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第20話「エピローグ——袖を出た人」

 六月になった。


 梅雨の晴れ間の昼下がり、浩二はランチを終えた後、一人でデスクに戻りながらスマートフォンを開いた。

 金田が融資の資料を整理しており、田所は外回りに出ている。

 浩二のフロアは午後の穏やかな倦怠感に包まれていた。


 SNSのタイムラインを、いつものように流し見していた。

 不動産の広告。

 高校の同窓会グループの告知。

 誰かが撮った夕焼けの写真。

 そして、その投稿が流れてきた。

 木村光、とプロフィール名がある。

 アカウントの写真は、舞台の衣装を着た木村の横顔だった。


 投稿の文章はいつも通り短かった。

「七月公演。詳細は下記から。」

 それだけだ。

 添付された画像には、劇場名と公演名と日程が書かれたフライヤーが映っている。

 会場は、隣県の劇場だった。

 以前、浩二がチケットを買わずに外から眺めていた、あの劇場と同じ名前だった。

 浩二は、しばらくその投稿を見ていた。

 五秒。十秒。

 それから、親指を動かした。

 ハートのマークを、押した。

 たったそれだけのことだった。

 指一本で、一秒もかからない動作だった。

 だが、それは二十七年間、浩二がただの一度もできなかったことだった。


 画面を伏せた。

 仕事に戻ろうとして、すぐにスマートフォンが振動した。

 メッセージの着信だった。

 木村光、とある。

 開くと、たった四文字だった。

 ——おせえよ。

 浩二は少しの間、その文字を見ていた。

 それから、返信を打った。

 ——融資、通った。

 送信する。

 即座に既読がついた。

 木村は三分間、何も返さなかった。

 きっとあの男のことだから、スマートフォンを持ったまま、小さく笑って、それから何かをぶつぶつと言っているのだと浩二には分かった。


 やがて、返信が来た。

 ——そうか。

 それだけだった。

 しかし浩二には、その三文字の中に、木村が言いたかった全てが入っているのが伝わった。

「融資、通った」という言葉の意味が分かるのは、世界中で二人だけだ。

 株式会社フロントラインの融資の話ではない。

 あの日の楽屋で始まり、二十七年間凍りついていた何かが、ようやく動き出した、という話だ。

 自分の中で、もう一度声が通るようになった。

 滞っていた血が流れ始めた。

 そういう意味での「融資、通った」だ。

 浩二はスマートフォンをスーツの胸ポケットにしまい、デスクの上の書類を手に取った。

 午後の仕事が始まる。

 ただ、今日のコーヒーは、なぜか少しだけ美味しかった。


 さくら苑には、月に二回通うようになった。

 銀行のボランティアとしてではなく、完全に私的な訪問として。

 池田あかりは「また来てくださいね!」と毎回言いながら、毎回本当に来る浩二にだんだんと「来てくれましたね」という顔に変わっていき、今では「お疲れ様です」と当たり前のように迎えてくれた。


