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第7話「負けた翌朝」

 結果が出た日のことを、浩二は細部まで覚えている。

 覚えていたくない、と思ったこともあった。

 でも記憶というのは、そちらの都合で動かない。

 消えてほしい夜ほど、鮮明に残る。

 それが人間の、困った仕様だ。


 十一月の半ば。

 オーディションの翌日、結果は部室の前の掲示板に貼り出された。

 B4の紙に、印刷された文字で、役名と氏名が書いてあった。

 浩二は朝、いつもより早く大学に来て、誰もいない廊下を歩いて、掲示板の前に立った。

「ハムレット」の横に、木村光の名前があった。

 浩二の名前は、その下にあった。「ホレイショー」と書いてあった。

 三秒、浩二はその紙を見ていた。

 三秒で、踵を返した。

 廊下を歩いた。

 どこへ行くか決めないまま、歩いた。

 階段を降りて、外に出た。

 十一月の朝の空気が冷たかった。

 自動販売機の前で立ち止まって、缶コーヒーを買った。

 温かい方を選んだ。

 押しながら、「なぜ今これを買っているのか」と思った。

 答えは出なかった。


 缶を手に持ったまま、構内のベンチに座った。

 空が青かった。

 秋晴れだった。

 何も関係のない青さだった。

「坂本」

 三十分ほどして、木村が来た。

 どこで探したのか、分からない。

 木村は浩二の隣に座らずに、正面に立った。

「見たか」と木村は言った。

「見た」と浩二は言った。

 缶コーヒーはもうすっかり冷めていた。

 木村は少し黙った。

 それから言った。

「お前の方がうまかったと思う」

 浩二は缶コーヒーを見た。

 木村を見なかった。

「俺、ずっとそう思ってた。昨日の独白も。一昨日の稽古も。お前の方が、ハムレットだったと思う」

 浩二は何も言わなかった。

 木村は続けた。

「審査員に何があったか分からないけど、俺には、正直分からなかった。なんで俺だったのか」

 沈黙があった。

 木村が選ばれた理由を、浩二は実は持論として持っていた。

 木村のハムレットは、舞台全体のバランスを取りやすい。

 浩二のハムレットは、主役を際立たせすぎて、周囲が弱く見える。

 審査員はアンサンブルを重視した、そういうことだったかもしれない。

 でも、それを今言う気にはなれなかった。

 言ったところで何も変わらない。

 変わらない言葉を、今は持て余していた。


「そういう問題じゃない」

 浩二の胸の中で、その言葉が浮かんだ。

 そういう問題じゃない。

 うまかったかどうかじゃない。

 俺がハムレットをやりたかった、それだけだ。

 お前がうまいとか俺がうまいとか、そういう話をしているんじゃない。

 でも、声にならなかった。

 声にしようとしたら、その言葉の後ろに何かが続く気がした。

 続く言葉が、どれを選んでも、今の自分には卑しかった。

「お前が選ばれたのが悔しい」——そう聞こえる。

「なんで俺じゃないんだ」——そう聞こえる。

 木村は何も悪くない。

 審査員が決めたこと。

 その事実を前に、「そういう問題じゃない」と言うことは、何の問題かを言わないまま拗ねることと、変わらない気がした。

 だから、言えなかった。


「そうか」と浩二は言った。

 それだけだった。

 木村はしばらく黙って、「悪かった」と言った。

「お前が謝ることじゃない」と浩二は言った。

 これは本当のことだった。

 木村は何もしていない。

 ただ、オーディションを受けて、選ばれただけだ。

「ビールでも飲むか」と木村が言った。

 昨夜と同じ言葉だった。

「今は朝だ」

「夜でもいい」

「……考える」と浩二は言った。

 それきり、二人は何も言わなかった。

 木村は少しの間そこに立っていてから、「また後でな」と言って歩いていった。

 浩二は木村が遠くなるのを見なかった。

 ベンチから空を見ていた。

 青い空。

 その青さが、今でも頭の中にある。


 それから一週間ほどして、浩二は稽古に行かなくなった。

 行かない、と決めたわけではなかった。

 ただ、稽古のある日に、気づいたら別のことをしていた。

 一度休んで、また一度休んで、気づいたら行っていない、という感じだった。

 誰かに何か言われたわけでもなかった。

 部の仲間は、オーディションに落ちることは普通にあることで、気にしていなかったかもしれない。

 少なくとも、声をかけてくる者はいなかった。

 木村も、稽古でどんな様子だったかは分からない。

 浩二が行かなかったから。


 ホレイショーの役は、別の部員が引き受けた、と後で聞いた。

 浩二はその頃、就職活動の準備を始めていた。

 三年の秋だったから、周囲も同じだった。

 自然に、「そういう時期だから」という理由が、稽古に行かない理由に重なった。

 自分でそう思った。

 本当にそうだったかどうかは、自分でも判断できなかった。


 一度だけ、深夜に部室に行ったことがある。

 誰もいない時間。

 鍵は部員なら誰でも持っていた。

 部室のドアを開けると、あの匂いがした。

 木と埃と、誰かの整髪料の匂い。

 ストーブは消えていた。

 鏡だけが、部屋の端に残っていた。

 浩二は鏡の前に立った。

 あの夜と同じ場所に立って、同じように鏡を見た。

「To be, or not to be」

 声に出してみた。

 声は出た。

 でも、あの夜の声とは何かが違った。

 何が違うのかを、言葉にできなかった。

 ただ、違った。

 部屋の空気が、違った。

 石壁に当たって戻ってくる声が、違った。

 浩二はそこで初めて、泣きそうになった。

 ならなかった。

 泣く理由が、はっきりしなかったから。

 審査員の判断を恨んでいるわけではない。

 木村を憎んでいるわけでもない。

 演劇が嫌いになったわけでもない。

 ただ、自分が想定していた未来が、ひとつ消えた。

 それだけのことだった。

 それだけのことが、なぜこんなに胸の奥に詰まっているのか、二十二歳の浩二には説明できなかった。

 説明できないまま、台本を棚に置いた。

 鏡に背を向けて、部屋を出た。

 鍵をかけた。

 その部屋に、二度と入らなかった。


 四十九歳の坂本浩二は、書斎で目を開けた。

 いつから目を閉じていたか、分からなかった。

「言えなかったセリフ」というのは、木村に言えなかった「そういう問題じゃない」だけではない、と今では思う。

 もっと前に、言えなかったことがある。

 部室の鍵をかける前に。

 鏡に背を向ける前に。

 自分に向かって、言えなかったことが。

 ——俺はここが好きだった。

 この部屋が。声を出すことが。

 声が石壁に当たって戻ってくることが。

 木村と一緒にセリフをやりとりすることが。

 あの匂いが。あのストーブのちりちりという音が。

 好きだった。

 そう言えば、やめることができなかった。

 やめることができなければ、傷が続いた。

 だから言わなかった。

 言わないことで、終わらせた。

 それが、二十七年間浩二の喉にある言葉の、正体だった。


 机の上の時計が、十一時を回っていた。

 廊下は静かだった。

 陽子も悠樹も、もう眠っているだろう。

 浩二は立ち上がって、書斎の電気を消した。

 暗くなった部屋の中で、一秒だけ立ち止まった。

「俺はここが好きだった」

 声に出してみた。

 誰もいない暗い書斎に向かって。

 声は出た。

 どこにも、当たらなかった。

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