第一章 ガラケーと黒電話
この連載SF小説の主人公は、スマートフォンを持たない公安エージェントです。
腰にぶら下がっているのは、折りたたみ式のガラケー。
乗っている車は、ネットワークに繋がっていない旧型のTE27。
オフィスには、昭和のオシロスコープと真空管ラジオ。
そんな昭和のおじさんの相棒は、Z世代のアナリスト・百瀬アオイ。
「TE27に乗り続けるからです。ETCも付いてないんでしょう」
「踏切にETCは関係ない」
「帰ってきたら黒電話の相手が誰か教えてください」
「走りながら交渉するな」
「では走りながら案内します」
噛み合っているのか、いないのか。
でも、この二人は確かに最強のコンビです。
そのガラケーに届く、謎のAI「イブ」からのテキスト。
「行動することを推奨する」——命令でも依頼でもなく。
昭和おじさん×Z世代アナリスト×最先端AI。
三者三様の、静かで熱いSFスパイ小説です。
ゆっくりと読んでいただければ幸いです。
作者より
桐島 玄がネットワークを信じなくなって、七年が経つ。
あの夜、妻と娘を乗せた自動運転車が橋から落ちた。
ハックされた車は、完璧に、正確に、家族を殺した。
午前七時十二分。
秋葉原の電気街に、排気音が響いた。
古びたトヨタ・カローラレビン——TE27——が、雑居ビルの裏手に滑り込んでくる。エンジンを切っても、その余韻はしばらく路地に漂っていた。
降りてきたのは、五十がらみの男だった。
くたびれたチノパンに、襟の伸びたポロシャツ。肩には革のホルスター。腰には——スマートフォンではなく、折りたたみ式のガラケーが下がっていた。
公安部AIネットワークハッキング対策課、通称「黒電」のフィールドエージェント。電気街の朝に、場違いなほど静かに溶け込んでいた。
ビルの三階、錆びた非常階段を上がると、スチールのドアがある。表札はない。インターホンもない。代わりに、ドアの横に黒電話が一台、壁に直付けされていた。
桐島はそれを一瞥もせず、合鍵でドアを開けた。
室内は、時代の衝突だった。
壁一面を占めるGPUサーバーのLEDが青白く明滅し、その隣に昭和のオシロスコープが鎮座している。最新の量子暗号解析端末の上には、どういうわけか真空管ラジオが置いてあった。光ファイバーのケーブルが束になって走る床の隅に、黒電話の予備が三台、埃をかぶって並んでいる。
予算の話をするたびに、ボスは決まってこう言った。
「必要なものは全部ある」
「遅いです」
声は奥から飛んできた。
モニターを六枚並べたデスクに、若い女が座っている。百瀬アオイ。黒電のアナリスト。視線はスクリーンから微塵も動かさないまま、続けた。
「七時十分には来ると思ってました」
「踏切が開かなかった」
「TE27に乗り続けるからです。ETCも付いてないんでしょう」
「踏切にETCは関係ない」
桐島はコーヒーメーカーに手を伸ばした。アオイがようやくモニターから目を離し、こちらを見た。その目に、いつもの皮肉の色があった。
「昨日の夜、例の端末でどこかに行かれましたよね」
「仕事だ」
「どんな仕事ですか」
「仕事だ」
アオイは小さく息をついた。入庁して二年、この男から詳細な説明を引き出したことは一度もない。データは饒舌なのに、言葉は極端に少ない。それが桐島 玄という人間だった。
コーヒーを一口飲んで、桐島は窓の外を見た。電気街はまだ眠っていた。シャッターの並ぶ通りに、朝の光が薄く差し込んでいる。部品屋、ジャンク屋、怪しげなケーブル屋。この街は今でも、ネットワークの外側で動いている部分を持っていた。それが桐島には心地よかった。
「今朝、黒電話に入電がありました」
桐島の手が止まった。
「何時だ」
「午前三時十七分。二十三秒で切れました」
「録音は」
「ノイズだけです。でも——」アオイは少し間を置いた。「発信元のトレースを試みたんですが、どこにも繋がらなかった。交換局の記録にも残っていない」
桐島はカップを置いた。
「気にするな」
