表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒電ー量子コンピューター編  作者: チバニアン太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/6

第三章 過回転

午後十一時三分。

名古屋市東部、矢田川沿いの発電所。

夜空に、三本の煙突が突き刺さっていた。

桐島 玄はTE27を施設の外壁沿いに止め、エンジンを切った。暗闇の中で、発電所の低い唸りが聞こえた。ガスタービンの回転音。止まることのない、街の鼓動。

ガラケーを開いた。

イブからの最新テキストが入っていた。

〈施設内、異常なアクセスログを検知。外部からの侵入を確認。現在進行中〉

桐島は舌打ちした。

〈どこから〉

〈名古屋市中区。特定のIPは現在マスキング中。ただし侵入経路は第三制御システム経由〉

〈時間は〉

〈不明。ただし制御システムへの完全掌握まで、推定十二分以内〉

桐島はガラケーを閉じ、車を降りた。


同時刻。名古屋駅前、地上四十五階。

栄冠ホテル名古屋のバーは、静かだった。

カウンターの端の席に、一人の女が座っていた。黒いスーツ。切れ長の目。テーブルの上には、バーボンのグラスと、薄型のノートPC。

黒木 涼子は、グラスに口をつけることなく、画面を見つめていた。

指が、静かにキーボードを叩いている。

バーテンダーが一度だけ視線を向けたが、すぐに逸らした。この女には、声をかけてはいけない種類の空気があった。

画面の中で、発電所の制御システムが、静かに書き換えられていた。


「桐島さん」

ガラケーが鳴った。

走りながら出た。

「アオイか」

「そうです」声が硬かった。「それと——」

少し間があった。

「なんで私が黒電話を使うハメになるんですか」

「繋がってるか」

「繋がってます。黒電話って受話器が重いんですけど、ご存知ですか。肩が凝ります」

「後で聞く」

「聞かなくていいです」アオイの声が切り替わった。仕事の声になった。「衛星画像、取得しました。桐島さんの現在位置から正門まで、北に八十メートル。警備員は二名、現在東側を巡回中です。あと四十秒でそこを離れます」

