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第16話「楽屋の鏡」

 さくら苑の多目的室は、普段は入居者たちが折り紙をしたり、軽い体操をしたりするための場所だ。

 壁際には長机が片付けられ、部屋の中央にぽっかりと四角い空間が空いている。

 夕食後の静まり返った施設内で、蛍光灯の白い光だけがその空間を無機質に照らしていた。


「違う。そこはもっと間を詰めて」

 パイプ椅子に座った香川澄江が、手元の分厚い大学ノートを叩きながら言った。

「はい」

 浩二は台本——澄江がノートに手書きで記した数ページ分のセリフの束——に視線を落とし、小さく頷いた。


 息子の発表会が終わってから、浩二の生活は一変した。

 銀行での業務を終えると、定時でまっすぐにさくら苑へ向かう。

 ネクタイを外し、シャツの袖をまくり上げ、この多目的室で澄江との稽古に没頭する。

 文化祭の本番まで、もう二週間を切っていた。


 澄江が用意した台本は、奇妙な二人芝居だった。

 舞台はある古い駅の待合室。

 何かを「置き忘れてきた」老女と、何かを「探しに来た」中年の男が、最終電車を待ちながら言葉を交わす。

 固有名詞は一切出てこない。

 二人の関係性すら曖昧なまま、ただ静かに、だがヒリヒリとした緊張感を伴って会話が進行していく。

 明らかに、澄江自身と浩二の人生が投影されている当て書きだった。


「もう一度、頭から」澄江の合図で、浩二は部屋の端から歩き出す。

 男が待合室に入り、ベンチに座る老女に声をかけるシーン。

『こんな夜更けに、電車はもう来ませんよ』浩二が言う。

『来るわ。私の時計は、まだ止まっていないもの』

 澄江が返す。

 セリフのやり取りが続く。

 しかし、途中で澄江の言葉がふっと途切れた。

 八十二歳という年齢の壁だ。

 全盛期の記憶力はない。

 時折、セリフがすっぽりと頭から抜け落ちてしまうことがある。


 浩二は、一秒だけ待ってから、自然な流れで自分のセリフを少しアレンジして繋いだ。

『あなたの時計は、ずいぶん長いこと同じ時間を指しているようですが』

 澄江が思い出すための「助け舟」を、芝居を止めずに出した。

 だが、澄江はそれに乗らなかった。

「ストップ」澄江は不機嫌そうに手を挙げた。


 浩二は立ち止まった。

「すみません、少しテンポが早かったですか」

「あなたのテンポの話じゃないわ」

 澄江はノートを机に置き、鋭い目で浩二を睨みつけた。

「あなた、今、私に合わせて手加減したわね」

「……セリフが、飛んだように見えたので」

「飛んだわよ。完全に忘れてたわ」

 澄江は堂々と言い放った。

「だからって、なぜあなたが私を庇うような芝居をするの」


 浩二は返答に窮した。

 無意識だった。

 銀行で部下をフォローする時や、認知症の入居者に接する時の「大人の対応」が、そのまま芝居に出てしまっていた。


「あなた、今、相手役じゃなくて『優秀な介護士』の顔になっていたわよ」

 澄江の言葉は容赦がなかった。

「私はね、ボランティアの慰問劇をやりたいわけじゃないの。いいおじさんが、可哀想なお婆ちゃんのお遊戯に付き合ってあげてます、なんて芝居、吐き気がするわ。私が求めているのは、火花が散るような本物の『舞台』よ」


 浩二は黙って澄江を見つめた。

 木村が言っていた

『怖がられた声』。

 二十七年前のあの日から、自分は本当にその声を解放できているのだろうか。

 息子を見て過去と決別したつもりになっていたが、いざ自分が板の上に立つと、まだ無意識に「常識的な銀行員の坂本浩二」という安全網セーフティネットを張っているのではないか。