「気になります」アオイの声が、珍しく硬かった。「あの黒電話にかけてくる相手は、いったい何者なんですか。桐島さんが出かけるたびに、必ずその前後に入電がある。データで見れば相関は明らかです」
桐島は答えなかった。
アオイは続けた。
「先月だけで十一回。全て二十秒以内に切れている。発信元は毎回異なる経路を使っていて、トレース不可能。これはシステムの外側から来ています。普通の人間には——」
「アオイさん」
桐島が静かに遮った。
「データは正しい。だが、全てのデータに意味があるわけじゃない」
「それは統計学的に——」
「経験則だ」
アオイは口を閉じた。反論したい顔をしていたが、桐島の目の奥にある何かが、それを押しとどめた。この人は嘘をついていない。でも、全部は話さない。入庁以来、ずっとそうだった。
沈黙の中で、GPUサーバーが低く唸った。
昼過ぎ、アオイが昼食に出た。
静かになったラボで、桐島がコーヒーの二杯目を注いだとき、黒電話が鳴った。
受話器を取った。
「桐島か」
ボスの声だった。霞ヶ関の、いつもの無駄のない話し方。
「ああ」
「筑波だ。量子情報研究所のアクセスログに不自然な痕跡が出た。先月から断続的に続いている。通常のハッキングとは異なるパターンだ。内部からの可能性もある」
桐島は受話器を握り直した。
「内部から」
「ああ。ただし今のところ量子コンピュータ本体への侵入には至っていない。壁を叩いている段階だ。それと——」ボスは一拍置いた。「最近、電力会社への不正アクセスが集中している。東海エリアに偏っている。筑波との関連性を洗え」
「俺一人でか」
「お前とアオイさんで十分だろう。表向きは既存案件の延長で動いてくれ。プロジェクト名は『黒電3』。予算は出す」
「わかった」
「桐島」ボスの声がわずかに低くなった。「これは表に出せない案件だ。量子コンピュータが何者かの手に渡ろうとしている可能性がある。政府内にも、それを知られたくない人間がいる」
桐島は答えなかった。
「慎重に動け」
通話が切れた。
受話器を戻し、しばらく黒電話を見つめた。筑波の量子情報研究所。東海エリアの電力会社。内部からの可能性。点と点が、まだ線になっていない。
デスクの引き出しからガラケーを取り出した。
新着のテキストが一件。
受信時刻は午前三時十七分——黒電話への入電と、同時刻だった。
〈名古屋。東部変電所。今夜22:00〉
桐島はしばらくその文字を見つめた。
イブはすでに知っていた。ボスが告げる前から。
親指を動かし、返信を打つ。
〈規模は〉
三秒で返ってきた。
〈変電所一棟。ただし連鎖する可能性がある。名古屋市東部、推定三万世帯〉
桐島は目を細めた。
〈確度は〉
〈87.3%。ただし実行主体の最終意思決定が未確認。行動することを推奨する〉
推奨する。
その言葉の選び方が、いつも引っかかった。命令ではない。依頼でもない。ただ、推奨する。まるでこちらの意志を尊重しているように。
桐島は窓の外を見た。
電気街の昼は、朝よりも騒がしかった。観光客が増え、店のスピーカーから音楽が流れ始めている。ネットワークに繋がったすべてのものが、今日も問題なく動いていた。
それが、いつ止まるかを、誰も考えていない。
〈わかった。単独で動く〉
送信。
ガラケーを閉じ、立ち上がった。
ホルスターのホックを確認し、チノパンのポケットに手を入れる。TE27の鍵。それだけあれば十分だった。
ドアを開けると、階段の下からアオイが上がってくるところだった。コンビニの袋を持っていた。
「どこか行くんですか」
「ちょっとな」
「またガラケーで連絡を受けましたね」
桐島は答えなかった。
「桐島さん」アオイが呼び止めた。「あの電話の相手——人間じゃないですよね」
桐島は一瞬、足を止めた。
振り返らなかった。
「データだけ見てろ」
それだけ言って、非常階段を降りた。
路地に出ると、TE27が待っていた。錆の浮いたボンネット。ひびの入ったサイドミラー。この車は、ネットワークに繋がっていない。GPSもない。どこにも記録されない。
エンジンをかけた。
排気音が路地に響いた。
名古屋まで、下道で四時間。
桐島 玄は、電気街を後にした。




