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第1話「融資部長の間(ま)」

「To be, or not to be」——その続きを、二十七年間飲み込んでいた。

 坂本浩二には、相手が何を言おうとしているか、言葉より先にわかってしまう、という妙な癖がある。


 予知でも直感でもない。

 もっと地味なもの。

 相手の呼吸の速さ、視線の落ち方、膝の上で組んだ手の力加減——そういうものを半ば無意識に読み取って、次の言葉を先読みする。


 職場では「坂本部長は交渉が早い」と言われる。

 本人は「それほどでも」と答えて、それ以上の説明をしない。

 この月曜日も、午前十時に小さな工務店の二代目社長が融資課の応接室に入ってきた瞬間から、浩二にはだいたいの見当がついていた。

 スーツの肩が心なしか落ちている。

 靴は磨いてあるが、かかとだけ汚れが残っている。

「急いで準備した」と「でも気は抜けない」が同居した格好だ。

 手に持つ書類の角が、少し折れていた。


「先日はわざわざご連絡をいただきまして——」

 担当の若手、金田が口を開く前に、浩二はテーブルの上の書類に目を落とした。

 売上高の推移、借入残高、直近三期の決算書。

 数字は悪くない。

 来月だけが突出して資金繰りが厳しく、大口の支払いが三件、偶然に重なっている。

 ただし手持ちの受注残は潤沢で、半年後には収支が改善する計算になっている。


 問題は、目の前の山岸社長が、そのことを自分でも理解しているのに、うまく言語化できていない点だった。

 焦りが先に立っていて、言葉が追いついていない。

「御社の現状なんですが、こちらの資料を見ますと——」と金田が説明を始めかけた瞬間、浩二は軽く咳払いをした。

 金田が止まる。

 応接室の空気が少しだけ変わる。


「山岸さん」

 浩二は書類から顔を上げた。

「来月の末に何が重なるか、もう一度、あなた自身の言葉で聞かせてもらえますか。数字じゃなくていい。あなたが今、一番困っていることを」

 山岸社長の肩が、ほんの少し下がった。

「あ、はい、ええと——」

 そこから先は、本人がしゃべった。

 支払いのこと、受注のこと、先代から引き継いだ取引先との長い付き合いのこと。

 従業員が十一人いて、自分が二代目に就いてからまだ四年で、父親のやり方を守りながらも少し変えようとしていること。

 浩二は時々、短い相槌を打つだけで、ほとんど黙って聞いた。

 金田は手元のメモをせっせと取りながら、隣の部長がほとんど発言していないことに、いつものように気づかないでいた。


 二十五分後、融資の方向性はほぼ固まっていた。

 廊下に出ると、田所が自販機の前で待っていた。

 五十二歳、融資課のベテラン係長で、浩二の右腕と呼ばれる男だ。

 自分では目立とうとしないが、職場の空気を読む能力だけは異常に高い。

「山工さん、まとまりましたか」

「たぶん」と浩二は言った。

「金田に案を作らせる。あとは数字の話」

「お疲れ様です」

 田所は自販機で缶コーヒーを二本買い、温かい方を浩二の前に差し出した。

 毎回そうだ。

 聞いてから買うのではなく、先に買って差し出す。

「また、喋らせる作戦でしたか」

「作戦じゃない」

「でも効くんですよね、あれ。部長がほとんど喋らないのに、相手が全部話しちゃう」


 浩二はコーヒーを一口飲んで、廊下の窓の外を見た。

 十一月の空が低く、重たかった。

 正確に言えば、喋らないのではない。

 必要なことしか言わない、というだけだ。

 言葉を絞れば、相手の言葉が増える。

 増えた言葉の中に、本当のことがある。

 それだけの話だ。

 ただ、それをどこで覚えたかは、言わない。

 言う必要がない。

「次、三時から別の案件が入ってますね」と田所が言った。

「わかってる」と浩二は答えた。

 缶の底に残ったコーヒーを飲み干して、浩二は廊下を歩き始めた。


 帰りの電車は、いつも混んでいる。

 浩二は吊り革を持ったまま、窓の外を眺めた。

 車窓を流れる景色に、特に意味はない。

 ただ顔をどこかに向けていれば、隣の人間と目が合わずに済む。

 それが四十九年で身につけた、地味な処世術。

 最寄り駅まで三十二分。

 スマホを開く。

 メールをひとつ確認する。

