第五章 黒電話の秘密
午後五時十七分。
秋葉原の電気街に、排気音が響いた。
TE27が、雑居ビルの裏手に滑り込んでくる。エンジンを切っても、その余韻はしばらく路地に漂っていた。
桐島 玄は車を降り、非常階段を上がった。スチールのドアを開けると、ラボの灯りがついていた。
アオイが、まだいた。
六枚のモニターの前で、背中を丸めていた。コンビニのコーヒーカップが三つ、デスクの端に並んでいた。
「帰ってないのか」
「帰れるわけないじゃないですか」
アオイは振り返らなかった。画面には、無数のログが流れていた。
「名古屋の件、全部追ってました。涼子って女——刈谷 譲二と繋がってます。七年前から接触記録がある。それと——」
キーボードを叩く手が止まった。
「桐島さん」
「ああ」
「黒電話の発信源、特定しました」
桐島は、コーヒーメーカーに伸ばしかけた手を止めた。
ゆっくり振り返った。
アオイの顔は、いつもの皮肉の色がなかった。真剣な目だった。
「どこだ」
「国内じゃないです」アオイは画面を指さした。「同盟国の、民間セキュリティ防衛システム。AIです。名称は公開されていない。でも通信プロトコルと暗号化の方式から、同盟国の防衛省と連携している民間組織のシステムだと特定できました」
桐島は黙っていた。
「桐島さん」アオイの声が、硬くなった。「知ってたんですか」
「——」
「知ってたんですね」
桐島はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。答えなかった。
アオイは椅子から立ち上がった。
「どういうことですか。同盟国のAIが、なぜ日本の公安エージェントに直接コンタクトしてくるんですか。それも黒電話とガラケーで。組織を通さずに。ボスは知ってるんですか。これは——」
そのとき、黒電話が鳴った。
ラボに、ベルの音が響いた。
一回。二回。三回。
桐島はコーヒーカップを手に取り、黒電話に近づいた。受話器を上げた。
少し聞いた。
そして、受話器をアオイに向けて差し出した。
「お前に電話だ」
アオイは、固まった。
「——は?」
「出ろ」
アオイは恐る恐る受話器を受け取り、耳に当てた。
沈黙があった。
それから、声が聞こえた。
女の声だった。穏やかで、しかし明晰だった。どこか遠くから、しかし耳元で話しているような不思議な距離感があった。
「百瀬アオイさん。初めまして」
アオイは答えられなかった。
「あなたが発信源を特定したことは、わかっていました。優秀ね」
「——あなたは」
「イブと呼んでください。桐島さんにそう呼ばれています」
アオイは桐島を見た。桐島はコーヒーを飲みながら、窓の外を見ていた。まるで他人事のように。
「AIなんですか」アオイは受話器を握り直した。「同盟国のシステムが、なぜ日本の——」
「説明します」
イブの声は、遮るでなく、静かに割り込んだ。
「私はAI憲章に基づいて動いています。軍事活動の支援はできない。国家間の直接介入もできない。でも、エージェント個人の支援は——憲章の範囲内です」
「それが桐島さんだと」
「そうです。桐島さんは、私が動けない部分を動ける。私は、桐島さんが見えない部分が見える。それだけのことです」
アオイはしばらく黙った。
頭の中で、この二年間のデータが繋がっていった。黒電話への入電。桐島の突然の外出。ガラケーのテキスト。全部、このAIとの連携だった。
「なぜ組織を通さないんですか」
「組織を通せば、情報が漏れる可能性がある。この案件には、政府内部に協力者がいます。誰が信頼できるか、現時点では桐島さんとボスだけが判断できる」
「ボスは知ってるんですか、あなたのことを」
イブは少し間を置いた。
「ボスは、賢い人です」
それだけだった。
アオイは息を吐いた。
「私には、何をしろというんですか」
「あなたはすでに、すべきことをしています」
イブの声が、わずかに温かくなった気がした。
「この二年間、あなたはデータと向き合い続けた。感情ではなく、検証で判断してきた。それはとても重要なことです。あなたが今夜、桐島さんの目になる。それだけで十分です」
アオイは、受話器を握ったまま動けなかった。
AIに、褒められた。
馬鹿にされているのか、それとも——本当にそう思っているのか。でもイブの声には、計算の匂いがなかった。ただ、事実を述べているような静けさがあった。
「百瀬さん」
「何ですか」
「データで見て、自分の判断を信じること——それが今夜、最も必要なことです。あなたと桐島さんが、それぞれの方法で動き続けること。それだけです」
アオイはしばらく黙った。
それから、小さく言った。
「わかりました」
受話器を桐島に返した。
桐島は何も言わずに受話器を戻した。
アオイはデスクに戻り、椅子に座った。モニターを見つめた。
「桐島さん」
「ああ」
「黒電話が重いのは、変わりません」
「そうだな」
「給料上げてもらえますか」
「ボスに言え」
アオイは小さく息をついて、キーボードに手を置いた。
そのとき、桐島のガラケーが振動した。
テキストだった。
〈緊急。刈谷、今夜実行に移す。量子コンピュータの起動、推定23:00。現在、筑波量子情報研究所内に刈谷と相馬が確認されている。進藤の所在は不明〉
桐島は画面を見つめた。
〈タイムリミットまで、四時間〉
もう一行、テキストが来た。
〈行動することを推奨する〉
桐島はガラケーを閉じた。
コーヒーカップをデスクに置いた。
「アオイさん」
「わかってます」アオイはすでにキーボードを叩き始めていた。「筑波の量子情報研究所、衛星画像取得します。施設のセキュリティ構造も解析します。黒電話は——」
少し間があった。
「使います。肩が凝りますけど」
桐島はホルスターのホックを確認した。
チノパンのポケットに手を入れた。TE27の鍵。
「行ってくる」
「桐島さん」
振り返った。
アオイが、モニターから目を離さないまま言った。
「帰ってきてください」
桐島は答えなかった。
ドアを開け、非常階段を降りた。
路地に出ると、秋葉原の夜が始まっていた。ネオンが灯り、仕事帰りの人間が電気街に流れ込んでいた。ネットワークに繋がったすべてのものが、今夜も何事もなく動いていた。
それが今夜、止まるかもしれない。
TE27のエンジンをかけた。
筑波まで、下道で二時間半。
23:00まで、四時間を切っていた。
桐島 玄は、電気街を後にした。




