第3話 境界の教室
翌日。
教室は、いつも通りだった。
ざわざわとした声。
机を引く音。
窓の外には、穏やかな春の光。
(……夢じゃ、なかったよね)
彩葉は、ぼんやりと黒板を見つめていた。
一昨日の夜。
雪と桜。
そして――あの男。
「守ってやる」
その言葉が、まだ耳の奥に残っている。
「おい」
肩を、軽く叩かれる。
振り向くと、蒼真だった。
弓道着姿。
朝練帰りらしく、まだ少し息が上がっている。
蒼真は、幼なじみだ。
家も近く、子どもの頃から顔を合わせてきた。
代々、弓を扱う家系で、
本人も弓道部の主力。
的を射る精度は、県でも上位だと聞く。
「さっきから、ぼーっとしてる」
少し呆れたように言う。
「……してない」
「してる」
即答。
(ほんと、よく見てる……)
小さく息を吐く。
「昨日も神社だったろ?」
「……うん」
「なんかあった?」
まっすぐな視線。
一瞬、言葉に詰まる。
(言えるわけ、ない)
「……何もないよ」
ごまかすように笑う。
蒼真は、わずかに眉を寄せた。
だが、それ以上は追及しなかった。
「無理すんなよ」
それだけ言って、席へ戻る。
そのとき。
「席につけー」
教師の声。
教室の空気が切り替わる。
「今日から、代わりの先生が来る」
黒板の前に立つ。
「産休に入った先生の代わりだ」
がらり、と扉が開く。
「九条咲夜です」
空気が、止まった。
彩葉の心臓が、跳ねる。
(……え)
間違いない。
昨日の、あの男。
教壇に、立っている。
「しばらくの間、社会を担当する」
淡々とした声。
「よろしく頼む」
それだけ。
教室が、ざわつく。
「え、かっこよくない?」
「名前までかっこいいんだけど」
ひそひそ声。
だが。
彩葉は、それどころではなかった。
(なんで、ここにいるの……?)
昼休み。
教室。
人だかりの中心に、咲夜がいた。
「九条先生って、どこから来たんですか?」
「神社に来てましたよね?」
質問が飛び交う。
その中で。
一歩、前に出る少女。
美咲だった。
にこやかな笑みを浮かべながら。
「昨日は、神楽の代役、ありがとうございました」
一礼する。
所作が、美しい。
「私は、あの神社の娘――神代美咲です」
その名乗りに。
一瞬だけ。
咲夜の視線が、深くなる。
「……そうか」
短く、答える。
「神社にいらしてましたよね?」
美咲は続ける。
「何の調査をされているんですか?」
にこやかだが、逃がさない声。
「調査だ」
咲夜は淡々と答える。
「地域信仰と祭祀の」
それ以上は踏み込ませない。
だが。
美咲は引かない。
「昨日の舞も、とても見事でした」
「どこで習われたんですか?」
さらに一歩、詰める。
(……すごい聞く)
彩葉は、少し離れた場所から見ていた。
やがて、昼休みが終わる。
人が散る。
そのとき。
「おい」
低い声。
振り向く。
咲夜が立っていた。
「ちょっと来い」
拒否できない。
そのまま、廊下へ連れ出される。
人気のない場所。
窓から光が差し込む。
「……あれ、なんだったんですか」
彩葉が、先に口を開く。
咲夜が、わずかに目を細める。
「覚えているのか」
「……はい」
「ならいい」
短く言う。
「一昨日のは、妖だ」
「妖……?」
「人ならざるものだ」
淡々と続ける。
「そして」
一歩、近づく。
「お前は、それを引き寄せる」
息が止まる。
そのとき。
ふ、と。
咲夜の懐が揺れた。
するり、と。
小さな影が現れる。
狐。
二匹。
「……あの女」
片方が、ぼそりと呟く。
「面倒な存在ですね」
もう一匹が、くすりと笑う。
「ええ」
「先ほどから、咲夜さまにまとわりついていた――」
一拍。
「美咲、と言っていましたか」
その名前が、空気に落ちる。
「放っておくと厄介ですよ」
「いっそ――」
「食ってしまいましょうか?」
軽く言う。
だが、目は笑っていない。
彩葉が、息を呑む。
(……見える)
はっきりと。
咲夜が、舌打ちする。
「やめろ」
低く言う。
「余計なことをするな」
その一言で。
二匹は、すっと消えた。
静寂。
彩葉の心臓が、うるさい。
「……今の、なに」
かすれた声。
咲夜は答えない。
ただ。
一言だけ。
「関わるな」
低く言う。
「巻き込まれるぞ」
その言葉が。
妙に、重く響いた。




