第17話「震える声」
前夜。
三月の末の、よく晴れた夜だった。
空気は乾いていて、遠くで電車が通り過ぎる音が、いつもよりずっとよく聞こえた。
坂本家の書斎の窓の外には、街灯に照らされた細い路地が伸び、その先で街の光がぼんやりと滲んでいる。
午後十一時を少し回った頃、浩二は一人で書斎にいた。
明日は、さくら苑の文化祭だ。
本番まで、もう十二時間もない。
家族はすでに眠っている。
リビングの電気は落ちており、廊下の突き当たりにある寝室から、かすかに陽子の寝息の気配がする。
悠樹の部屋も静かだ。
浩二はデスクの前に立ち、澄江の手書きの台本を広げた。
もう何十回と読み返して、すっかり暗記してしまったはずのセリフ。
台本の紙は、浩二が毎夜繰り返し触れてきたせいで、端がほんのりと柔らかく、くたびれていた。
声を出してみようとした。
最初のセリフ。
男が待合室に入り、老女に話しかける、その一言。
『こんな夜更けに、電車はもう来ませんよ』
喉が、開かなかった。
声そのものは、出た。
音も出た。
しかし、自分でも驚くほど、薄くて、軽い声だった。
芝居の声ではなく、独り言の声。
先週の稽古場であれほど解き放たれていたエネルギーが、この部屋では嘘のように静まり返っていた。
もう一度、やり直した。
『こんな夜更けに——』
今度は、逆に、力が入りすぎた。
作り物の舞台声になった。
腹に力を入れ直し、呼吸を整え、三度目。
喉の奥に、何かが詰まっていた。
それはセリフでも緊張でもなく、もっと根の深い、手ではつかめないものだった。
感情が、言葉よりも先に溢れてきて、声の通り道を塞いでいた。
浩二は台本を閉じ、デスクの前の椅子に腰を下ろした。
書斎の天井を見上げる。
電球の黄色い光が、四角い空間を満たしている。
二十七年前の、あの夜と、まるで同じ感覚だった。
オーディションの前夜。
浩二は誰もいなくなった楽屋に一人残り、鏡の前でセリフを呼び起こそうとして——声が出なくなった。
緊張ではなかった。
感情が、肉体よりも先に走り出してしまっていた。
ハムレットの狂気に、あまりにも深く入り込みすぎたせいで、俳優として「届ける」という機能そのものが壊れていた。
あの夜、浩二は鏡に映る自分の目を見た。
知らない人間の目だった。
狂った王子の目だった。
そして今夜も、浩二の中には何かが溢れていた。
緊張ではない。
明日の本番を前にした高揚でもない。
もっと複雑なものが、胸の中でぐつぐつと煮えていた。
二十七年分の沈黙。
飲み込み続けてきたセリフ。
木村に言われた言葉。
悠樹のハムレット。
澄江の全盛期の声に引きずり出された自分の「本当の声」。
それらが全部、一度に押し寄せてきていた。
明日の舞台の幕が開いたら、それが全部、一気に解き放たれる。
そのことが怖かった。
怖いのではなく、それが怖ろしいほど楽しみだった。
どちらなのか、自分でもわからなかった。
浩二は両手を顔の前で組み、額に当てた。
こんな感覚は、知っている。
身体が、もう芝居を始めている。
頭と心が、すでにあの待合室にいる。
しかし言葉だけが、まだこちら側に残っている。
その乖離の中で、声が出なくなる。
役者特有の、病的な前夜だ。
二十二歳の時は、それが怖くて仕方なかった。
「怖い」と木村に言えれば、まだよかったのかもしれない。
でも言えなかった。
親友に弱音を吐くことの恥と、何より、この感覚を誰かに言葉で説明できる自信がなかった。
感情が先に溢れているのに、それを言語化する回路が追いつかない。
今夜も、言える相手はいない。
陽子は眠っている。
悠樹も眠っている。
田所は、さすがに深夜には電話しない。
浩二はデスクに置きっぱなしにしていたスマートフォンを、無意識に手に取った。
画面を点灯させると、着信の通知が一件入っていた。
木村光、とある。
メッセージだった。
時刻は、二十三時十四分。
浩二は、一呼吸おいてからメッセージを開いた。
——明日、見に行っていいか。
たった、それだけだった。
句読点もない。
スタンプもない。
絵文字もない。
いかにも木村らしい、素っ気ない一文だった。
浩二はしばらく、その文字を見つめた。
