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第18話「セリフの続き」

 さくら苑の多目的室が、その日だけは別の場所になっていた。


 窓に暗幕が張られ、天井から借り物のスポットライトが二本下がり、折り畳みの椅子が三列並べられた客席には、入居者たちがブランケットを膝に掛けて座っている。

 家族の面会者も加わり、五十人近い観客がその小さな空間に収まっていた。

 施設のスタッフが受付で手書きのプログラムを配り、池田あかりが音響の操作卓の前で緊張した顔をしている。


 さくら苑の文化祭。

 毎年恒例の行事だが、今年だけは違う熱気があった。

 幕の代わりに引かれた暗幕の裏側、廊下に向かって開いた部屋の隅。

 そこが今日だけの「楽屋」だった。

 浩二は壁を背に立ち、目を閉じていた。


 スーツではなかった。

 モスグリーンのコットンシャツに、濃紺のスラックス。

 銀行員の鎧でも、週末の父親の格好でもない。

 役のために選んだ、はじめての衣装だった。

 台本は持っていなかった。

 持つ必要がなかった。

 セリフは、もう身体の中に染み込んでいた。


「緊張してる?」

 傍らで、澄江が言った。

 施設の職員が見つけてきた紺色のワンピースを着て、白い薄いショールを肩に掛けた澄江は、普段より十歳は若く見えた。

 背筋は一分の隙もなく伸びている。

「緊張、というより」浩二は目を閉じたまま答えた。

「全部、出てしまいそうで」

「全部、出しなさい」

「……出し切れるかどうか」

「出し切れない分は、私が受け取るわ」

 短く、しかし確信に満ちた言葉だった。

 浩二は目を開き、隣の澄江を見た。


 八十二歳の元舞台女優は、今、完全に役の中にいた。

 肉体は老いていても、その目の奥で燃えているものは、青く、鋭く、消えかけていた。

 それは今夜だけは全力で燃え上がっていた。

 自分が出られなかった舞台のことを、澄江は「後悔という名の罰だ」と言っていた。

 その罰を、今夜ここで、終わらせようとしている。

 浩二だけではない。

 澄江もまた、何十年分かの「言えなかったもの」を今夜この場所に持ち込んでいる。


「香川さん」浩二はそっと言った。

「なに」

「今日は、ありがとうございます」

 澄江は鼻をわずかに動かした。

「礼を言うのは終わってから。途中で泣いたら承知しないわよ」

「泣きません」

「そう言った男が泣かなかった試しがないのよ、舞台では」

「では、見ていてください」

 澄江は、また笑った。

 例の、皺くちゃな顔全体がほころびる、全盛期の女優の笑顔だった。


 池田のアナウンスが、廊下まで聞こえてきた。

「それでは、本日のメインプログラム、香川澄江さんと坂本浩二さんによる二人芝居、『夜明けを待つ人』を上演いたします」

 客席がざわめき、やがて静まった。

 浩二は、最後にもう一度、深く息を吸い込んだ。

 肺の奥まで、冷たい施設の空気を入れる。

 鼻腔の奥に、ワックスの匂いと、暖房の乾いた熱気と、老人と花の混ざり合った場所の匂い。

 この匂いを、今夜の浩二は一生忘れない、と思った。


 プログラムの一番目が終わり、スタッフが多目的室の外に出てきた。

「どうぞ、準備ができました」

 浩二と澄江は顔を見合わせた。

 合図は必要なかった。

 二人は揃って歩き出した。


 暗幕の端から、多目的室の中を一瞬だけ見た。

 客席の照明は落ちており、スポットライトだけが舞台ステージの中央を白く照らしている。

 入居者たちの穏やかな顔が並んでいる。

 家族連れが数人。

 そして。

 浩二の視線が、最前列の左端で、一瞬だけ止まった。

 陽子が、いた。

 その隣に、悠樹が、いた。

 浩二は、一呼吸の間だけ、完全に動きを止めた。

 陽子は、前を向いていた。

 演技を始める前のステージを、静かな目で見つめていた。

 悠樹は少し前のめりになり、興味深そうに辺りを見回している。

