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第6話「大学の楽屋」

 人は、自分が一番生きていた時間を、ちゃんと覚えている。

 二十七年後になっても、四十九歳の融資部長になっても、細部まで覚えている。

 廊下の蛍光灯が一本だけ切れかけていたこと。

 外の風が窓を鳴らしていたこと。

 木村が着ていたグレーのスウェットの、左肩だけ伸びていたこと。

 そういう、何でもない細部が、今でも呼べば出てくる。

 あの夜が、坂本浩二の二十二歳の、一番深いところにある夜だから。


 大学の演劇部が使っていた部屋は、第二体育館の裏にある倉庫を改装した場所だった。

「改装」とは名ばかりで、床を少し張り直して、壁に鏡を一枚取り付けただけのものだ。

 夏は蒸して、冬は底冷えがした。

 暖房は石油ストーブが一台あるだけで、足元は常に寒かった。

 それでも、その部屋が好きだった。

 木と埃と、誰かが使った整髪料の匂いが混ざった、あの部屋の空気が、浩二は好きだった。


 十一月の深夜、部屋には浩二と木村の二人しかいなかった。

 正確には、浩二が先に来ていて、木村が後から来た。

 木村が引き戸を開けた時、外の冷たい空気が一緒に入ってきた。

「まだいたのか」と木村は言った。

「お前こそ」

「眠れなくて」

「俺も」

 それだけ言って、木村は部屋の中に入った。

 グレーのスウェット、右手に台本。

 台本はもうぼろぼろだった。

 二人ともそうだった。

 何度も読み返した分、背表紙が割れて、浩二のは途中からテープで補修してあった。


 木村はストーブの前にどかっと座った。

「緊張してるか」と木村は聞いた。

「してる」と浩二は答えた。

「俺もだ」

 正直に言える相手だった。

 木村とは、そういう関係だった。

 入部した日から何となく気が合って、稽古後に二人でよく残った。

 台詞の話、演出の話、映画の話、他愛のない話。

 浩二が何か言うと木村は少し考えてから答え、木村が何か言うと浩二も少し考えてから答えた。

 その「少し考える」の間が、互いに心地よかった。


 明日のオーディションに、二人とも主役候補として名前が挙がっていた。

 ハムレット。

 浩二にとって、大学に入ってから最初に読んで、一番震えた戯曲だ。

「To be, or not to be」——生きるべきか、死すべきか。

 あの独白を初めて読んだ夜、浩二は台本を閉じて、しばらく何も考えられなかった。

 それほどのものだった。

 この役を、やりたかった。

 木村も同じだった、と思う。

 言葉にしたことはなかったが、稽古でハムレットの場面になる時の木村の目が、他の場面と違った。

 集中が変わった。

 あの目を、浩二は知っていた。


「一回やるか」と木村が言った。

「独白か」

「ああ」

 木村が先に立った。

 ストーブから少し離れた場所に立って、足を肩幅に開いた。

 台本を持ったまま、しかし台本を見なかった。

 目を床に向けて、一度だけ深く息を吸った。

「To be, or not to be, that is the question」

 声が変わった。


 普段の木村とは、別の声だった。

 同じ声帯から出ているのに、密度が違う。

 言葉が空気に混ざって消えるのではなく、空気そのものを動かした。

「whether 'tis nobler in the mind to suffer」——苦しみに耐えることが高潔なのか。

「the slings and arrows of outrageous fortune」——運命の矢に黙って従うことが。

 木村は台本を持ったまま一度も見なかった。

 声だけが部屋を動いた。

 浩二は石油ストーブの前に座ったまま、聞いていた。


 中盤、木村の声が一瞬揺れた。

 感情が先に来たのかもしれない。

 それでも立て直した。

 最後まで言い切った。

 しばらく、沈黙があった。

「どうだ」と木村が聞いた。

 普段の声に戻って。

「うまい」と浩二は言った。

「本当のことを言え」

「本当のことを言った」

 木村は浩二を見た。

 浩二は木村を見た。

「お前の方がうまいと思う」と木村は言った。

「そうは思わない」

「俺は思う」

「お前が思うかどうかは、明日の審査員には関係ない」

 木村は少し笑った。

「そうだな」と言って、また床に座った。

 ストーブに手をかざして、台本を膝に置いた。


 浩二は鏡の前に立った。

 部屋の端にある、縦長の姿見。

 古くて、端が少し錆びていた。

