第8話「悠樹の稽古」
浩二が学校の近くを通ったのは、偶然ではなかった。
偶然ではなかったが、偶然ということにしておきたかった。
悠樹の中学校は、最寄り駅から徒歩八分。
浩二の帰宅ルートから外れること、十二分。
これを「通りがかり」と呼ぶには、少し根拠が薄い。
ただ、土曜日の午後に特に用事がなかったことは事実だ。
陽子は友人と出かけていた。
浩二は書斎で書類を見ようとして、十分で飽きた。
散歩に出た。「散歩」という言葉は、どこへ行くか決めなくていいので便利だ。
気づいたら、悠樹の学校の方向を歩いていた。
それだけのこと。
学校に着くと、土曜なので正門は閉まっていた。
脇の通用門が開いていた。
部活動用だろう。
浩二は通用門の前で少し立ち止まって、それから入った。
校内の地図を見て、体育館の場所を確認した。
演劇部の稽古は体育館か多目的室を使う、と以前悠樹が言っていたのを、特に意識していなかったが覚えていた。
体育館の引き戸は半分開いていた。
中から声がした。
複数の声と、一人の声が交互に出てくる。
浩二は体育館の外壁に沿って、引き戸の脇に立った。
中を覗けるが、中からは見えにくい位置だ。
練習をしていた。
十人ほどの生徒が舞台になっている場所に立ち、指示を出している生徒が一人いた。
顧問の教師は見当たらなかった。
先輩が仕切っているのかもしれない。
ハムレットの場面が進んでいた。
浩二はすぐに分かった。
どの場面かも、分かった。
第二幕、ハムレットが役者たちに演技の指示を出す場面の前後だ。
台詞の密度が高くなる部分だ。
悠樹は舞台の中央にいた。
学校の体育館の、バスケットゴールが片隅に寄せられた空間に立って、台本を手に持ちながら、ハムレットの台詞を言っていた。
浩二は声を聞いた。
壁越しに聞くより、直接聞くとよく分かる。
悠樹の声は、基本的に癖がない。
余計な力みがない。
台詞を「演じよう」としすぎていないのが、よかった。
場面が進んだ。
悠樹が独白の手前まで来た。
「To be, or not to be」と悠樹は言った。
止まった。
「……that is the——」
言いかけて、止まった。
次の言葉が出てこなかった。
悠樹の目が台本を探した。
台本のどこかを見つけようとしている目だった。
浩二の口が、動いた。
「——whether 'tis nobler in the mind to suffer」
声にはならなかった。
唇だけが動いた。
自分が動かそうとして動かしたのではなかった。
悠樹が止まった瞬間に、続きが来た。
体が先に知っていた。
「あなた?」
浩二は振り返った。
陽子が立っていた。
買い物袋を一つ提げて、自転車を押して、浩二の背後に立っていた。
友人と出かけていたはずが、もう帰ってきたらしい。
「何してるの」
「……散歩」
「ここで」
「通りかかった」
陽子は浩二を見た。
それから体育館の引き戸の隙間を見た。
それから浩二を見た。
「口、動いてたけど」
「動いていない」
「動いてたよ」
浩二は返す言葉を探したが、見つからなかった。
陽子は特に追及しなかった。
自転車を壁に立てかけて、浩二の隣に並んだ。
体育館の引き戸の隙間から、二人で中を見た。
悠樹は台本を確認して、また台詞を始めていた。
今度は止まらなかった。
「うまいね」と陽子がしばらくして言った。
「そうだな」
「どこか似てる」
浩二は陽子を見た。
「何が」
「声の感じが。誰かに似てる、と思って」
浩二は正面を向いた。
体育館の中で、悠樹がまた独白の場面に差し掛かっていた。
今度は止まらずに、最後まで言い切った。
「誰に似てるんだ」と浩二は聞いた。
「分からない」と陽子は言った。
「でも、どこかで聞いたことある声の感じ、という気がして。気のせいかもしれないけど」
浩二は何も言わなかった。
陽子は「気のせいか」と言って、自転車を引き取った。
「先帰ってるね。夕飯、六時半ごろ」
「ああ」
「悠樹にはここに来たこと、言う?」
浩二は少し考えた。
「言わなくていい」
「そう」と陽子は言った。
特に驚いた様子もなく。
「じゃあ内緒ね」
自転車を押して歩いていった。
浩二はその背中を少し見てから、また体育館の引き戸に顔を向けた。
悠樹の稽古は、それから三十分ほど続いた。
浩二は外壁に背を預けて、ずっと聞いていた。
聞きながら、悠樹の台詞の間違いが分かった。
アクセントが違う場所があった。
息継ぎのタイミングが少し早い場所があった。
言えなかったが、分かった。
分かることと言えることは、別の話だ。
稽古が終わりに近づいた頃、浩二は体育館から離れた。
校門を出て、来た道を戻った。
帰り道に、自動販売機があった。
缶コーヒーを買った。
温かい方。
押しながら、「またこれを選んでいる」と思った。
二十七年前の十一月の朝も、そうだった。
あの時も温かい方を選んだ。
理由はなかった。
手が先に動いた。
缶を手に持って、歩き始めた。
口の中で、さっきの続きをもう一度言ってみた。
声にならないように、唇だけで。
「Whether 'tis nobler in the mind to suffer, the slings and arrows of outrageous fortune, or to take arms against a sea of troubles——」
言える。
二十七年間、一度も稽古していない。
それでも、言える。
浩二は缶コーヒーを一口飲んだ。
冷たくなる前に飲み切ろう、と思いながら、家の方向へ歩いた。
夕食の席で、悠樹は今日の稽古の話を少しだけした。
「独白のとこ、また詰まった」と悠樹は言った。
陽子に向かって。
「"whether"のとこ」
「そこ、難しいの?」
「リズムが取りにくくて。英語だし」
「そうか」と浩二は言った。
自分でも驚いた。
悠樹が浩二を見た。
「詰まったら、一度息を止めて、吸い直してから言うといい。そのくらいの間は、舞台では自然に見える」
悠樹は少し黙った。
「……なんで知ってるの」
「聞いたことがある」と浩二は言った。
「どこで」
「忘れた」
悠樹はしばらく浩二を見ていたが、「そう」と言って箸を動かした。
陽子は台所の方を向いていたが、背中が少し揺れていた。
笑っているのか、笑いをこらえているのか。
今日で二度目だ、そのどちらかを判断できない陽子の背中を見るのは。
浩二は味噌汁を飲んだ。
熱かった。
でも、悪くなかった。




