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第2話「木村という男」

 土曜日の朝は、平日より三十分遅く始まる。


 誰かが決めたわけではない。

 いつの間にか、そうなっていた。

 浩二が七時半に起きてリビングのソファに座り、陽子が八時頃に台所で動き始め、悠樹が九時前後に寝ぐせのついた頭で出てくる。

 その順番も、その間合いも、誰も変えようとしない。

 変える理由がないからだ。


 浩二はソファで新聞を広げていた。

 地方紙の朝刊を購読しているのは、職場の習慣が抜けないからだ。

 情報は紙で確認したい、という感覚が、四十九年でどこかに染み込んでいる。

 陽子には去年、「スマホで見ればいいじゃないの」と一度だけ言われたが、浩二は答えなかった。

 陽子も特に追わなかった。

 それで今も新聞は届き続けている。

 坂本家の意思決定は、おおむねそのように機能している。

 政治欄をめくり、経済欄をめくり——。

 そこで気づいた。

 悠樹の部屋の方角から、声がしていた。

 低い。

 まだ声変わりの途中にある、十四歳の少し不安定な声だ。

 何かをつぶやいている、のではなく、一定のリズムがある。

 台詞を読んでいる声だ。

 浩二は新聞から目を上げなかった。

 ただ耳だけが、そちらに向いた。


「——生きるべきか、死すべきか、それが問題だ——」

 ドア越しに漏れてくる声は、途切れ途切れで、所々つかえていた。

 それでも声そのものには変な癖がなかった。

 すっと出てきて、すっと消える。

 余計な力みがない。

 浩二は新聞を一枚めくった。

 文化欄は、いつも紙面の後ろの方にある。

 浩二の職業的な習慣として、新聞はまず経済欄から読む。

 それから社会欄、地域ニュース、スポーツ、最後に文化。

 文化欄は読まない日も多い。

 今日も特に読もうと思ったわけではなかった。

 ただ、そのコラムは、そこにあった。

 七行ほどの小さな記事。

 県内の演劇事情を紹介する連載コーナーの、今週分。

「注目の俳優」という見出しのついた欄に、木村光の名前が、三行目に出てきた。

 〈県出身の俳優・木村光は、首都圏を中心とした小劇場の世界で着実に評価を高めており、来春の新作公演は早くも注目を集めている。台詞のの使い方に定評があり——〉

 台詞の間の使い方に、定評がある。

 浩二は、その一文を二回読んだ。

 それから、もう一回読んだ。

 三回読んで、新聞を折りたたんだ。

 記事の部分が内側に来るように、丁寧に折った。

 それを膝の上に置いて、窓の外を見た。

 秋晴れの土曜日。

 隣の家の柿の木の葉が、半分落ちていた。

 台詞の間の使い方に定評がある、か。

 そうか、と浩二は思った。そうか。


 九時十分、悠樹が部屋から出てきた。

 寝ぐせが三方向に跳ねていた。

 目が半分しか開いていない。

 パジャマのまま冷蔵庫を開けて、麦茶をひとくち飲んで、それからソファの浩二の存在に気づいたように「あ」と言った。

「おはよう」と浩二は言った。

「……う」と悠樹は言った。

 これが挨拶かどうかは、解釈による。

 坂本家では挨拶として扱うことに、いつからか決まっている。

 陽子がトーストを二枚焼いてテーブルに出した。

 悠樹が引き寄せてバターを塗り始めた。

 浩二は自分のコーヒーを飲んだ。

 陽子がもう一杯分のお湯を沸かしながら言った。

「今日、演劇部の練習は?」

「午後から」と悠樹は答えた。

 口の中にトーストが入ったまま。

「何時に帰る?」

「わかんない。六時くらい」

「夕飯、家で食べる?」

「食べる」

 会話というより、物流の確認だ。

 浩二はコーヒーを飲みながら、その短い交換を聞いていた。

「何の練習してるんだ」

 自分でも驚いた。

 口から出た、と気づいた時にはもう遅かった。

 悠樹がトーストから顔を上げた。

 陽子が沸かしていたケトルを止めた気配がした。

「……ハムレット」と悠樹は言った。

「学校の発表会で?」

「そう。一月の終わり」

「主役か」

「うん」

「そうか」

 それで会話は終わった。

 浩二はコーヒーを飲んだ。

 悠樹はトーストの残りを食べた。

 陽子がコーヒーをもう一杯、浩二の前に静かに補充した。

 何でもない土曜日の朝だった。

 ただ悠樹が席を立ちながら、ちらっと浩二の方を見た。

 父親が珍しく話しかけてきたことを、どう処理すべきか計算しているような顔。

 十四歳というのは、時々、妙に鋭い顔をすることがある。

「練習、見に来る?」

 浩二は一秒、間を置いた。

「忙しい」

「そうか」と悠樹は言った。

 特に傷ついた様子もなく、あっさりと部屋へ戻った。


