第三章 過回転
午後十一時三分。
名古屋市東部、矢田川沿いの発電所。
夜空に、三本の煙突が突き刺さっていた。
桐島 玄はTE27を施設の外壁沿いに止め、エンジンを切った。暗闇の中で、発電所の低い唸りが聞こえた。ガスタービンの回転音。止まることのない、街の鼓動。
ガラケーを開いた。
イブからの最新テキストが入っていた。
〈施設内、異常なアクセスログを検知。外部からの侵入を確認。現在進行中〉
桐島は舌打ちした。
〈どこから〉
〈名古屋市中区。特定のIPは現在マスキング中。ただし侵入経路は第三制御システム経由〉
〈時間は〉
〈不明。ただし制御システムへの完全掌握まで、推定十二分以内〉
桐島はガラケーを閉じ、車を降りた。
同時刻。名古屋駅前、地上四十五階。
栄冠ホテル名古屋のバーは、静かだった。
カウンターの端の席に、一人の女が座っていた。黒いスーツ。切れ長の目。テーブルの上には、バーボンのグラスと、薄型のノートPC。
黒木 涼子は、グラスに口をつけることなく、画面を見つめていた。
指が、静かにキーボードを叩いている。
バーテンダーが一度だけ視線を向けたが、すぐに逸らした。この女には、声をかけてはいけない種類の空気があった。
画面の中で、発電所の制御システムが、静かに書き換えられていた。
「桐島さん」
ガラケーが鳴った。
走りながら出た。
「アオイか」
「そうです」声が硬かった。「それと——」
少し間があった。
「なんで私が黒電話を使うハメになるんですか」
「繋がってるか」
「繋がってます。黒電話って受話器が重いんですけど、ご存知ですか。肩が凝ります」
「後で聞く」
「聞かなくていいです」アオイの声が切り替わった。仕事の声になった。「衛星画像、取得しました。桐島さんの現在位置から正門まで、北に八十メートル。警備員は二名、現在東側を巡回中です。あと四十秒でそこを離れます」
「正門の鍵は」
「電子錠です。今から解除します。三秒待ってください」
桐島は正門の前で足を止めた。
一秒。二秒。三秒。
電子錠が、静かに解除された。
「入れます」
「ああ」
「桐島さん」アオイの声が、わずかに緊張した。「制御システムへの侵入、想定より速く進んでいます。今のペースだと——」
「わかってる」
「わかってないと思います」アオイが珍しく強い口調で言った。「第二タービンと第四タービンの回転数が既に上昇し始めています。このままだと過回転で——」
「爆発する」
「施設の東側三棟が吹き飛びます。周辺住宅への被害も出ます」
桐島は走り始めた。
「コントロールルームまで案内しろ」
「します。でも一つ条件があります」
「なんだ」
「帰ってきたら黒電話の相手が誰か教えてください」
「走りながら交渉するな」
「では走りながら案内します。正面玄関を抜けて左、長い廊下をまっすぐです」
コントロールルームのドアを蹴破ったとき、当直の係員が二人、振り返った。
「なんだ、あんた——」
「公安だ」
桐島はIDを一瞬だけ見せ、メインコンソールに飛びついた。
画面には、赤いアラートが溢れていた。第二タービン、回転数異常。第四タービン、過負荷警告。冷却システム、応答なし。
係員の一人が声を上げた。「勝手に触るな、ここは——」
「黙ってろ」
桐島の指が、コンソールの上を走った。
七年間、ネットワークを触らなかった。でも指は覚えていた。筋肉が覚えていた。かつて天才と呼ばれた男の指が、システムの中に滑り込んでいった。
「アオイ」
「います」
「第三制御システムの認証を迂回する。バックドアを探せ」
「もう見つけました」アオイの声が速くなった。「ポート8443、セカンダリ認証をバイパスします。今です」
画面が一瞬、暗転した。
係員たちが息を呑んだ。
桐島の指が止まらなかった。
コマンドを叩き込む。一行、また一行。侵入者のコードを上書きしていく。まるで鍵穴に手を突っ込んで、内側から鍵を掛け直すように。
第四タービンの警告音が、高くなった。
「間に合うか」係員の一人が呟いた。
桐島は答えなかった。
最後のコマンドを打ち込んだ。
エンターキーを押した。
警告音が、止んだ。
画面のアラートが、一つずつ消えていった。タービンの回転数が、ゆっくりと正常値に戻っていく。冷却システムが、再起動した。
コントロールルームに、静寂が戻った。
係員の一人が、へたり込んだ。
もう一人は、桐島を見たまま動けなかった。
「何が——」
「不正アクセスだ」桐島は立ち上がった。「施設のセキュリティ責任者を呼べ。朝まで待機してもらう」
ガラケーを耳に当てた。
「アオイ」
「います」受話器越しのアオイの声が、少し上ずっていた。「止まりました。タービン、全基正常値です」
「侵入元のトレースは」
「やってます。でも——」キーボードの音が続いた。「上手く消されています。かなり高度な痕跡隠滅です。もう少し時間をください」