「明日、見に行っていいか」。
あの男が、わざわざそう聞いてくる。
返事次第では絶対に来るし、「来るな」と言えばおそらく来ない。
木村は、そういう男だ。
踏み込む時は躊躇しないが、相手が明確に線を引いた時は、それを尊重することを知っている。
なぜ来ようとするのか。なぜ、来たいのか。
浩二は考えなかった。
考えるよりも先に、答えが出ていた。
——来るな。
送信してから、スマートフォンを伏せた。
三十秒後に、また画面が光った。
——了解。
それだけだった。
それ以上は来なかった。
「なぜだ」とも聞かれなかった。
理由を求められなかった。
木村は、了解した。
浩二は伏せていたスマートフォンをデスクの端に置いた。
来るな、と言った。
それは正しい選択だったのか、浩二には自分でもわからなかった。
木村に来てほしくない理由は、整理すれば、いくつか出てくる。
あの男がいれば、またどこかで「融資部長の坂本浩二」か「二十七年前に敗れた大学生の坂本浩二」に引き戻されてしまいそうな気がした。
明日の舞台は、澄江との二人芝居だ。
木村は関係ない。
あの喫茶店で言うべきことは言い合った。
それで十分だ。
そのはずだった。
なのに、了解の一言を見た後で、浩二の胸の中に、言いようのない空洞のようなものが生まれていた。
「来るな」と拒絶した自分に対する、後悔でも安堵でもない、奇妙な寂寥だった。
二十七年間、互いに遠くから眺め合っていた。
木村はSNSで浩二のことを調べていたかもしれないし、浩二は木村の公演告知に「いいね」を押せないまま見ていた。
あの融資相談室での再会、喫茶店での激突、「お前はうますぎた」という告白。
それだけのことが起きた後で、今夜、木村は「見に行っていいか」と聞いてきた。
それは、これからまた続いていく何かの始まりだったかもしれない。
あるいは、終わりへの丁寧な区切りだったかもしれない。
どちらにせよ、「来るな」と浩二は言った。
そして木村は「了解」と言った。
それでいい、と浩二は思おうとした。
窓の外で、風が細い路地を吹き抜けていった。
電線が小さく鳴った。
浩二は台本を再び手に取り、立ち上がった。
書斎の中央に立ち、電球の光を正面から受け止めた。
それをスポットライトだと思った。
このくたびれた書斎を、駅の待合室だと思った。
今夜の自分を、観客に何かを届けようとしている一人の役者だと思った。
声を出した。
『こんな夜更けに、電車はもう来ませんよ』
今度は出た。
細くも、薄くも、作り物でもない。
腹の底から静かに立ち上り、書斎の空気を波紋のように震わせる声だった。
ただし、声は震えていた。
明らかに、震えていた。
緊張からではない。
昂りからでもない。
喉の奥に二十七年間押し込めていた感情が、声という形を借りてようやく外の空気に触れ、それが震えているのだった。
これでいい、と浩二は思った。
声が震えていて、いい。
二十七年ぶりに外へ出る声なのだから。
台本の次のセリフを、浩二は静かな書斎の中で、一人で言い続けた。
相手役の澄江のセリフも、頭の中で澄江の声で響かせながら、浩二は一人の演劇部員のように、ひたすらにセリフと向き合った。
二十二歳の夜がそうだったように。
一時間後。浩二は台本を閉じ、書斎の電気を消した。
廊下に出ると、家の中はしんと静まり返っている。
陽子と悠樹が眠っている。
坂本家の、いつも通りの夜。
だが、一つだけ違うことがあった。
書斎に入る前の浩二と、書斎を出た後の浩二は、すでに別人だった。
浩二は洗面所で顔を洗い、タオルで拭った。
鏡を見た。
四十九歳の、少し疲れた顔。
だが、その目だけが、妙に澄み切っていた。
二十二歳のあの夜の楽屋でも、浩二は鏡を見た。
あの時は、そこに別人の目があって、浩二は怖かった。
狂気に呑まれた自分の目が恐ろしくて、逃げた。
今夜の鏡に映る目には、狂気はない。
ただ静かで、深く、何かを覚悟し終えた者の目があった。
あの夜に逃げた自分と、今夜の自分は、同じ目の色をしていない。
それだけで、十分だった。
浩二は鏡から目を離し、廊下を歩いて、寝室に向かった。
明日の朝は早い。




