第19話「翌朝のこと」
朝、最初に目を覚ましたのは浩二だった。
六時十五分。
いつも通りの時刻だった。
三十年近く続けてきた習慣は、文化祭の翌朝だろうと、二十七年間飲み込んできたものを全部言い切った翌朝だろうと、寸分違わず浩二を起こした。
カーテンの隙間から、薄い春の光が細く差し込んでいる。
隣で陽子がまだ眠っていた。
寝息は穏やかで、背中が規則正しく上下していた。
浩二はベッドからそっと抜け出し、洗面所へ向かった。
鏡の前に立つ。
いつもの四十九歳の顔がある。
何かが劇的に変わっているわけではなかった。
皺の位置も白髪の量も、昨日と同じだ。
だが、自分の目を見た時、浩二はひとつだけ確かめることができた。
昨夜の目と、今朝の目は、同じ色をしていた。
消えていなかった。
舞台の幕が下りたからといって、あの声は消えていなかった。
顔を洗い、キッチンに下りる。
コーヒーメーカーに豆をセットし、ボタンを押す。
コポコポと静かな音が台所に満ちた。
四月の初旬の朝は、まだ少し肌寒かった。
窓の外の庭の梅の木が、新芽を吹き始めていた。
リビングのソファに座り、コーヒーが落ちるのを待った。
何も考えていなかった。
本当に、何も。
昨夜の多目的室の空気も、スポットライトの熱も、陽子の目も、悠樹の拍手も、全部、自分の中にしっかりと仕舞われていて、もう揺さぶってくることはなかった。
嵐が過ぎた後の、静かな朝だった。
コーヒーが落ち切った頃、廊下から足音がした。
どたどたとした、遠慮のない足音だ。
陽子ではない。
「おはよ」
悠樹が、寝癖のついた頭のまま、ジャージ姿でリビングに現れた。
目をこすりながらキッチンに向かい、冷蔵庫を開けてオレンジジュースのパックを取り出す。
グラスも出さずにそのまま直接口をつけようとして、思い直してグラスを棚から出した。
最近少しだけ行儀がよくなった。
「早いな」と浩二は言った。
「なんか目が覚めた」悠樹はジュースを飲み、浩二の向かいのソファにどすんと座った。
足を組み、天井を見上げる。
しばらく、何も言わなかった。
浩二もコーヒーを飲みながら、庭の梅の木を見ていた。
父と息子が、朝の静かなリビングで、それぞれに黙っている。
珍しいことではない。
浩二の家の朝は、大抵こういうものだ。
「なあ」
悠樹が、天井を見たまま言った。
「なに」
「昨日、うまかったよ。お父さん」
浩二の手の中のカップが、一瞬だけ静止した。
「そうか」浩二は答えた。
それだけだった。
「ありがとう」とも「大したことない」とも言わなかった。
ただ「そうか」と、低く短く言い、コーヒーを一口飲んだ。
悠樹は天井から視線を下ろし、浩二を見た。
「香川さんも、すごかった。あの人、本物の役者だったんだな」
「今も本物だ」
「そうだな」悠樹は少し考えるような顔をして、「でもお父さんも」と言いかけて、止まった。
浩二は黙って待った。
「……演劇部、入ってたの?」
来た、と浩二は思った。
予想していた問いではなかった。
しかしいつか来る問いだという予感は、ずっとあった。
浩二はカップをテーブルに置き、悠樹の顔を見た。
十七歳の息子は、馬鹿にするでも詰め寄るでもなく、ただ純粋に聞いていた。
知りたい、という顔だった。
「少しだけな」浩二は言った。
悠樹はその答えを、すぐには受け取らなかった。
グラスを両手で包んで、まじまじと浩二を見ていた。
昨日体育館で拍手をしていた顔と同じ目をしていた。
「……少しじゃなかったんじゃないの?」
浩二は答えなかった。
コーヒーを飲んだ。
ゆっくりと、最後の一口まで飲み切った。
悠樹は追い打ちをかけなかった。
「少しじゃなかったんじゃないの?」と言ったきり、また天井を見上げていた。
この子は賢い、と浩二は思った。
押せばもっと話してくれると分かっていながら、押さないでいられる。
窓の外で、小鳥が鳴いた。
「悠樹」
「うん」
「昨日のお前のハムレット」
「うん」
「あれを見た時に、俺は」
浩二は一度、言葉を止めた。
何と言えばいいのか考えていたのではない。
何と言えばいいのかは、始めからわかっていた。