 その横顔が、浩二の息子の顔だと気づくには数秒かかった。

 なぜなら、それは同時に、二十七年前の自分の横顔に酷似していたから。


 来ていた。

 陽子が、悠樹を連れて、来ていた。

 事前に何も言ってくれなかった。

 連絡もなかった。

 驚かせようとしたのか、それとも来ることを伝えたら浩二が「来なくていい」と言うと判断したのか。

 どちらにせよ、陽子はここにいた。

 悠樹もここにいた。


 浩二の胸の奥で、ドッと何かが崩れた。

 崩れたが、泣かなかった。

 代わりに、ある奇妙な確信が浩二の身体の全細胞に広がった。

 これは、今夜、やり遂げなければならない。

 陽子のためでも、悠樹のためでもなく、自分のために。

 二十七年間、喉の奥に押し込めてきた全てのもののために。

 浩二は視線を前に戻した。

 澄江が、浩二の顔を横目で確認していた。

 何かを察した目をしていたが、何も言わなかった。

 二人は、舞台に入った。


 スポットライトが、浩二の頭上から降り注いだ。

 熱い。二十七年ぶりの、この熱さだった。

 観客の視線が集まる感覚が、皮膚で感じ取れた。

 五十人近い視線が一斉に向けられる、圧倒的な重さ。

 舞台に立ったことのない人間には、おそらく想像もできない重力だ。

 だが今の浩二には、それが重さではなく、引力に感じられた。

 引き寄せられる感覚。


 澄江がベンチに見立てた椅子にゆっくりと腰を下ろした。

 膝にショールをかけ直し、窓の外を眺める老女の表情を作る。

 それだけで、多目的室のリノリウムの床がコンクリートのホームになり、蛍光灯の光が駅の待合室の冷たい照明になった。

 澄江の身体から放たれるものが、空間を塗り替えていた。

 浩二は、舞台の端から歩き出した。

 足音を、意識した。

 硬い床を踏みしめるたびに、自分の存在が空間に刻まれていく感覚。

 一歩、また一歩。

 二十七年分の距離を、今夜は歩いている。

 老女の前で立ち止まる。


『こんな夜更けに、電車はもう来ませんよ』

 声が出た。

 書斎で一人で練習していた時とも、多目的室での稽古の時とも、また違う声だった。

 それは浩二自身の声であり、今夜この場所でしか生まれ得ない声だった。

 空間と観客と澄江の存在が混ざり合って、浩二の喉を経由して外へ出てきた声。

 澄江がゆっくりと顔を上げた。

『来るわ。私の時計は、まだ止まっていないもの』

 老女の声が、多目的室に響いた。

 客席のどこかで、誰かが小さく息を呑む音がした。

 芝居が、始まった。


 二人のセリフが交わり始めると、浩二の意識は急速に遠くなっていった。

 客席が消えた。

 スポットライトの熱だけが残った。

 目の前には、最終電車を待ちながら夜を越えようとしている老女がいる。

 この男には、彼女に言わなければならないことがある。

 でも、どう言えばいいか、まだわからない。

 それは台本のセリフではなく、浩二自身の感情だった。


 場面が進む。

 老女は言う、自分が置き忘れてきたものはもう取り戻せないと。

 男は言う、取り戻せないものを、人はどう抱えて生きるのかと。

 老女は言う、抱えるのではなく、置いてきたのだと。

 置いてきた場所に向かって、毎晩時計の針を巻き戻すのだと。

『それは、呪いですか』浩二が問う。

 澄江は、少しだけ間を置いた。

 稽古の時よりも、一呼吸分だけ長い間だった。

 観客は、誰一人声を立てなかった。


『……呪いよ』澄江が、静かに、しかし底なしに深い声で言った。

『でも、愛しているのよ、その呪いを。だって、それだけが私が本当に生きた証拠なんだもの』

 浩二の胸に、澄江の言葉が、矢のように刺さった。

 台本通りのセリフだった。

 何十回も一緒に稽古してきた言葉だった。

 なのに今この瞬間、浩二には、それが澄江自身の言葉として聞こえた。

 出られなかった舞台への後悔を、それでも「愛している」と言える人間の強さ。

 そして浩二は気づいた。

 自分もまた、二十七年間、同じ呪いを愛していたのだと。