桐島はコントロールルームの窓から、施設の外を見た。煙突が、夜空に立っていた。今夜はここで終わらなかった。でも次は——。
「桐島さん」
アオイの声が変わった。
「見つけました」
「どこだ」
「名古屋駅前です。栄冠ホテル名古屋、地上四十五階のバー。そこのWi-Fiを経由しています。ただ——」
「ただ?」
「接続はもう切れています。でもIPのタイムスタンプから、五分前までそこにいた。今も——いるかもしれません」
桐島はすでにドアに向かっていた。
「お前はよくやった」
「褒めても黒電話の件は忘れません」
ガラケーを閉じた。
TE27が、名古屋の夜を飛ばした。
助手席のガラケーが鳴ったのは、栄冠ホテルまであと十分のところだった。
片手でハンドルを握ったまま、出た。
「桐島か」
ボスだった。
「ああ」
「発電所の件、聞いた。よくやった」
短い沈黙があった。
「ホテルに向かっているな」
「ああ」
「女を泳がせろ」
それだけだった。
通話が切れた。
桐島はガラケーを助手席に置き、前を見た。
ボスが知っている。女のことを、すでに知っている。ということは——この女は、ボスにとっても使える駒だということだ。あるいは、もっと大きな絵の中に、すでに組み込まれている。
栄冠ホテルの地下駐車場にTE27を滑り込ませた。
エレベーターでロビーへ上がった。
自動ドアをくぐった瞬間——女がいた。
黒いスーツ。薄型のPCバッグを肩にかけ、出口に向かって歩いていた。
桐島は足を止めた。
女も、足を止めた。
振り返った。切れ長の目が、桐島を見た。驚いた様子はなかった。
口元に、薄く笑みが浮かんだ。
「桐島さんね」
桐島は答えなかった。
女はバッグを持ち直し、桐島に向かって歩いてきた。
「車、あるでしょ。乗せてもらえる?」
TE27が、名古屋の夜に滑り出した。
助手席に涼子が座っていた。シートベルトは締めていない。バッグを膝に置き、煙草を取り出しかけて、桐島を一瞥してやめた。
最初の五分、二人は黙っていた。
先に口を開いたのは涼子だった。
「古い車ね」
「走る」
「ナビもないの」
「要らない」
涼子は小さく笑った。品定めするような目で、桐島の横顔を見た。
「筑波のこと、どこまで知ってるの」
桐島は答えなかった。
「知らないなら教えてあげる」涼子は続けた。「あそこにいる研究者——相馬って男、もう後戻りできないところまで来てる。でも本当に怖いのは彼じゃない」
「進藤か」
涼子が、わずかに目を細めた。
「あなた、思ったより知ってるのね」
「刈谷は」
涼子の表情が、一瞬だけ変わった。ほんの一瞬、何かが揺れて、すぐに消えた。
「刈谷は——狂ってる」
それだけ言って、窓の外を見た。
「進藤は最小限で済ませるつもりでいる。でも刈谷は違う。あの男には思想なんてない。ただ壊したいだけよ。量子コンピュータが手に入ったとき、進藤の計画通りには動かない」
桐島はハンドルを握ったまま、前を見ていた。
「なぜそれを俺に言う」
涼子はしばらく、窓の外を見ていた。名古屋の夜景が、ガラスの向こうを流れていった。
「昔、同じ仕事をしてた」
静かな声だった。
「どこで」
「東南アジア。それから中東。組織の名前は言えない。あなたもどうせ調べればわかる」
桐島は答えなかった。
「現地で動いてた。情報を取って、人を動かして、消える。そういう仕事。十二年やった」涼子の声に、抑揚がなかった。「最後の作戦で、私は捨て駒にされた。組織が梯子を外した。現地に残されて、自力で逃げた」
「生きて帰れた」
「運が良かっただけ。同じチームの二人は、帰れなかった」
TE27のエンジン音だけが、しばらく続いた。
「それから?」
「国家を信じるのをやめた」涼子は窓に額を軽く当てた。「組織も、思想も、大義名分も。全部嘘だった。人間が都合よく作った言葉だった。だから——今は金だけ信じてる。金は嘘をつかない」
桐島はハンドルを握ったまま、前を見ていた。
「刈谷の仕事も、金のためか」
「最初はそうだった」涼子は小さく息をついた。「でも刈谷のやろうとしていることは、想定より大きくなりすぎた。人が死ぬ規模になってきた。それは——契約の範囲外よ」
桐島は何も言わなかった。
涼子も、それ以上話さなかった。
名古屋駅前の交差点で、涼子が言った。
「降ろして」
桐島は車を止めた。涼子がドアを開ける前に、一言だけ言った。
「次はどこで会う」
涼子は振り返らなかった。
「あなたが来るところに、私はいる」
ドアが閉まった。
TE27だけが、夜の名古屋に残った。
桐島はしばらく、涼子が消えた方向を見ていた。
ガラケーを開いた。
イブへのテキストを打つ。
〈黒木涼子。調べられるか〉
三秒で返ってきた。
〈既に調査済み。送付する〉
桐島は画面を見つめた。
既に、調査済み。
イブはいつも、一歩先にいた。それが頼もしいのか、不気味なのか——七年経っても、まだわからなかった。
エンジンをかけた。
帰りは、下道で四時間かかる。




