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第4話「さくら苑のボランティア」

「坂本部長に行っていただけると、大変助かります」

 総務部の塩野が言った。

 笑顔で言った。

 言いながら、逃げ場のない角度に書類を置いた。

 年末のボランティア活動、地域貢献実績の記録、参加者氏名欄の空白。

 三点セット。

「私が行く必要がありますか」と浩二は言った。

「部長クラスの参加実績が、今年は少なくて」と塩野は言った。

 笑顔のまま。

「是非お願いしたいと、上からも」

「上から、というのは」

「専務から、です」


 浩二は書類を手に取った。

「さくら苑 地域交流ボランティア」と書いてある。

 日時は土曜日の午前。

 内容は「入居者との交流活動(音楽レクリエーション)」とある。

 音楽レクリエーション。

「断れますか」と浩二は聞いた。

「非常に難しいです」と塩野は言った。

 笑顔で。

 浩二は書類にサインをした。


 当日、さくら苑の玄関に着いたのは、午前十時少し前だった。

 田所が隣にいた。

「私も行きます」と自分から言い出した男。

 浩二が断る前に話が進んだ。

 今朝、最寄り駅で「部長、こういう場所の方が向いてると思いますよ」と言っていた。

 何を根拠に言っているのか、浩二には判断できなかった。

 施設の入口を入ると、若い女性スタッフが駆け寄ってきた。

「本日はよろしくお願いします! 坂本さんと田所さんですよね。池田です!」

 声のボリュームが大きかった。

 施設の廊下に反響した。

 池田あかり、名札にある。

 二十代後半、と見えた。

 目が大きく、動きが速く、話しながら同時にクリップボードを確認していた。

「今日は音楽レクリエーションということで、皆さんと一緒に歌っていただいたり、楽器を使った簡単なリズム体験をしていただいたりします!ご経験はおありですか?」

「ないです」と浩二は言った。

「私もないです」と田所が言った。

「大丈夫です! 難しいことは何もないですので!」

「はあ」と浩二は言った。

「皆さん喜んでくださいますので、どうぞリラックスして!」


 リラックス、という言葉と、今の自分の状態の距離について、浩二は軽く考えたが、答えは出なかった。

 多目的室は、二十人ほどの入居者が集まっていた。

 テーブルが輪になるように並べられ、それぞれの前に小さなタンバリンや鈴や、カスタネットのたぐいが置いてある。

 ホワイトボードには「今日の歌♪」と書かれ、懐かしい歌謡曲のタイトルがいくつか並んでいた。

 浩二はテーブルの隅の椅子に案内された。

 田所がすでに隣のおじいさんと何かを話していた。

 順応が早い。

 社交性というのは、才能の一種だと浩二は思った。

 自分には残念ながら、その才能が薄い。

「では最初に、肩ならしで一曲いきましょう!」と池田が言い、スピーカーからイントロが流れ始めた。

 入居者たちが口々に曲名を言った。

 池田が手拍子をしながら「坂本さんも一緒に!」と声をかけてきた。

 浩二は手拍子をした。

 リズムは合っていたと思う。

 歌は口パクにした。

 知らない曲ではなかったが、声に出す理由が見つからなかった。


 二曲目になると、田所は完全にノリノリになっていた。

 小さなタンバリンを借りて、叩いていた。

 隣のおじいさんと目を合わせて笑っていた。

 浩二は手拍子を続けた。

 三曲目の終わりに、池田が「休憩しましょう!」と言い、スタッフがお茶を配り始めた。

 浩二はひと息ついた。

「向いてないでしょう、こういうの」と田所が耳元で言った。

「お前も同じ立場だ」

「いや、私は楽しいですよ」

「……そうか」

「部長、ずっと手拍子だけでしたね」

「それの何が悪い」

「悪くないですけど」と田所は言い、タンバリンを軽く叩いた。

「さっきのおじいさん、面白い方でしたよ。元大工さんで、孫が九人いるって」

「そうか」

「部長も話しかければよかったのに」

「話しかけるネタがなかった」