 憎んでいたのではなかった。

 木村への嫉妬も、逃げた自分への怒りも、喉の奥に詰まったままのセリフも——全部、自分が本当に生きようとしていた証拠だった。

 あれほど深く傷ついたのは、あれほど本気だったからだ。

 嘘偽りなく、狂うほどに、舞台を愛していたからだ。


 次のセリフが来た。

 男が、老女に問いかける場面。

 台本の上では、「あなたの置き忘れたものは、何ですか」という問いだった。

 しかしその問いは、今この瞬間、浩二の中で別の言葉と完全に溶け合った。

 二十七年前の楽屋で、鏡に向かって呟いていた言葉。

 息子の悠樹が、体育館の舞台で震えながら声に出した言葉。

 今夜この場所で、ようやく浩二が全力で届けなければならない言葉。

 To be, or not to be.

 生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。

 あの問いの続きは何だったか。

 ハムレットが、あの先で何を選んだか。

 そして浩二は、あの夜の楽屋で、何を選び、何を飲み込んだのか。

 全てが、一瞬に交差した。

 浩二は、澄江の目をまっすぐに見た。

『……あなたの置き忘れたもの——それは、今もここにあります』

 台本通りのセリフだった。

 だが浩二の声は、それまでとは全く違った。

 二十七年分の沈黙が溶けた声だった。

 怖がって飲み込んだ全てのものが、言葉という形を借りてようやく外の空気に触れた、そういう声だった。

 震えていた。

 激しく、深く、止めようのない震えをはらんでいた。

 しかしそれは、弱さの震えではなかった。

 澄江の目が、大きく見開かれた。

 それは台本の「老女の反応」ではなかった。

 香川澄江という役者が、浩二の声に圧倒されて、一瞬だけ素に戻った顔だった。

 そして次の瞬間、澄江は目を細め、深く、深く息を吸い込んだ。

 全盛期の、帝劇の女優が、最後の炎を燃やした。

 そこから先は、もう言葉では説明できなかった。

 二人の役者が、真剣を持って向き合い、互いに全てを賭けて打ち合った。

 失いかけた才能と、二十七年間の沈黙と、取り戻した声と、終われなかった後悔が、ただの多目的室のリノリウムの床の上で、全力で燃え上がった。


 最後のセリフが近づいた。

 老女が言う。

『……私は、待つわ。それが、私の選んだ罰だから』

 浩二は、澄江を見下ろした。

 今夜最後の問いを、腹の底から声に出した。

『……なら、夜明けまでお供しましょう』

 声は、震えていなかった。

 全てを言い切った後の声は、ひどく静かで、深く、澄み切っていた。

 客席が、静寂に包まれた。

 五秒。十秒。

 そして、拍手が起きた。

 最初の一人が手を打ち鳴らし、それが次々と連鎖して、小さな多目的室の中が割れんばかりの音に満たされた。

 入居者の老人が、目元をハンカチで押さえながら拍手をしていた。

 隣の家族連れの女性が、声を出して泣いていた。

 浩二は、客席を見渡した。

 最前列の左端に、陽子がいた。

 泣いていなかった。

 ただ、両手を合わせ、まっすぐに浩二を見ていた。

 その目が、何を言っているか、浩二にはわかった。

「知っていたよ」という目だった。

「ずっと待っていたよ」という目だった。

 その隣で、悠樹が立ち上がって拍手をしていた。

 十七歳の少年が、精一杯の力で両手を打ち鳴らしていた。


 浩二は、深く、頭を下げた。

 隣で澄江も、ゆっくりと頭を垂れた。

 その所作は、老婦人のものではなかった。

 全盛期に帝劇の板の上で何百回とやってきた、女優のお辞儀だった。

 二人は、頭を下げたまま、しばらくそのままでいた。

 浩二の喉は、もう詰まっていなかった。

 二十七年間、そこに留まり続けてきたものが、今夜ようやく完全に解き放たれた。

 もう飲み込むものは何もない。

 セリフの続きは、言い切った。

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