ただ、言葉を出す前の、一拍の間が必要だった。
「誇らしかった」
悠樹が、天井から視線を戻した。
「……おっさんみたいなこと言うなよ」
「おっさんだ」
「そうだけど」
悠樹はグラスを持て余すように傾け、オレンジジュースの残りを飲み干した。
それからグラスをテーブルに置き、照れているのか考えているのか判断がつかない顔で、浩二を見た。
「俺さ」
悠樹は言った。
「昨日、客席で見てて、思ったんだけど」
「なに」
「演劇って、怖いな、と思って」
浩二は少し驚いて、悠樹を見た。
「怖い?」
「なんか……全部、見えるじゃん。やってる人の、嘘とか本気とかが。隠しようがないっていうか。昨日のお父さんと香川さん見てて、あ、この人たち本当のこと言ってるんだな、ってわかったから。だからなんか、こわかった」
浩二は黙っていた。
悠樹の言葉を、ゆっくりと自分の中に入れていた。
怖い。
全部、見えるから、怖い。
舞台の怖さを、十七歳の息子が自分よりも正確な言葉で言い当てていた。
「そうだな」と浩二は言った。
「怖い場所だ、舞台は」
「でも、やるんでしょ」
「何が」
「また、やるんでしょ。舞台」
浩二はしばらく、その問いを受け止めていた。
「やるかもな」
自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。
「やりません」でも「わからない」でもなく、「やるかもな」と言った。
悠樹は「そっか」と言い、ソファに深くもたれかかった。
それ以上は何も言わなかった。
「頑張れよ」も「楽しみにしてる」もなかった。
ただ「そっか」の一言で、全部受け取った顔をしていた。
この子は、陽子に似ている、と浩二は思った。
大事なことを、言葉にしすぎない。
言葉にしない分、ちゃんと受け取る。
「ご飯できてるよ」
台所から、陽子の声がした。
いつの間に起きていたのか、気配すら感じていなかった。
どこまでこの会話を聞いていたのか、聞いていなかったのか、それも分からない。
「はーい」悠樹がソファから立ち上がり、台所へ向かった。
浩二も続いた。
食卓には、三人分の朝ごはんが並んでいた。
炊きたての白米。
豆腐と長ねぎの味噌汁。
目玉焼き。
きんぴらごぼうの小鉢。
陽子が毎朝作っている、変わらない朝ごはんだった。
三人が席に着いた。
いただきます、と三つの声が、ほぼ同時に言った。
「香川さん、元気そうだったね」
陽子が言った。
浩二に向けてでもなく、悠樹に向けてでもなく、三人のいる食卓に向けて言った。
「元気だよ。怖いくらい」と浩二は言った。
「あの人、終わってからも全然興奮してたよね。池田さんっていうスタッフの人が泣いてて、香川さんに抱きついてて」と悠樹。
「そうだったのか。俺は気づかなかった」
「お父さん、最後ぼーっとしてたもんね」
「ぼーっとしていた」
「あれはぼーっとって言わないと思うけどな」と悠樹が言い、味噌汁を飲んだ。
陽子は何も言わなかった。
ただ、ごはんを食べながら、穏やかに笑っていた。
窓から、四月の朝の光が食卓に差し込んでいた。
白い光が、炊きたての米の湯気を透かして、三人の顔を照らしていた。
浩二はその光の中で、味噌汁を一口飲んだ。
豆腐が柔らかく、だしが深かった。
特別なことは何もなかった。
三人で朝ごはんを食べている。
それだけのことだった。
だが確かに、それは昨日より少しだけ違う朝だった。
浩二には、そのことがわかった。
言葉にはできなかったが、確かにわかった。
「お父さん」悠樹が言った。
「なに」
「次の演目、決まったよ。演劇部の」
浩二はごはんを食べる手を止めずに、「なんだ」と聞いた。
「チェーホフ。『桜の園』」
浩二はしばらく沈黙した。
チェーホフ。
かつて、木村と二人で読み耽った戯曲の作家の名前だ。
「そうか」と浩二は言った。
「いい演目だ」
「知ってるの?」
「少しだけな」
「……また少しだけ、か」
悠樹は呆れたような、しかしどこか楽しそうな顔をして、目玉焼きを口に入れた。
陽子がくすっと笑った。
浩二も、少しだけ笑った。
三人分の箸の音が、春の朝の食卓に響いていた。