 次の案件の書類が添付されていた。

 ちらと見て、閉じる。

 SNSのアプリが通知を出していた。

 開かなくていい。

 だが親指が動いてしまった。

 フィードをスクロールする。

 同僚の投稿、どこかの飲食店の写真、猫の動画、見知らぬ誰かの旅行記——。


 指が止まった。

 木村光が新しい投稿をしていた。

 来春の公演告知だ。

 シェイクスピア作品を下敷きにした新作、と書いてある。

 主演・木村光。

 添付された写真は一枚、稽古場の風景だった。

 台本を手に持ち、仲間と何かを話している横顔。

 四十八歳になった木村は、若い頃より少し肉付きがよくなっていたが、目だけは昔と同じように、よく動いていた。

 舞台の上でも、稽古場でも、あの目だけはいつも別のものを見ていた。

 一秒、浩二は止まった。

 それから、スクロールを再開した。


 家に帰ると、陽子は台所にいた。

「おかえり」

「ただいま」

 玄関を開けた瞬間に鍋の音と炒め物の匂いがした。

 それだけで、浩二の中で「今日の夕食は何か」という問いが生まれて、消えた。

 聞かない。

 言われれば食べる。

 坂本家の夕食というのは、おおむねそういうものだ。


 悠樹は自分の部屋にいた。

 ドアが閉まっている。

 夕食の時間まで出てこないのは、いつものことだ。

 中学二年生の息子が部屋の中で何をしているか、浩二はよく知らない。

 聞いたことがほとんどない。

 聞かれたこともない。

 それが坂本家の、ごく自然な夕方だった。


 食卓を三人で囲んだ。

 陽子が今日の献立を簡単に説明した。

 悠樹が「肉、多め」と言った。

 陽子が「自分でよそいなさい」と言った。

 浩二は黙って箸を動かした。

 テレビのニュースが流れていた。

 どこかの国の選挙。

 どこかの企業の合併。

 浩二は画面に顔を向けながら、特に見ていなかった。


「演劇部、また発表会の練習始まったって」

 悠樹が不意に言った。

 陽子が「そう、いつ?」と返した。

 悠樹は「一月の終わり」と言い、それきり箸を動かした。

 浩二は何も言わなかった。

 演劇部という言葉は、確かに耳に入った。

 ただ、何かを感じるより先に、脳のどこかにある古い引き出しが、すっと閉まった。

 長年、そうしてきた。

 意識してそうするのではなく、引き出しが勝手に閉まる。

 そういう反射が、気づかないうちに備わっていた。


 夕食の残りを片付けて、陽子が「お風呂、先入る?」と聞いた。

 浩二は「後でいい」と答えた。

 悠樹はとっくに部屋へ戻っていた。

 一人になったソファで、浩二はスマホをまた開いた。

 木村の投稿を、もう一度見た。

 稽古場の横顔。

 台本を持った右手。

「いいね」のボタンには、触らなかった。

 アプリを閉じて、スマホを膝の上に置いた。

 窓の外で風の音がした。

 秋の終わりの、乾いた風だ。

 特に寒くもなく、特に暖かくもない。

 ただそこにある風。


 浩二は目を閉じた。

 特に何も考えなかった——と言えば嘘になる。

 正確には、考えないようにした。

 その二つの間には、確かに隔たりがある。

 ただ今夜は、どちらでも構わなかった。

 明日も月曜日と同じ火曜日が来る。

 山工の件を金田が仕上げてくる。

 次の融資案件が三つ、机の引き出しの中にある。

 それで十分だ。

 それで、十分、だ。


 浩二が風呂に入り、寝室に戻ると、陽子はもう電気を消していた。

 暗い中で横になって、見えない天井を見た。

 なぜか、稽古場の写真の木村の横顔が浮かんだ。

 台本を持った右手。

 話す時によく動く目。

 あの目は、昔からそうだった。

 二十七年前も、ステージの上で全然別のものを見ていた。

 客席を見ながら、観客ではないものを見ていた。

 浩二にはそれが何なのか、当時もうまく言葉にできなかった。


 隣で陽子が寝ている。

 静かな寝息。

 浩二は目を閉じた。

 今度こそ、何も考えなかった。

 明日は七時に起きる。

 七時半に家を出る。

 いつも通りの火曜日だ。

 そう思いながら、すぐに眠れなかった夜のことを、翌朝の浩二はもう覚えていなかった。

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