「そういうのは後から出てくるんですよ」と田所は言って、またタンバリンを叩いた。浩二には、その理屈がどうもよくわからなかった。


 休憩の間、浩二はお茶を持ったまま、廊下に出た。

 多目的室の喧騒から少し離れたかった、というのが正直なところ。

 廊下は静かで、冬の陽が窓から細く入っていた。

 廊下の端に、椅子が一脚あった。

 そこに老婦人が一人、座っていた。

 集会には参加していないらしい。

 背筋が伸びていた。

 年齢は八十を超えているだろうが、骨格のせいか、座り方のせいか、どこか小さく見えなかった。

 目を閉じて、腕を膝の上に置いている。

 寝ているのではなかった。

 目を閉じたまま、何かを聞いているような姿勢だった。

 浩二は少し迷ってから、近づいた。

「失礼します」と言った。

「冷えませんか」

 老婦人が目を開けた。

 浩二を見た。

 視線が、下から上へゆっくり動いた。

 顔、肩、立ち方。

 何かを確認するような目だった。

「あなた」と老婦人は言った。

「はい」

「舞台に立ったことが、あるでしょう」


 浩二は、手に持ったお茶のカップが、少しだけ傾いた気がした。

「いいえ」と浩二は言った。

「嘘をつかない方がいい」

「嘘ではありません。ボランティアで参りました、銀行の——」

「銀行員かどうかは見ればわかります」老婦人は静かに言った。

 声は低く、穏やかで、しかし遮る力があった。

「でも、立ち方が銀行員だけのものじゃない。話す前の、息の止め方。ああいうのは、舞台を経験した人間の体に残る」

 浩二は答えなかった。

「随分前のことでしょうけれど」と老婦人は続けた。

「体というのは、正直です。頭が忘れても、体は覚えている」


 廊下の向こうから、多目的室のお茶の時間の声が聞こえていた。

 田所が誰かと笑っている声も。

 浩二は立ったまま、しばらく何も言えなかった。

「香川澄江」と老婦人は言った。

 自己紹介のつもりらしかった。

「あなたは?」

「……坂本です」と浩二はようやく言った。

「坂本浩二」

「坂本さん」と香川澄江は言った。

「次も来ますか、ここに」

「月に一度、活動があるようで」

「そう」澄江は目を窓の外に向けた。

 冬の青い空が、廊下の窓に細く切り取られていた。

「なら、また話しましょう」

 浩二は頷いた。

 頷いてから、なぜ頷いたのか、自分でも少し不思議に思った。


「坂本さん」と澄江がまた言った。

「はい」

「どうして、やめたんですか」

 問いの意味が、すぐにわかってしまった。

「やめた、というほどのものでは」と浩二は言った。

「そうですか」

 澄江はそれ以上、聞かなかった。

 また目を閉じた。

 廊下の端の椅子の上で、元の姿勢に戻った。

 浩二は頭を下げて、多目的室の方へ歩き始めた。


 三歩ほど歩いて、立ち止まった。

 振り返ると、澄江はもう目を閉じていた。

 何かを聞いているような、あの姿勢で。

 浩二は前を向いて、また歩き始めた。

 帰り道、田所が「どうでした?」と聞いた。

「何が」

「全体的に」

「向いていなかった」と浩二は言った。

「また来月もありますよ」

「知っている」

「今日、廊下で誰かと話してましたよね」と田所が言った。

「池田さんに聞いたら、香川さんていう方だって。あの方、スタッフの方もちょっと手を焼いてるみたいで」

「そうか」

「なんか、難しい方らしいですよ。集会にも出ないし、他の入居者とも話さないし」

「そうか」と浩二はもう一度言った。

 田所はそれ以上、特に言わなかった。


 浩二は歩きながら、澄江の声を思い出していた。

 穏やかで、低くて、遮る力があった。

 あの声の使い方を、浩二は知っている。

 知っている、と思った。

 どこかで、あの声の種類を、浩二は知っていた。

 どうして、やめたんですか。

 聞かれた時、答えられなかった。

 答えが出てこなかったのではない。

 答えが出てきてしまったから、言えなかった。

 そういう問いというのが、世の中には、ある。

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