 昼過ぎ、悠樹が出かけた後、家の中が静かになった。

 陽子は洗濯物を畳んでいた。

 浩二はソファで、さっき折りたたんだ新聞を、また広げた。

 文化欄のコラムを、四回目に読んだ。

 〈台詞のの使い方に定評があり、特に独白の場面での静寂の作り方は、ベテランの批評家からも高く評価されている〉

 浩二は記事を読みながら、ぼんやりと思った。

「間の作り方」というのは、教えられて身につくものではない、と。

 少なくとも、浩二はそう思っていた。

 技術というより、もっと本能に近い何か。

 相手の息を読んで、場の密度を感じて、今ここで黙ることが言葉より重くなる瞬間を、体で知っている、ということ。

 木村には昔から、それがあった。

 大学の演劇部の稽古場で初めてそれを見た時のことを、浩二はまだ覚えている。

 木村が台詞を言い終えた後に作る「間」が、部屋の空気を変えた。

 その場にいた全員が、次の言葉を待つことを忘れた。

 待つのではなく、息を止めた。

 あれは、才能というものだった。


「木村って」と陽子が言った。

 浩二は少し驚いた。

 洗濯物を畳みながら、こちらは見ていない。

「新聞に出てた」と浩二は言った。

「見てた」と陽子は言った。

「三回、読んでたでしょう」

 浩二はソファの上で、わずかに姿勢を正した。

「別に」

「連絡、取ってないの?」

「取ってない」

「ふうん」

 陽子はそれ以上、何も聞かなかった。

 洗濯物をタンスに持っていき、廊下に消えた。


 三回しか読んでいない。

 四回目は陽子がいない時に読んだ。

 それをどこまで彼女は把握しているのか、浩二には判断できなかった。

 長く一緒にいる人間というのは、時々、範囲不明の観察をしてくることがある。

 リビングに浩二一人が残った。

 窓から光が差していた。

 秋の午後の、角度の低い光だ。

 近所の子供の声が、どこか遠くから聞こえていた。

 浩二は新聞を手に取り、また折りたたんだ。

 今度は記事が外側に来るように。

 それをソファの隅に置いて、何をするともなく天井を見た。

 木村光。

 台詞の間の使い方に定評がある。

 二十七年前の稽古場を、浩二はたまに思い出す。

 たまに、というのは、思い出したくなくても思い出してしまう、という意味だ。

 思い出そうとして思い出すことは、もうほとんどない。

 稽古場は体育館の隅にある小さな部屋だった。

 窓が一枚、天井近くにあった。

 夏は暑く、冬は寒く、どの季節も床が硬かった。

 椅子が足りなかったので、稽古の合間は床に直接座った。

 木村はいつも台本を持ったまま、壁に背を預けていた。

 浩二が何か言うと、木村はゆっくり顔を上げて、少し考えてから答えた。

 その「少し考えてから」の部分が、すでに演技のように見えた。

 天才だとは思わなかった。

 そういう言葉は、木村には似合わなかった。

 ただ、この男と同じ舞台に立てるなら立ちたい、と思った。

 同時に、この男と同じ舞台に立てば、自分がどちらになるかは分かっている、とも思っていた。

 それでも、あの頃の浩二は臆していなかった。


 夕方、悠樹が帰ってきた。

「ただいまー」

 廊下から聞こえる声が、朝よりほんの少し大きかった。

 気のせいかもしれない。

 浩二はすでに風呂から上がって、寝室で本を読んでいた。

 台所から陽子の「お帰り。夕飯、あと十分」という声がして、悠樹の「わかった」が続いた。

 浩二は本に目を戻した。

 活字を追いながら、内容が頭に入ってこなかった。

 練習、どうだったか。

 聞けばよかったかな、と思った。

 でも夕食の席で聞けばいい、とも思った。

 夕食の席でも、結局聞かないかもしれない。

 聞こうとして、聞かずに終わる夜が、これまでに何度あったか。

 正直、数えていない。

 浩二は本を閉じた。しおりを丁寧に挟んで。

 廊下から夕食の匂いが漂ってきていた。

 醤油と、何か甘いものが混ざった匂い。

 それが何の料理か、陽子が言えば分かるし、食べれば分かるが、今の段階では分からない。

 分からなくても、食卓に行けばある。

 それが今の坂本家だ。


 浩二は立ち上がりながら、ふと思った。

 悠樹の「ハムレット」の台詞が、今朝、壁越しに聞こえてきた。

 あの声には、変な力みがなかった。

 もしかしたら、と思ったが、その先は考えなかった。

 考えるには、比べる相手がいる。

 比べる相手のことは、今日だけで新聞のコラムを四回読んだ。

 それで、十分だ。

 廊下へ出ると、台所の方からいい匂いがして、悠樹がすでにテーブルの椅子を引く音がした。

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