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黒電ー量子コンピューター編  作者: チバニアン太郎


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第四章 絶対零度

午前三時四十二分。

筑波量子情報研究所、第三サーバールーム。

画面に、緑のテキストが流れた。

INSTALLATION COMPLETE

相馬 誠二は、しばらくその文字を見つめていた。

手が、震えていた。達成感ではなかった。自分が今、何をしたのかという感覚が、じわじわと体の中に広がっていた。

「成功したね」

隣で、進藤 哲が静かに言った。

老人の声に、感情はなかった。喜びでも安堵でもない。ただ、事実を確認するような声だった。

「これで——」相馬は口を開いた。「本当にやるんですか」

進藤は答えなかった。

画面の緑の文字が、静かに点滅していた。


同時刻。つくば市内、ビジネスホテルの一室。

刈谷 譲二が、ベッドの中で跳ね起きた。

暗闇の中で、息が荒かった。シャツが汗で張り付いていた。

夢だった。

また、あの夢だった。

「また見たのね」

暗闇の中で、女の声がした。

涼子が、ベッドの端で煙草に火をつけていた。起きていたのか、それとも気配で目覚めたのか——どちらともわからない目で、刈谷を見ていた。

刈谷は答えなかった。

窓の外に、つくばの夜景が広がっていた。研究施設の灯りが、点々と光っていた。


あれは、七年前の冬だった。

作戦名は「オペレーション・クリアスカイ」。

特定外国勢力のインテリジェンスハッキング拠点と思われる施設への突入作戦。公安部の精鋭チーム、八名。刈谷はその指揮官だった。

情報源はAI分析システムだった。衛星画像、通信傍受、行動パターンの解析——全てのデータがその施設を「確定的な標的」として示していた。確度は94.7%。

刈谷には、引っかかるものがあった。

現地の空気が違った。人の動きが、少なすぎた。まるで——待ち構えているように。

「待ってください」

作戦前夜、刈谷はボスに直訴した。

「AIの分析は正しいかもしれない。でも現場の感覚が違います。もう二十四時間、様子を見させてください」

ボスは首を振った。

「システムの判断に従え。政治的なタイムラインがある。今、決行だ」

刈谷は従った。

チームは突入した。

施設の中は、空だった。

そして、四方から包囲された。

八名のうち、生き残ったのは刈谷一人だった。


病院のベッドで、刈谷は天井を見ていた。

ボスが来た。

「君のせいじゃない」

その言葉が、最も腹立たしかった。

「AIが間違えたのか」刈谷は聞いた。

ボスは少し間を置いた。

「分析には限界がある」

「94.7%だった」

「残りの5.3%だったということだ」

刈谷は笑いたかった。笑えなかった。

八人の顔が、頭の中にあった。全員の顔を、刈谷は知っていた。家族の話も、趣味も、好きな食べ物も。

「誰かが情報を流した」刈谷は言った。「AIが間違えたんじゃない。データを操作した人間がいる」

ボスの目が、わずかに動いた。

その一瞬を、刈谷は見逃さなかった。

「知っているんですね」

ボスは答えなかった。

それが答えだった。


退院後、刈谷は独自に調べた。

三ヶ月かけて、糸を手繰り寄せた。

政府中枢に、一人の男がいた。

大物政治家。表向きは安全保障の旗手。しかしその男は、特定外国勢力と繋がっていた。AI分析システムへのデータ注入。作戦情報の流出。全ての糸が、その男に繋がっていた。

刈谷はボスに報告した。

ボスは、また黙った。

そして言った。

「これ以上、動くな」

刈谷は理解した。

この国は、内側から腐っている。

AIを信じた結果、八人が死んだ。その死を命じた男が、今も政府の中枢に座っている。そしてそれを知っている人間が、黙っている。

壊すしかない、と刈谷は思った。

この国ごと、一度、真っ暗にするしかない。


——現在。

刈谷はベッドの端に座り、窓の外を見た。

涼子が煙草を灰皿で消した。

「いつも同じ夢なの?」

「ああ」

「八人?」

刈谷は答えなかった。

涼子はそれ以上聞かなかった。この男の過去に、興味はなかった。ただ、この男が何をしようとしているのかには——金になるという意味で——深い関心があった。

「進藤の爺さん、うまくやってるの?」涼子は新しい煙草を取り出しながら言った。

「ああ」

「計画、本当に動くの?」

刈谷は立ち上がり、窓際に立った。

つくばの夜景を見ながら、静かに言った。

「明後日、進藤と最終確認をする」

涼子は煙草に火をつけ、煙を吐いた。

その煙の向こうで、別のことを考えていた。


翌日、午後二時。

つくば市内の、古いファミリーレストラン。

進藤 哲と刈谷 譲二が、向かい合って座っていた。テーブルの上には、コーヒーが二つ。どちらも、手をつけていなかった。

「もう一度、確認させてくれ」

進藤が口を開いた。学者の声だった。静かで、しかし芯があった。

「我々の目的は、この国を壊すことではない。立ち止まらせることだ。量子AIの暴走を、人間の手で止める。そのための、最小限の介入だ」

刈谷は黙って聞いていた。

「発電所のシステムを一時的に無効化する。政府ネットワークを遮断する。それによって、この国の人間に気づかせる。自分たちがいかにネットワークに依存しているか。そしてそのネットワークが、いかに脆いかを」

進藤はコーヒーカップを両手で包んだ。

「人は、暗闇の中で初めて、光の意味を考える。我々はそのための、暗闇を作る」

刈谷は、少し間を置いてから口を開いた。

「十分間だ」

「何?」

「量子コンピュータが絶対零度を保てるのは、十分間だけだ。その十分間で、国内全ての発電所の制御システムを同時ハックする。政府のネットワークも同時に無力化する。窓は一度しか開かない」

進藤の目が、わずかに揺れた。

「全ての発電所、というのは——」

「北海道から沖縄まで。全部だ」

沈黙が落ちた。

ファミリーレストランの有線放送が、場違いに明るい音楽を流していた。

「それは——」進藤の声が、かすかに震えた。「最小限ではない」

「効果的だ」

「人が死ぬかもしれない。病院の電源が——」

「バックアップがある」

「全ての病院に、十分間を乗り越えるだけのバッテリーがあると思うか」進藤の声が、初めて強くなった。「冬だ。透析患者がいる。ICUがある。エレベーターに閉じ込められる人間がいる」

刈谷は答えなかった。

「これは私が想定していた計画とは——」

「先生」刈谷が静かに遮った。「この国の中枢に、特定外国勢力のエージェントがいる。そいつが量子コンピュータを手に入れれば、日本のインフラは永遠に外国の手に落ちる。十分間の暗闇と、永遠の支配と、どちらを選ぶ」

進藤は答えられなかった。

刈谷は立ち上がった。

「相馬のバックドアは完成した。あとは実行するだけだ。先生の理想は、実行した後でいくらでも語れる」

コーヒーに一度も手をつけず、刈谷は店を出た。

自動ドアが閉まった。

進藤は、一人残された。

テーブルの上の、冷めたコーヒーを見つめた。

窓の外では、つくばの昼が静かに流れていた。自転車に乗った学生が通り過ぎた。犬を連れた老人が歩いていた。何も知らない人たちが、何も知らないまま、日常を生きていた。

進藤 哲は、両手で顔を覆った。

「私は——」

誰もいない席に向かって、老人は呟いた。

「なんということを、してしまったのだ」

コーヒーが、湯気も立てずに冷えていった。


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