽子の手の下からゆっくりと自分の手を引き抜き、そして、顔の前で両手を合わせた。

 痛いほどに強く、何度も、何度も手を打ち鳴らした。

 ステージの上で、悠樹が深く一礼し、暗幕の奥へと消えていく。


 拍手をしながら、浩二は明確に自覚していた。

 終わったのだ、と。

 逃げ続けてきた過去への未練も、木村に対する複雑な感情も、自分自身への言い訳も。

 息子が、見事に演じ切ってくれた。

 二十七年前に浩二が置いてきた亡霊を、悠樹がその若く純粋な声で、完全に浄化してくれた。

 もう、過去を振り返る必要はない。

 俺には、俺のステージがある。


 浩二は涙を拭うこともせず、まっすぐに前を見た。

 その瞳には、かつてないほどの澄み切った光が宿っていた。

 明日からは、さくら苑での稽古が本格的に始まる。

 香川澄江という、最高の相手役が待っている。

 浩二の耳の奥では、すでに自分の舞台の幕が開く音が、静かに、しかし力強く鳴り響いていた。

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