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第5話「澄江の楽屋」

 十二月の第一土曜日、浩二は再びさくら苑の玄関をくぐった。


 今度は自分からサインした。

 塩野が書類を持ってくる前に。

 なぜそうしたのかを聞かれれば、うまく答えられなかった。

 習慣というには早すぎるし、興味があると言うほど正直にもなれなかった。

 ただ塩野に笑顔で三点セットを出される前に、こちらから片付けた、というだけのことだ。


 田所は今回も来た。

 今回は自分でタンバリンを持参していた。

「それはどこで買ったんだ」と浩二は聞いた。

「百均です」と田所は言った。

 胸を張って。

 浩二はそれ以上、何も言わなかった。


 音楽レクリエーションは、先月と同じ多目的室で行われた。

 今月の選曲は少し変わっていたが、構造は同じだった。

 スピーカーから懐かしい曲が流れ、池田あかりがリズムに合わせて体を動かし、入居者たちが思い思いの楽器を鳴らした。

 田所はタンバリンを早速取り出して、先月より三割増しでノッていた。

 適応力というものは、なるほど才能だ。

 浩二は今月も手拍子をした。

 ただ先月より少しリズムを外さなかった、と思う。

 進歩と呼んでいいかどうかは判断できない。


 休憩のお茶が配られた時、池田あかりが浩二の隣に座った。

「先月、香川さんと話されてましたよね」と池田は言った。

 お茶を両手で持ちながら。

「少し」と浩二は言った。

「珍しかったです。香川さん、普通あんまり話さないので」

「普通は、どんな感じですか」

「集会には来ません。廊下の椅子に座ってるか、部屋にいるかで。他の入居者さんとも、ほとんど」池田は少し声を落とした。

「最初の頃、スタッフにも結構きつく当たられて。みんな苦労してて。今は私が担当なんですけど、なんとか関係は作れてますけど、難しいですね」

「元は女優だそうですね」

 池田が少し目を丸くした。

「話されたんですか。自分からはほとんど言わないのに」

「話したというより、名前だけ」

「あ、でも名前を言うのも珍しいですよ」と池田は言い、小さく「ふうん」とつぶやいた。

 何かを考えているような顔だった。

「舞台の方で有名な方だったんですか」と浩二は聞いた。

「詳しくは私も知らないですけど、入職した時に先輩から聞きました。昭和の小劇場の世界では知る人ぞ知る存在だったって。今みたいに映像の仕事はほとんどされてなかったらしくて、だから若い世代には知名度がなくて」

 池田はお茶を一口飲んで、続けた。

「でも舞台の上の写真を一枚だけ部屋に飾ってるんです。香川さん、多分三十代くらいの。その写真の顔が——なんか、普段と全然違うんですよ。すごい顔をしてる、という感じで。うまく言えないんですけど」

「その写真の顔が、本当の顔だということかもしれません」

 池田が浩二を見た。

「……そうかもしれないですね」と池田は言った。

「坂本さん、なんかそういうこと詳しそうですね」

「そうでもないです」と浩二は言い、お茶を飲んだ。


 廊下に出ると、香川澄江は同じ椅子に座っていた。

 同じ場所に、同じ姿勢で。

 まるで先月からそこにいたかのようだった。

 目を閉じて、腕を膝の上に置いている。

 浩二が近づく気配を察したのか、近づく前に目を開けた。

「また来ましたね」と澄江は言った。

「月に一度、活動があるようなので」

「銀行員は律儀ですね」

「義務だと思えば来ます」

「そうですか」澄江はかすかに笑った。

 笑い、とも言えないほどの表情の変化だったが、笑ったのだと浩二には分かった。

「正直な人ですね」

「嘘をつくより、正直に言った方が早い」

「それも舞台から学んだことですか」


 浩二は廊下の窓の外を見た。

 十二月の空が低かった。

「学んだ、というより」と浩二は言った。

「気づいたら、そうなっていた、という感じです」

 澄江は何も言わなかった。

 ただ浩二を見ていた。

 浩二は廊下の端の、澄江から少し離れた場所に立ったまま、先月の問いをまだ引きずっていることに気づいた。

「どうして、やめたんですか」。

 先月は答えなかった。

 今日答える準備があるかといえば、ない。

 ただ、ここに来た。

「池田さんに聞きました」と浩二は言った。

「舞台の方だったと」

「あの子はよく喋る」

「教えてくれたわけじゃないです。聞いた方が私です」

 澄江は少し黙った。

「何十年ものことです」と澄江はやがて言った。

「今はただの八十二歳のおばあさんです」

「廊下の端でいつも目を閉じているのは、なぜですか」

「聞こえるんですよ」

「何が」

「あの部屋の音が」澄江は多目的室の方向に顎をわずかに向けた。

「下手な手拍子と、カスタネットと、あなたの連れの方のタンバリンが。でも音楽というのは不思議なもので、どんなに下手でも、音が重なると何かになる。それを聞いているんです」


