最終章 十分間の暗闇
午後十時四十七分。
筑波量子情報研究所の外壁沿いに、TE27が滑り込んだ。
エンジンを切った。
暗闇の中で、研究所の灯りが低く輝いていた。正門の前には、公安の特殊部隊の車両が三台、停まっていた。完全装備の隊員たちが、静かに展開していた。
ガラケーが鳴った。
「桐島か」
ボスだった。
「ああ」
「特殊部隊が先行して強襲する。お前は監視に徹しろ。いいな」
「わかった」
通話が切れた。
桐島はガラケーをポケットに入れ、暗闇の中から特殊部隊の動きを見ていた。
隊長が手を上げた。
チームが動き始めた。
その瞬間——。
白い閃光が走った。
音のない爆発だった。
特殊部隊の車両が、一斉にシステムダウンした。隊員たちの通信機器が、無線機が、暗視ゴーグルが——全て死んだ。
EMP。電磁パルス。
隊員たちが立ち止まった。
次の瞬間、銃声が響いた。
一発。また一発。
暗闇の中から、正確に、隊員が倒れていった。スナイパーライフルの音だった。どこかの高所から、涼子が狙い撃っていた。
桐島は舌打ちした。
監視に徹しろ。
ボスの言葉が頭の中で響いた。
桐島はTE27のドアを開け、外に出た。
ホルスターから銃を抜いた。
「アオイ」
ガラケーを耳に当てながら、走り始めた。
「います」黒電話越しのアオイの声が、緊張していた。「EMP確認しました。特殊部隊、ほぼ全員ダウンしています。桐島さん——」
「わかってる」
「監視に徹しろって言われてましたよね」
「聞こえなかった」
「そうですか」アオイの声が、少し変わった。「正門の電子錠、解除します。三秒待ってください」
一秒。二秒。三秒。
錠が外れた。
「施設図、頭に入れてあります」アオイが続けた。「量子コンピュータのコントロールルームは地下二階です。エレベーターは使わないでください。非常階段を——」
「わかってる」
「わかってない人がよく言うセリフです」
桐島は走りながら、小さく笑った。
地下二階への非常階段を降りながら、桐島はガラケーのテキストを確認した。
イブからだった。
〈量子コンピュータ、起動確認。23:01。残り時間、八分五十二秒〉
桐島は足を速めた。
コントロールルームのドアの前に立った。
ドアの隙間から、灯りが漏れていた。
銃を構え、蹴破った。
室内に、四人がいた。
メインコンソールの前に相馬 誠二。その隣に進藤 哲。壁際に黒木 涼子——手には拳銃を持っていた。
そして。
部屋の中央に、刈谷 譲二が立っていた。
「来ると思ってたよ」
刈谷が言った。七年前と変わらない声だった。
「刈谷」
「久しぶりだな、桐島」
二人の間に、沈黙が落ちた。
量子コンピュータの冷却装置が、低く唸っていた。絶対零度を保つための音だった。
「止められると思うか」刈谷が言った。「もう起動した。八分もすれば、この国の全ての発電所が止まる。政府のネットワークが落ちる。そこから先は——誰にも止められない」
「止める」
「どうやって」刈谷の目が細くなった。「お前には、わかるはずだ。桐島。この国が腐っていることが。AIに従った結果、八人が死んだ。そしてそれを命じた人間が、今も議員バッジをつけて歩いている。お前の家族を殺したシステムを作った人間も、まだ生きている」
桐島は銃を構えたまま、動かなかった。
「お前が一番、この国を憎んでいるはずだ」
「ああ」桐島は静かに言った。「憎んでいる」
刈谷の目に、何かが揺れた。
「だから——」
「だから止める」
桐島が動いた。
刈谷が動いた。
二人の間の距離が、一瞬で消えた。
格闘だった。銃を使う間合いではなかった。刈谷は元公安だった。体の動きを、桐島は知っていた。かつて同じ訓練を受けた男の動きを。
壁に叩きつけられた。棚が倒れた。コンソールの端に肩をぶつけた。
それでも桐島は離れなかった。
刈谷の腕を取り、ねじり上げた。
床に押さえ込んだ。
刈谷は動かなくなった。
荒い息の中で、桐島は立ち上がった。
「刈谷」
「——」
「あんたは間違ってる」
刈谷は床を見たまま、答えなかった。
「腐った国を暗闇で照らしても、腐ったままだ。変えるのは人間だ。AIじゃない。お前の怒りでもない」
沈黙があった。
刈谷は、ゆっくりと目を閉じた。
桐島はメインコンソールに飛びついた。
画面には、カウントダウンが表示されていた。
残り——5:43
指が走った。
量子暗号の壁を、一枚ずつ剥がしていく。七年間触らなかった指が、それでも覚えていた。かつて天才と呼ばれた男の指が、システムの核心に向かっていった。
「アオイ」
「います」アオイの声が、張り詰めていた。「第二認証レイヤー、バイパスします。今です」
画面が揺れた。
残り——4:11
もう一層。
「第三——」
その瞬間。
冷たい金属が、桐島の後頭部に触れた。
「止めて」
涼子の声だった。
桐島は手を止めた。
振り返れなかった。拳銃が頭に押し当てられていた。
「涼子さん」
