第3話「ハムレットと息子」
木曜日の夕方、玄関が開く音がした。
続いて「ただいまー」という声。平日の悠樹の帰宅は、だいたい六時前後で、声の大きさで今日の機嫌がわかる、と陽子はいつかそう言っていた。
浩二はそういう読み方をしたことがなかったが、今日の「ただいまー」は、言われてみれば確かに普段より音量があった。
浩二は書斎で持ち帰りの書類を見ていた。
台所から陽子の「お帰り」が聞こえて、それから悠樹の「お母さん、聞いて」という声が続いた。
「お母さん、聞いて」というのは珍しい。
普通は何も言わずに部屋へ直行するか、冷蔵庫を開けるかのどちらかだ。
「どうしたの」という陽子の声。
「本決まりになった。ハムレット、俺」
一拍の沈黙があった。
「え!」という陽子の声が、廊下を抜けて書斎まで届いた。
「本当に? 主役?」
「だから言ったじゃん。先週から練習してるって」
「それは聞いてたけど、正式にってこと?」
「今日、部の発表があって。ちゃんと名前が出た」
「すごいじゃない!」
陽子の声のボリュームが、さらに上がった。
浩二は書類から目を上げて、廊下の方を見た。
ドアが少し開いていた。
「やだ、どうしよう。ビデオ撮らないと。カメラ、どこだっけ。ちゃんとしたカメラ」
「スマホでいい」
「スマホじゃ暗い時に映らないのよ。体育館とか暗いでしょう。ねえ、ハムレットってどんな話なの。シェイクスピアよね。有名よね。ねえ聞いてる?」
「聞いてるから、とりあえず着替えてくる」
「ちょっと待って。お父さんに言った?」
間があった。
「……まあ、今から言う」
廊下を歩く足音が、書斎の前で止まった。
「お父さん」と悠樹が言った。
ドアを半分開けたまま、中には入ってこなかった。
「なんだ」と浩二は言った。
書類を机に置いた。
「ハムレット、正式に決まった。主役」
「ああ」と浩二は言った。
一秒の沈黙。
「……そうか。おめでとう」
「うん」
それだけだった。
悠樹は廊下へ戻り、自分の部屋へ消えた。
足音がして、ドアが閉まる音がした。
書斎に浩二一人が残った。
「おめでとう」と言った後に、何か続けるべきだったかもしれない。
「どのくらい練習してるんだ」とか、「台詞は覚えたのか」とか。
いくつかの言葉が、後から浮かんできた。
全部、少し遅かった。
夕食は、陽子が主導する形になった。
テーブルに着くなり「ハムレットって、お父さん知ってる?」と聞いてきた。
浩二に向かって。
「知ってる」と浩二は言った。
「どんな話なの。わかりやすく教えて」
「復讐の話」
「え、怖い話?」
「お父さん、それだけ?」と悠樹が言った。
少し面白そうに。
「大雑把に言えばそうだ」
「主人公の王子が、亡くなったお父さんの幽霊に会って——」
「ちょっと待って」と陽子が割り込んだ。
「幽霊が出るの?」
「出る」と悠樹が言った。
「怖い話じゃないの」
「幽霊は出るけど怖い話じゃない。もっと、哲学的な感じ」
「哲学的ってどういうこと」
「生きるべきか死ぬべきかとか、そういう」
「それ、朝練習してたやつだな」と浩二は思わず言った。
悠樹が浩二の方を見た。
「聞こえてたの」
「聞こえた」
「……やだ」
「別にやだじゃないだろう」
「恥ずかしいじゃん」と悠樹は言い、箸を動かした。
耳が少し赤かった。
陽子はその様子を見て、台所へお茶を取りに立った。
背中を向けたまま、肩が少し揺れていた。
笑っているのか、笑いをこらえているのか、浩二にはどちらかわからなかったが、どちらでも構わなかった。
悠樹の耳が赤い。
それだけで、今夜の夕食は少し違う温度をしていた。
「発表会、いつだ」と浩二は聞いた。
「一月の終わり」
「何日だ」
「まだ決まってない。来週には言われると思う」
「そうか」
「……来る?」
浩二は箸を止めた。
来るか、と聞かれた。
今週で二回目だ。
先週末は「忙しい」と答えた。
同じ答えを二回続けるのは、さすがに何かが違う気がした。
「予定による」
