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黒電ー量子コンピューター編  作者: チバニアン太郎


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第二章 バックドア


午前二時十四分。

筑波量子情報研究所、第三サーバールーム。

相馬 誠二の指が、キーボードの上で止まった。

画面には、赤いエラーメッセージが点滅していた。

ACCESS DENIED

「くそ——」

声が出た。誰もいないはずの部屋で、それでも慌てて口を押さえた。防犯カメラの死角に入っていることは確認済みだ。でも音までは——。

息を整えた。

もう一度、コマンドを打ち込む。指が震えていた。汗が滲んで、キーボードの感触がわずかにずれる。

ACCESS DENIED

また、弾かれた。

相馬は椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が、目に刺さった。

三週間前から準備してきた侵入経路だった。セキュリティログの書き換え、認証トークンの偽造、アクセスタイムの隙間を縫うタイミング。完璧なはずだった。

完璧なはずだった——のに。

冷や汗が、背中を伝った。


最初に黒木 涼子と出会ったのは、六週間前だった。

学会の懇親会。東京ビッグサイトの片隅、人の声と酒の匂いが混じる空間で、彼女は一人グラスを持って立っていた。

「量子誤り訂正の研究をされている方ですよね」

声をかけてきたのは、向こうからだった。

相馬は驚いた。自分の研究を知っている人間が、こんな場所にいるとは思っていなかった。

「ええ、まあ——」

「論文、読みました。三月に出たやつ。面白かったです」

黒いドレス。切れ長の目。四十代だろうか、それとも五十に近いのか——年齢が読めなかった。ただ、その目の奥に知性の光があった。相馬が普段、同僚の研究者にしか感じない種類の光が。

「ありがとうございます。でも、あの論文はまだ査読中で——」

「プレプリントで読みました。arXivに上がってましたよね」

相馬は、その夜、初めて研究の話を心から楽しんだ。

三十四歳。筑波に赴任して三年。優秀だと言われ続けたが、それは「この施設の中では」という但し書きのついた優秀さだった。国際学会では無名で、論文の引用数は伸びず、焦りだけが積み上がっていた。

黒木涼子は、そんな相馬の言葉を、真剣に聞いた。

それだけで、十分だった。


二度目に会ったのは、一週間後。

彼女から連絡が来た。「また話したい」と。

三度目は、ホテルだった。

相馬は、自分が何をしているのかわかっていた。わかっていて、止まれなかった。研究室に帰れば、また無名の日々が待っている。彼女といる時間だけが、自分が何者かであるような気がした。

五度目に会った夜、部屋のドアが開いた。

スーツの男が入ってきた。

相馬は、シーツの中で固まった。

男は椅子を引き、静かに座った。涼子は表情を変えなかった。

「相馬さん」男が言った。「驚かせて申し訳ない。少し、お話ししたいことがあります」

刈谷 譲二だった。


「協力していただきたいことがある」

刈谷の声は、穏やかだった。それが余計に怖かった。

「筑波の量子コンピュータに、バックドアを仕込む。あなたにしかできない作業です」

相馬は声が出なかった。

「断れば——」刈谷はテーブルの上にスマートフォンを置いた。画面には、写真が映っていた。「この画像が、施設のセキュリティ部門と、あなたの家族に送られます」

相馬の母親は、茨城の田舎で一人暮らしをしていた。

「あなたは優秀な研究者だ」刈谷は続けた。「こんな形で終わってほしくない。協力してくれれば、誰も傷つかない」

涼子は、最後まで相馬を見なかった。


現在。午前二時十九分。

ACCESS DENIED

三度目のエラーが、画面に浮かんだ。

相馬は額に手を当てた。認証経路が変わっている。昨日までとは違う。施設側がセキュリティをアップデートしたのか、それとも——誰かが気づいているのか。

背後で、ドアが開いた。

心臓が止まりそうになった。

振り返ると、老人が立っていた。

白髪。丸眼鏡。くたびれたカーディガン。施設には不釣り合いな、どこかの大学の名誉教授のような風貌。しかしその目は、鋭かった。

「うまくいっていないようだね」

進藤 哲だった。

「な——なぜここに」

「刈谷君から聞いた。今夜、君が作業すると」進藤は静かに部屋に入り、隣の椅子を引いた。「見ていてもいいかね」

相馬は答えられなかった。

進藤は画面のエラーメッセージを見て、小さく息をついた。

「第三認証レイヤーが更新されている。昨夜、施設側がパッチを当てた。私も気づいていなかった」

「じゃあ、今夜は——」

「迂回路がある」進藤は静かに言った。「少し時間をくれ」

老人の指が、キーボードに伸びた。

相馬は、その横顔を見た。穏やかだった。まるで、研究室で学生の論文を直しているような顔だった。こんな時間に、こんな場所で、こんなことをしている人間の顔ではなかった。

「先生は——」相馬は思わず口を開いた。「怖くないんですか」

進藤の指が、止まった。

しばらく、沈黙があった。

「怖い」

老人は、画面を見たまま言った。

「毎日、怖い。夜中に目が覚めることもある。私が作ったものが、どこかで誰かを傷つけているんじゃないかと思うと——眠れない夜がある」

相馬は黙って聞いた。

「私は三十年、AIを作り続けた」進藤は続けた。「善いものを作っているつもりだった。人間を助けるものを。でもある日気づいた。私が作ったものは、人間が制御できる限界を超えようとしている。そのとき初めて、本当に怖くなった」

「だから——インフラを壊すんですか」

「壊すんじゃない」進藤は首を振った。「立ち止まらせるんだ。人間に、考える時間を与えるために」

相馬は、その言葉の重さを測りかねた。

「君も感じているはずだ」進藤が相馬を見た。「あの量子コンピュータが、完全に解放されたとき、何が起きるか。君はそれを誰よりもよく知っている」

相馬は答えなかった。

知っていた。知っているから、怖かった。だからこそ、この仕事を引き受けることへの——罪悪感が、少しだけ薄れていた。

いや。

薄れさせられていた。

「これは正しいことをするのだよ、相馬君」

進藤は静かに言い、キーボードに向き直った。

「君の手が必要だ」

画面のエラーメッセージが消えた。

新しいコマンドプロンプトが、静かに開いた。

相馬 誠二は、深く息を吸い、キーボードに手を置いた。

指が、震えていた。

それでも、動いた。


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