「……申し訳ありません」

 浩二は深く頭を下げた。

「もう一度、お願いします」

「次、手加減したらクビよ」

 澄江はそう言い捨てると、ゆっくりと立ち上がった。

「私も立つわ。座ったままだと、どうも腹に力が入らないの」


 八十二歳の老婦人が、杖もつかずに多目的室の中央に立つ。

 蛍光灯の下、リノリウムの床。

 だが、澄江がスッと背筋を伸ばし、顎を引いた瞬間。

 多目的室の空気が、急激に冷え、そして張り詰めた。

 浩二は息を呑んだ。

 目の前にいるのは、車椅子に乗っていた気難しい老婦人ではない。

 かつて帝劇の舞台のど真ん中で、数千人の観客の視線を一身に浴びていた、全盛期の『香川澄江』の幻影がそこに立ち上がっていた。

 肉体の衰えなど関係ない。

 細胞の奥底に刻み込まれた舞台人としての圧倒的なオーラが、物理的な空間を歪めていた。


「行くわよ」

 澄江が口を開いた。

『来るわ。私の時計は、まだ止まっていないもの』

 声が、違った。

 普段の掠れた声ではない。

 腹の底から響き、多目的室の壁に反射して浩二の鼓膜を直接殴りつけるような、豊かで、深く、恐ろしいほどの響きを持った「女優の声」だった。

 浩二の皮膚に、粟が立った。

 理屈ではなかった。

 二十七年間眠っていた浩二の中の「役者」の獣が、目の前の巨大な存在に呼応して、反射的に目を覚ました。

 手加減などしている余裕はない。

 食われる。

 本気で打ち返さなければ、この舞台上で自分は殺される。


 浩二は一歩踏み出した。

『そんな時計は、壊してしまえばいい』

 自分でも驚くような声が出た。

 それは「融資部長の坂本」の声でも「父親の浩二」の声でもなかった。

 低く、凄みがあり、狂気すれすれの熱を帯びた声。

 木村が恐怖し、審査員たちが顔を引きつらせた、二十七年前の「あの夜の声」だった。

 喉の奥の封印が完全に弾け飛んでいた。


 澄江の目が、パッと見開かれた。

 歓喜。猛獣が、ようやく自分と対等に戦える獲物を見つけた時のように、澄江の目がギラリと光った。

『壊せるものなら、壊してみなさいな!』

 澄江が一歩前に出る。

『あなたが置き忘れたものは、もうどこにもない!』

 浩二も一歩前に出る。

 そこからは、台本という名の刃物を交える、文字通りの真剣勝負だった。

 セリフを忘れることなど、もはや澄江の頭にはなかった。

 言葉が向こうから澄江の口を突き破って飛び出してくる。

 浩二もまた、考えるよりも先に声が出ていた。

 相手の呼吸を読み、間を支配し、感情の頂点へと一気に駆け上がっていく。

 蛍光灯の光が、劇場のピンスポットのように二人だけを照らし出していた。

 銀行員と老婦人という現実は完全に消え去り、そこにはただ、魂を削り合う二人の役者だけが存在していた。


『……私は、待つわ』

 澄江が、絞り出すように言った。

 最後のセリフだった。

『それが、私の選んだ罰だから』

 浩二は澄江を見下ろし、深い絶望と、微かな救済を込めて息を吐き出した。

『……なら、夜明けまでお供しましょう』

 浩二のセリフが、多目的室の静寂の中に溶けていった。

 芝居が終わった。


 沈黙が降りた。

 浩二は、肩で激しく息をしていた。

 全身から汗が噴き出し、心臓が肋骨を突き破るほどの勢いで早鐘を打っている。

 目の前で、澄江もまた、肩で息をしていた。

 だが、その皺くちゃの顔には、この上なく満足げな、凄絶なまでの笑みが浮かんでいた。


「……ハァ……ハァ……生意気な男ね」

 澄江は、ふらつく足取りでパイプ椅子に戻り、どさりと腰を下ろした。

 浩二は慌てて駆け寄ろうとしたが、澄江は手でそれを制した。

「……今のが」

 澄江は、息を整えながら、浩二をまっすぐに見上げて言った。

「今のが、あなたの『本当の声』よ」


 浩二は立ち尽くしたまま、自分の両手を見た。

 震えていた。

 恐怖からではない。

 自分の中に、これほどまでに巨大で、凶暴で、美しいエネルギーが眠っていたことに対する、深い畏怖と歓喜の震えだった。


「どう? 久しぶりの自分の声の味は」

 澄江が意地悪く笑った。

 浩二はゆっくりと顔を上げ、多目的室の窓ガラスを見た。

 夜の闇を背景にしたガラスに、自分と澄江の姿が映っている。

 それはまるで、楽屋の鏡だった。

 今の自分には、もう何も隠すものはない。

 着ぐるみは完全に脱ぎ捨てた。

「……最高ですね」

 浩二は、腹の底から湧き上がるような笑みを浮かべて、そう答えた。

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