 浩二はしばらく黙っていた。

「あなたが手拍子しか打たないのは、歌えないからじゃないでしょう」と澄江は続けた。

「声を出したくないからだ」

「そんなことは」

「嘘をつかない方がいい、と言ったのはあなたですよ」

 浩二は口をつぐんだ。

 澄江は静かに、しかしはっきりした声で言った。

「声の使い方が、素人じゃない。喋る前の息の止め方、言葉を出す時の腹の使い方——そういうものは、訓練した体に残る。何年経っても、消えない」

 浩二は答えなかった。


「一つ、聞いていいですか」と澄江は言った。

「どうぞ」

「ハムレットの、独白。今でも言えますか」

 浩二は澄江を見た。

 澄江は浩二を見ていた。

「To be, or not to be」と澄江が言った。

 静かに。

 ただそれだけを。

 浩二の口が、ほんのわずか、動いた。「——that is the question」

 声にはならなかった。

 唇が動いただけだ。

 でも、動いた。

 澄江の目が、細くなった。

 笑ったのだと、浩二にはわかった。

「やっぱりそうだ」と澄江は言った。

 しばらく黙ったあとで、澄江は言った。

「来年の二月に、文化祭があります」

「はあ」

「毎年、入居者が何かを披露する。歌う人もいれば、踊る人もいる。私は去年も一昨年も参加しませんでした。今年はしようと思っています」

 浩二は何も言わなかった。

「ただ、一人ではできない演目を考えています」

「……どのような演目ですか」

「二人で行う対話の芝居です。台詞はこちらで用意します」。

 澄江は浩二の方を真直ぐ見た。

「相手役を、引き受けてもらえますか」


 廊下が静かだった。

 多目的室からは、田所のタンバリンの音が、まだ聞こえていた。

「考えます」と浩二は言った。

「いい返事です」と澄江は言った。

「『はい』でも『いいえ』でもなく、『考える』と言う。考える気があるということです」

「そういう意味では言っていません」

「そういう意味に聞こえましたよ」

 浩二は返す言葉を探したが、見つからなかった。

「一つ、だけ教えてください」と浩二は言った。

「なんですか」

「なぜ、私なんですか」

 澄江はしばらく黙った。

 廊下の窓から、冬の光が細く入っていた。

「あなたは」と澄江はやがて言った。

「舞台に立ったことを、後悔していますか」

「それは質問への答えになっていません」

「答えです」澄江は静かに言った。

「後悔していない人間は、やめた理由を聞いても黙らない。あなたは先月、黙った」

 浩二は何も言えなかった。

 澄江はまた目を閉じた。

 終わった、という合図のように。

「また来月」と澄江は言った。

 声だけで。


 浩二は頭を下げて、多目的室の方へ歩いた。

 廊下の端から多目的室まで、何歩あるか、今日初めて数えた。

 二十二歩あった。

 帰りの車の中、田所が助手席でタンバリンをケースにしまいながら言った。

「また香川さんと話してましたね」

「少しな」

「今日は長かったですよ。私、ちらっと廊下から見ましたけど」

「見ていたのか」

「なんか、雰囲気が違うなと思って。普段の部長と」

「普段と、どう違った」

 田所は少し考えた。

「なんか、普段の部長が仕事の顔をしている、とすると——今日の顔は、仕事じゃない何かの顔をしていた、という感じですかね。うまく言えないですけど」

 浩二は前を向いて、ハンドルを握っていた。

「田所」

「はい」

「タンバリン、来月も持ってくるか」

「もちろん持ってきます。次は鈴も買おうかと」

「そうか」

 それだけ言って、浩二は黙った。


 窓の外、十二月の夕方が始まっていた。

 街灯がひとつ、またひとつと灯り始めて、さくら苑のある路地が遠くなっていった。

「考える」と浩二は自分の中でもう一度、繰り返した。

 考える気があるということだ、と澄江は言った。

 そうではない、と言い切れなかった。

 それが、今夜の浩二の正直なところだった。

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