 香川澄江は、相変わらずだった。

 文化祭の二人芝居のことを、澄江は一度も「よかった」とは言わなかった。

 言わないことが澄江流の「よかった」なのだと、浩二はもう分かっていた。

 その代わり、先週の訪問の際に澄江はこう言った。

「今度はシェイクスピアをやりたいの」

 浩二は「台本を作れますか」と聞いた。

 澄江は「もう半分できてるわ」と言い、分厚いノートを叩いた。

「相手役は?」

「決まってるじゃないの。あなた以外に誰がいるの」

 それだけだった。

 詳細も、演目も、まだ何も決まっていない。

 しかし、また次の舞台の話が始まっていた。


 浩二が帰り際に廊下を歩いていると、後ろから澄江の声が飛んできた。

「坂本さん」

 振り返ると、多目的室の入り口に澄江が立っていた。

「何ですか」

「あなた、袖を出てきたわね」

 浩二は少し首を傾げた。

「袖、というのは」

「舞台袖よ。ずっと袖にいたでしょう。板の上に出る勇気もなくて、でも袖を離れる気にもなれなくて。そういう人間の目を、私は何十人と見てきたの」

 澄江は浩二を、真っ直ぐに見た。

「あなたは、出てきた。遅かったけれど、ちゃんと出てきた」

 浩二は澄江の言葉を、しばらく自分の中に入れていた。

 袖を出た。

 そういう言葉か。


「……ありがとうございます」

「礼は次の舞台が終わってから言いなさい」

 澄江はそれだけ言って、多目的室の奥へ戻っていった。

 池田が廊下の端で、小声で「よかったですね」と言った。

 浩二は「何が」と言い、池田は「全部ですよ」と言った。

 浩二はさくら苑を出て、夕暮れの中を駐車場へ歩いた。

 六月の夕方は長い。

 西の空がまだ明るく、薄いオレンジ色の光が街並みを柔らかく塗っていた。


 七月の第二週の土曜日。

 悠樹の演劇部の次の公演が、高校の体育館で行われた。

 演目は「桜の園」。

 チェーホフ。

 悠樹の役はロパーヒン、かつて農奴だった身分から這い上がってきた新興の商人だ。

 主役のラネーフスカヤではない。

 だが、物語の核心にいる、複雑で矛盾を抱えた人物だった。


 浩二と陽子は、またパイプ椅子に並んで座っていた。

 開演前に、陽子が小声で言った。

「あなた、今日は泣かないって言ってたよね」

「言っていない」

「心の中では言ってたと思う」

 浩二は「うるさい」と言い、陽子は小さく笑った。


 幕が上がった。

 悠樹が舞台に現れた。

 前回とは違う役。

 違う衣装。

 違う立ち方。

 それでも、その少年が板の上に立った瞬間に空気を変える何かを持っているのは、変わらなかった。

 浩二は静かに、息子の芝居を見た。

 二十七年前の自分と重ね合わせることは、今回はしなかった。

 ただ、悠樹の芝居を、悠樹の芝居として見ていた。

 それができるようになっていた。

 ロパーヒンが、桜の園が競売にかけられ、自分の手に落ちた事実を告げる場面。

 悠樹の声が体育館に響いた。

 喜びと困惑と、どこか取り返しのつかないものを手にした者の痛みが混ざった、複雑な声だった。

 浩二は、その声を聞きながら思った。

 この子は、もう俺が教えられることは何もない、と。

 そして次に思ったのは、でもそれでいい、ということだった。


 幕が下りた後、ロビーで悠樹と落ち合った。

 悠樹は仲間たちと一緒にいて、浩二と陽子の顔を見ると、少し照れたように近づいてきた。

「どうだった」

「よかった」と浩二は言った。

「ロパーヒンは難しかった」

「難しい役だ」

「お父さん、知ってた? ロパーヒンって」

「知ってる」

「……どこまで知ってるんだよ」と悠樹は言い、少し困った顔をして、それから仲間のところへ戻っていった。


 陽子がまた笑っていた。

 浩二も、笑った。

 浩二はまだ、客席で見る側だ。

 次にさくら苑のシェイクスピアがあるとして、それは施設の小さな多目的室の、折り畳み椅子の前の舞台だ。

 帝劇でも、あの隣県の劇場でも、大学の小劇場でもない。

 プロの役者でも、かつての夢に返り咲く者でもない。

 だが、今はそれでいいと思っている。


 袖を出た、と澄江は言った。

 そうかもしれない。

 二十七年間、板の上に出る勇気もなく、しかし袖を離れることもできずに、ずっとそこにいた。

 今の浩二は、袖の外にいる。 

 舞台上にいる時もあれば、客席にいる時もある。

 それでいい。

 肝心なのは、もう袖に隠れていない、ということだ。


 六月のSNSのあの「いいね」から、木村とはときどきメッセージを交わすようになった。

 木村は相変わらず短い言葉しか送ってこない。

 だが、返信は早い。

 フロントラインの融資については、事業計画書を作り直した木村が再度来店し、浩二が審査し、条件を調整した上で一部融資が通った。

 木村は「やっと話になる」と言い、金田は「部長、知り合いだったんですね」と今更のように言った。

 木村の七月公演を、浩二は結局見に行かなかった。

 ただ、終演後に木村から「満員だった」とだけメッセージが来た。

 浩二は「そうか」と返した。

 次の公演の時は、チケットを買うかもしれない。

 まだ決めていない。

 それでいい。急ぐことはない。


 田所が今日も、昼休みにコーヒーを一本余分に買い、浩二の机の上に置いていった。

「お疲れ様です」とだけ言って、自分のデスクに戻った。

 浩二は「ありがとう」と言った。

 田所が「え、今日は礼を言った」という顔をしてこちらを見たが、浩二はもう書類に目を戻していた。

 田所が小さく笑うのが、視界の端で見えた。


 午後の仕事が続く。

 書類が積まれ、数字を読み、判断を下す。

 相変わらずの仕事だ。

 だが、その合間に、ふと気づいた時、浩二の喉はもう塞がっていなかった。

 二十七年間、そこに詰まっていたものは、もうなかった。

 喉は、ただ通っている。

 次の言葉が来た時に備えて、静かに、開いている。

 セリフの続きは、まだある。

 どこかの舞台の、どこかの台本の上に、まだ誰かが浩二のために書いておいてくれた言葉がある。

 浩二はコーヒーを一口飲み、次のファイルを開いた。

 窓の外、六月の空は高く、青かった。

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