「まあ、そうだよね」と悠樹はあっさり言って、また箸を動かした。
「予定が合えば行く」と浩二は付け足した。
「うん」と悠樹は言った。
それきりだった。
陽子がお茶を持って戻ってきた。
「お父さんも来てくれるの?」と明るい声で言った。
「よかった」
「まだ何も決めてない」
「来てくれるっていうことよね」
「言ってない」
「そういうことよね」と陽子はもう一度言って、自分のお茶を飲んだ。
この人は時々、浩二の言葉を自分の都合のいいように翻訳する。
二十二年の結婚生活で、それに反論して勝ったことは、一度もない。
食後、悠樹は珍しく少し長くリビングにいた。
陽子とハムレットの話をしていた。
陽子が「衣装どうするの」と聞き、悠樹が「学校で用意してくれるんじゃないの」と答え、陽子が「でも体型に合わせてないと変よ」と言い、悠樹が「大丈夫だって」と言う、そういう会話だった。
浩二はソファの端に座って、書類の続きを読んでいるふりをした。
いるふりを、していた。
悠樹の声は、壁越しに聞いた時より少し高かった。
部屋の外に出ると、まだ少し子供の声がある。
中学二年生の秋、ということ。
台詞の練習では低く落ち着かせようとしているが、普段の会話では地声が戻ってくる。
その地声が、悪くなかった。
余計な力みがない、というのは、先週も同じことを思った。
誰かに教わったわけではないだろう。
教わってあの声が出るなら、もっと演劇部員が揃って同じ声になっているはずだ。
ならない。
生まれつき持っているものが、あの声を作っている。
浩二は書類の端を、無意識に折っていた。
気づいて、伸ばした。
悠樹が部屋へ戻り、陽子が洗い物を終えて、家の中が静かになったのは、九時を回った頃だった。
浩二は書斎の奥にある押入れを開けた。
特に探していたわけではない。
年に一度、整理をする習慣があって、今日がその日というわけでもない。
ただ何となく、手が動いた。
押入れの奥には段ボールがいくつかある。
銀行関係の古い資料、学生時代の教科書のたぐい、それから——。
奥の、一番下の段ボールに、手が止まった。
ガムテープが貼ってある。
古くなって、端がめくれている。
浩二が自分で封をした段ボール。
いつ封をしたか、正確には覚えていない。
この家に引っ越してきた時にはもうあったから、少なくとも二十年以上前だ。
開けなくていい。
そう思った。
思いながら、指がガムテープの端をつまんでいた。
剥がす音がした。
中には、大学時代のものが詰まっていた。
ノート、文庫本、写真が数枚、それから——台本が、数冊。
演劇部で使った台本。
浩二は台本を一冊、手に取った。表紙は白で、タイトルが印刷してある。
『ハムレット』
二十七年前の、あの台本。
表紙の右下に、浩二自身の筆跡で「坂本浩二」と書いてある。
細いシャープペンシルで書いた、二十二歳の頃の文字。
今の自分の字より少し角が立っていた。
浩二は台本を開いた。
最初のページ。
冒頭の場面。
余白に書き込みが入っている。
「息を止める」「二歩下がる」「ここで木村を見る」——あの頃、稽古のたびに書き足していた言葉。
「ここで木村を見る」。
浩二は、その文字を少し長く見た。
それから、台本を閉じた。
段ボールの中に戻して、ガムテープを貼り直した。
きっちりと。
元の場所に戻して、押入れを閉めた。
書斎の電気を消して、廊下に出た。
悠樹の部屋のドアの下から、明かりが漏れていた。
まだ起きている。
何をしているかは知らない。
台詞の練習かもしれないし、スマホを見ているだけかもしれない。
浩二は廊下を歩いて、洗面所へ向かった。
歯を磨きながら、鏡の中の自分を見た。
四十九歳、融資部長の顔をしている。
どこをどう見ても、融資部長の顔。
二十七年かけて、そういう顔になった。
鏡の中の顔が、歯ブラシをくわえたまま、浩二を見返していた。
何も言わなかった。
何も言う必要がなかった。
浩二は口をすすいで、電気を消した。