 鏡の中の自分を見た。

 二十二歳の顔がそこにあった。

 今より瘦せていて、目の下が少し落ち窪んでいた。

 毎晩遅くまで稽古していたから、慢性的に眠れていなかった。

 それでも、今の自分より何倍も目が光っていた気がした。


 台本を持って、独白を始めた。

 木村が聞いている。

 それが分かった。

 聞いているのが分かった上で、それを忘れて声を出した。

「To be, or not to be」——

 自分の声が、部屋の中に広がった。

 石壁に当たって、戻ってきた。

 戻ってきた声が、次の言葉を押した。

 浩二にとってのハムレットは、迷っている人間ではなかった。

 すでに答えが見えているのに、見えていることに耐えられない人間だった。

 その「耐えられなさ」が、浩二には、どこかで自分と繋がっていた。


 最後まで言い切った。

 木村が何も言わなかった。

 しばらくして、「そっちの方がいい」と木村は言った。

「お前には、お前のがある」

「そうだな」と木村は言った。

「そうだな、そうだ」

 繰り返し方が、少し変だった。

 浩二はそれを、木村なりの正直さだと思った。

「負けたくないけどな」と木村は言った。

 笑いながら。

「それはこっちの台詞だ」

「どっちが言っても同じか」

「同じだ」

 二人で少し笑った。

 笑いながら、互いに本気だと知っていた。

 本気を知っていながら笑える、それが二十二歳だった。


 その夜、もう一度だけ、二人でハムレットの場面を声に出した。

 今度は独白ではなく、ハムレットとホレイショーの場面。

 木村がハムレット、浩二がホレイショーを読んだ。

 役が逆でも良かった。

 どちらでも、声が動いた。

 台詞をやりとりする中で、相手の言葉に乗って、自分の言葉が変わった。

 それが演劇の、浩二にとって一番好きな瞬間だった。


「明日、どっちが選ばれても」と木村は言った。

 場面の途中で止まって。

「どっちが選ばれても、何だ」

「まあ、ビールでも飲もう」

「くだらない締めくくりだな」

「思いつかなかった」と木村は言った。

「もっとましな言葉がよかったか」

「いや」と浩二は言った。

「それでいい」


 それでいい、と思った。

 負けたくなかった。

 勝ちたかった。

 木村に負けたくなかった、ということではなく、ハムレットを演じたかった。

 あの独白を、舞台の上で言いたかった。

 それだけが、シンプルに、あの夜の浩二の中にあった。


 ストーブが、ちりちりと音を立てていた。

 外の風が、また窓を鳴らした。

 二人は台本を閉じた。

 木村が先に立って、荷物をまとめた。

「明日な」と言って、引き戸を開けた。

 外の空気が入ってきた。

 木村が廊下に出て、足音が遠くなった。

 浩二は最後にもう一度、鏡を見た。

 鏡の中の二十二歳が、浩二を見ていた。

 明日、この顔は何かを失うかもしれない。

 あるいは何かを得るかもしれない。

 どちらが来るかは、明日にならないと分からない。

 ただ、今夜のこの部屋のことは——木村の声が石壁に当たって戻ってきたこと、ストーブのちりちりという音、伸びた左肩のスウェット——全部、覚えているだろう、と思った。

 覚えているだろう、と二十二歳の浩二は思った。


 正しかった。

 四十九歳の坂本浩二は、書斎の椅子に座って、目を開けた。

 いつから目を閉じていたか、分からなかった。

 気づいたら、あの夜に戻っていた。

 窓の外は、十二月の夜だ。

 二十七年と、秋と冬、分の時間が経っている。

 浩二は机の引き出しを、特に何をするわけでもなく開けた。

 そこには融資案件のファイルが三冊と、ボールペンが数本と——あの台本はなかった。

 台本は書斎にはない。

 押入れの、ガムテープの段ボールの中にある。

 引き出しを閉めた。

 廊下の向こうで、悠樹の部屋のドアが開く音がした。

 トイレに起きたのかもしれない。

 足音が廊下を歩いて、また戻った。

 ドアが閉まる音。

 それだけだった。


 浩二は書斎の電気を消した。

 暗い中で、あの夜の木村の声をもう一度、静かに思い出した。

 そっちの方がいい、と木村は言った。

 二十七年間、その言葉の意味を、浩二はときどき考えた。

 褒め言葉だったのか、それとも——

 考えても、答えは出なかった。

 それでいい、とも思った。

 答えが出たとしたら、それはきっと、もっとさびしいことだ。

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