「正門の鍵は」

「電子錠です。今から解除します。三秒待ってください」

桐島は正門の前で足を止めた。

一秒。二秒。三秒。

電子錠が、静かに解除された。

「入れます」

「ああ」

「桐島さん」アオイの声が、わずかに緊張した。「制御システムへの侵入、想定より速く進んでいます。今のペースだと——」

「わかってる」

「わかってないと思います」アオイが珍しく強い口調で言った。「第二タービンと第四タービンの回転数が既に上昇し始めています。このままだと過回転で——」

「爆発する」

「施設の東側三棟が吹き飛びます。周辺住宅への被害も出ます」

桐島は走り始めた。

「コントロールルームまで案内しろ」

「します。でも一つ条件があります」

「なんだ」

「帰ってきたら黒電話の相手が誰か教えてください」

「走りながら交渉するな」

「では走りながら案内します。正面玄関を抜けて左、長い廊下をまっすぐです」


コントロールルームのドアを蹴破ったとき、当直の係員が二人、振り返った。

「なんだ、あんた——」

「公安だ」

桐島はIDを一瞬だけ見せ、メインコンソールに飛びついた。

画面には、赤いアラートが溢れていた。第二タービン、回転数異常。第四タービン、過負荷警告。冷却システム、応答なし。

係員の一人が声を上げた。「勝手に触るな、ここは——」

「黙ってろ」

桐島の指が、コンソールの上を走った。

七年間、ネットワークを触らなかった。でも指は覚えていた。筋肉が覚えていた。かつて天才と呼ばれた男の指が、システムの中に滑り込んでいった。

「アオイ」

「います」

「第三制御システムの認証を迂回する。バックドアを探せ」

「もう見つけました」アオイの声が速くなった。「ポート8443、セカンダリ認証をバイパスします。今です」

画面が一瞬、暗転した。

係員たちが息を呑んだ。

桐島の指が止まらなかった。

コマンドを叩き込む。一行、また一行。侵入者のコードを上書きしていく。まるで鍵穴に手を突っ込んで、内側から鍵を掛け直すように。

第四タービンの警告音が、高くなった。

「間に合うか」係員の一人が呟いた。

桐島は答えなかった。

最後のコマンドを打ち込んだ。

エンターキーを押した。


警告音が、止んだ。

画面のアラートが、一つずつ消えていった。タービンの回転数が、ゆっくりと正常値に戻っていく。冷却システムが、再起動した。

コントロールルームに、静寂が戻った。

係員の一人が、へたり込んだ。

もう一人は、桐島を見たまま動けなかった。

「何が——」

「不正アクセスだ」桐島は立ち上がった。「施設のセキュリティ責任者を呼べ。朝まで待機してもらう」

ガラケーを耳に当てた。

「アオイ」

「います」受話器越しのアオイの声が、少し上ずっていた。「止まりました。タービン、全基正常値です」

「侵入元のトレースは」

「やってます。でも——」キーボードの音が続いた。「上手く消されています。かなり高度な痕跡隠滅です。もう少し時間をください」

桐島はコントロールルームの窓から、施設の外を見た。煙突が、夜空に立っていた。今夜はここで終わらなかった。でも次は——。

「桐島さん」

アオイの声が変わった。

「見つけました」

「どこだ」

「名古屋駅前です。栄冠ホテル名古屋、地上四十五階のバー。そこのWi-Fiを経由しています。ただ——」

「ただ?」

「接続はもう切れています。でもIPのタイムスタンプから、五分前までそこにいた。今も——いるかもしれません」

桐島はすでにドアに向かっていた。

「お前はよくやった」

「褒めても黒電話の件は忘れません」

ガラケーを閉じた。


TE27が、名古屋の夜を飛ばした。

助手席のガラケーが鳴ったのは、栄冠ホテルまであと十分のところだった。

片手でハンドルを握ったまま、出た。

「桐島か」

ボスだった。

「ああ」

「発電所の件、聞いた。よくやった」

短い沈黙があった。

「ホテルに向かっているな」

「ああ」

「女を泳がせろ」

それだけだった。

通話が切れた。

桐島はガラケーを助手席に置き、前を見た。

ボスが知っている。女のことを、すでに知っている。ということは——この女は、ボスにとっても使える駒だということだ。あるいは、もっと大きな絵の中に、すでに組み込まれている。

栄冠ホテルの地下駐車場にTE27を滑り込ませた。

エレベーターでロビーへ上がった。

自動ドアをくぐった瞬間——女がいた。

黒いスーツ。薄型のPCバッグを肩にかけ、出口に向かって歩いていた。

桐島は足を止めた。

女も、足を止めた。

振り返った。切れ長の目が、桐島を見た。驚いた様子はなかった。

口元に、薄く笑みが浮かんだ。

「桐島さんね」

桐島は答えなかった。

女はバッグを持ち直し、桐島に向かって歩いてきた。

「車、あるでしょ。乗せてもらえる?」


TE27が、名古屋の夜に滑り出した。

助手席に涼子が座っていた。シートベルトは締めていない。バッグを膝に置き、煙草を取り出しかけて、桐島を一瞥してやめた。

最初の五分、二人は黙っていた。

先に口を開いたのは涼子だった。

「古い車ね」

「走る」

「ナビもないの」

「要らない」

涼子は小さく笑った。品定めするような目で、桐島の横顔を見た。

「筑波のこと、どこまで知ってるの」

桐島は答えなかった。

「知らないなら教えてあげる」涼子は続けた。「あそこにいる研究者——相馬って男、もう後戻りできないところまで来てる。でも本当に怖いのは彼じゃない」

「進藤か」

涼子が、わずかに目を細めた。

「あなた、思ったより知ってるのね」

「刈谷は」

涼子の表情が、一瞬だけ変わった。ほんの一瞬、何かが揺れて、すぐに消えた。

「刈谷は——狂ってる」

それだけ言って、窓の外を見た。

「進藤は最小限で済ませるつもりでいる。でも刈谷は違う。あの男には思想なんてない。ただ壊したいだけよ。量子コンピュータが手に入ったとき、進藤の計画通りには動かない」

桐島はハンドルを握ったまま、前を見ていた。

「なぜそれを俺に言う」

涼子はしばらく、窓の外を見ていた。名古屋の夜景が、ガラスの向こうを流れていった。

「昔、同じ仕事をしてた」

静かな声だった。

「どこで」

「東南アジア。それから中東。組織の名前は言えない。あなたもどうせ調べればわかる」

桐島は答えなかった。

「現地で動いてた。情報を取って、人を動かして、消える。そういう仕事。十二年やった」涼子の声に、抑揚がなかった。「最後の作戦で、私は捨て駒にされた。組織が梯子を外した。現地に残されて、自力で逃げた」

「生きて帰れた」

「運が良かっただけ。同じチームの二人は、帰れなかった」

TE27のエンジン音だけが、しばらく続いた。

「それから?」

「国家を信じるのをやめた」涼子は窓に額を軽く当てた。「組織も、思想も、大義名分も。全部嘘だった。人間が都合よく作った言葉だった。だから——今は金だけ信じてる。金は嘘をつかない」

桐島はハンドルを握ったまま、前を見ていた。

「刈谷の仕事も、金のためか」

「最初はそうだった」涼子は小さく息をついた。「でも刈谷のやろうとしていることは、想定より大きくなりすぎた。人が死ぬ規模になってきた。それは——契約の範囲外よ」

桐島は何も言わなかった。

涼子も、それ以上話さなかった。

名古屋駅前の交差点で、涼子が言った。

「降ろして」

桐島は車を止めた。涼子がドアを開ける前に、一言だけ言った。

「次はどこで会う」

涼子は振り返らなかった。

「あなたが来るところに、私はいる」

ドアが閉まった。

TE27だけが、夜の名古屋に残った。

桐島はしばらく、涼子が消えた方向を見ていた。

ガラケーを開いた。

イブへのテキストを打つ。

〈黒木涼子。調べられるか〉

三秒で返ってきた。

〈既に調査済み。送付する〉

桐島は画面を見つめた。

既に、調査済み。

イブはいつも、一歩先にいた。それが頼もしいのか、不気味なのか——七年経っても、まだわからなかった。

エンジンをかけた。

帰りは、下道で四時間かかる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