「ここで止まれば、あなたは生きられる」涼子の声は、静かだった。「私はこれで終わりにする。仕事は仕事よ。あなたに恨みはない」
残り——3:27
桐島は動けなかった。
そのとき——。
老人が動いた。
「——っ」
進藤 哲が、涼子に覆い被さった。
銃声が響いた。
進藤が、床に倒れた。
涼子が、よろめいた。
桐島は振り返った。
進藤が床に倒れていた。肩を押さえていた。致命傷ではない。しかし老人の顔は、苦痛よりも——安堵の色をしていた。
「せめてもの、償いですよ」
進藤が、かすれた声で言った。
涼子は桐島を一瞥した。
何かを言いたそうな顔をして——何も言わなかった。
ドアに向かった。
走った。
姿が消えた。
桐島はコンソールに向き直った。
残り——2:54
「アオイ」
「います、います!」アオイの声が上ずっていた。「第三認証、解析中です。あと——」
「急げ」
「わかってます!」
指が走った。
残り——2:01
「第三認証——」アオイの声が止まった。「——駄目です。量子暗号が更新されています。このままでは——」
残り——1:33
桐島は歯を食いしばった。
そのとき。
背後で、音がした。
金属が、床を引きずる音だった。
振り返った。
相馬 誠二が、壁の工具ボックスから、緊急用のハンマーを取り出していた。
「相馬」
相馬は、量子コンピュータの筐体を見ていた。
その目に、涙が光っていた。
「相馬、やめろ」桐島は言った。「冷却液が漏れ出したら死んじまうんだぞ」
相馬は、ハンマーを握り直した。
「——わかってます」
「わかってるなら——」
「こいつを止めるには」相馬は桐島を見た。「これしかないんです」
残り——0:47
桐島は動けなかった。
相馬が、ハンマーを振り上げた。
「僕が、バックドアを仕込みました」相馬の声が、震えていた。「僕が、ここまで来てしまった。だから——僕が止めます」
ハンマーが、振り下ろされた。
量子コンピュータの冷却パネルに、激突した。
亀裂が走った。
液体が噴き出した。
警告音が鳴り響いた。
残り——0:12
画面が、暗転した。
残り——0:09
残り——0:06
残り——0:03
SYSTEM SHUTDOWN
カウントダウンが、止まった。
警告音が、消えた。
コントロールルームに、静寂が戻った。
相馬が、床に膝をついた。冷却液が、床を濡らしていた。顔が、青ざめていた。
「相馬!」
桐島が駆け寄った。
脈を確認した。
生きていた。
冷却液は、致死量には届いていなかった。かろうじて。
「馬鹿野郎」
桐島は、床に座り込んだ相馬の背中を支えた。
相馬は、泣いていた。声も出さずに、泣いていた。
「すみません」相馬は呟いた。「すみません、すみません——」
桐島は答えなかった。
ただ、その背中を支えていた。
コントロールルームの隅で、進藤 哲が壁に背を預けて座っていた。肩の傷を押さえながら、目を閉じていた。
量子コンピュータが、沈黙していた。
午前零時二十二分。
TE27が、筑波の夜道を走っていた。
助手席に、人はいなかった。
桐島 玄は、ハンドルを握りながら、暗い道を見ていた。
相馬は救急車で運ばれた。命に別状はないと、医師が言った。
進藤は公安に身柄を確保された。刈谷も同じだった。
ボスからは、何も言ってこなかった。
それでいい、と桐島は思った。
ガラケーが、振動した。
テキストだった。
画面を見た。
〈ありがとう〉
イブからだった。
それだけだった。
桐島はしばらく画面を見つめた。
AIが、礼を言った。
推奨する、でも、行動せよ、でもなく——ありがとう。
それが何を意味するのか、桐島には判断がつかなかった。でも、嫌いではなかった。
ガラケーを閉じた。
TE27のエンジン音だけが、夜道に響いていた。
同じ頃。
東京都内、高級マンションの一室。
大物政治家が、スマートフォンを手に取った。
発信した。
数回のコールの後、繋がった。
「しくじったのか」
沈黙があった。
それから、女の声が聞こえた。
「まだ終わってないわ」
黒木 涼子の声だった。
通話が切れた。
政治家は、夜景を見つめた。
東京の灯りが、今夜も変わらず輝いていた。
完
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この作品を書きながら、ずっと考えていたことがあります。
AIは「推奨する」と言う。
命令でも、強制でも、依頼でもなく——推奨する。
その言葉の選び方に、何かがある気がしました。
人間の意志を尊重しているのか。
それとも、責任を人間に委ねているのか。
桐島がネットワークを信じない理由は、
テクノロジーへの憎しみではありません。
信じすぎた結果、大切なものを失ったからです。
それでも彼は、イブと組んで動き続ける。
信じることと、疑うことの間で。
昭和のおじさんと、Z世代のアオイと、AIのイブ。
この三人の関係は、続編でさらに深まっていきます。
黒電シリーズは続きます。
また会いましょう。
作者より




