第1話 桜と雪の夜に
四月だというのに、雪が降っていた。
桜と混ざり合い、まるで季節が壊れたみたいに。
境内は、ひどく静かだった。
白く積もる雪の上に、淡い花びらがはらはらと降り重なる。
美しいはずの光景が、どこか現実から浮いている。
「……こんな日に降るなんて」
彩葉は、小さく息を吐いた。
白い吐息が、すぐに空気に溶けて消える。
ここはとある片田舎にある小さな神社。
明日は神楽奉納の日。
そして、今年から始まる祭り――桜姫祭り。
参拝客を呼ぶための、新しい試みだ。
千年以上の歴史があるとはいえ、不便な立地のせいで参拝客は年々減っている。
(雪なんて降ったら、人来ないよね……)
腕に抱えた供物の樽が、ずしりと重い。
頭には手拭いの頬被り。
まだ終わっていない境内の準備。
ところどころ崩れた石畳に足を取られないよう、慎重に歩く。
「……叔父さん、怒るだろうなあ」
小さくこぼした声は、雪に吸われて消えた。
返事はない。
当たり前だ。
こんな時間、誰もいない。
――そのはずだった。
ふいに、鼻をかすめた。
異臭。
それは、この場にあるはずのないものだった。
腐ったものが、湿ったまま放置されたような、
生ぬるく、まとわりつく匂い。
「……なに、これ」
足が、止まる。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
風はない。けれど、確かに近づいてくる。
そのとき。
ざり。
雪を踏む音。
振り向く。
誰もいない。
けれど。
確かに、気配だけがある。
「……やだ」
声が、震える。
影が、動いた。
桜の木の根元。
黒く、歪んだものが、地面を這うように現れる。
人の形に似ている。
だが、顔がない。
口だけが裂けている。
「ヒメ……」
低く、濁った声。
「ヒメ……ニオイ……」
ずるり、と近づいてくる。
足が、動かない。
逃げなきゃいけないのに。
「ミツケタ……」
その瞬間。
――風が吹いた。
ばさり。
桜の花びらが舞い上がる。
同時に。
黒い影の首が、音もなく宙を舞った。
どさり。
雪の上に、崩れ落ちる。
何が起きたのか、理解できない。
ただ。
そこに、男が立っていた。
雪の中。
静かに。
人間離れした美貌の男。
夜の闇より深い瞳。
無駄のない動きで、影の残骸を一瞥する。
「……雑魚か」
つまらなそうに、呟いた。
彩葉は、言葉を失う。
男が、ゆっくりと視線を向けた。
その目に、捉えられる。
「……この女だな」
心臓が、跳ねる。
「え……?」
一歩、近づいてくる。
雪を踏む音だけが響く。
距離が、近い。
近すぎる。
「守ってやる」
「……は?」
「妖が寄ってくる体質だろ」
息が、止まる。
「自覚はないのか」
ため息をひとつ。
そして。
「契約しろ」
「……は?」
男の目が、わずかに細くなる。
どこか愉快そうに。
「お前は今日から、俺のものだ」
数秒。
思考が止まる。
そして。
「はぁぁぁ!?」
境内に、声が響いた。
雪は、まだ降り続いている。
桜と混ざりながら。
静けさが、戻る。
けれど。
それは、元の静けさではなかった。
風が止み、音が消え、
まるで世界が一度、息を潜めたように。
何もなかったことにするように。
雪だけが、何事もなかったかのように降り続いている。
「……あれ?」
思わず、声が漏れる。
さっきまで、そこにいたはずの男の姿が――
ない。
足跡も、気配も、何もかも。
最初から存在しなかったみたいに。
(……じゃあ、あれは)
夢?
いや。
違う。
胸の奥だけが、はっきりと覚えている。
あれは――現実だった。
彩葉は、ふと視線を奥へ向けた。
社のさらに奥。
人の立ち入らない、小さな山道。
そこを少し登ると、開けた場所に出る。
(……旧社)
今はもう、焼け跡と、
大きな切り株だけが残っている。
昔、この地には。
千年を超えるといわれた、大きな桜の木があった。
その咲きぶりは見事で、
遠方からも人が訪れたという。
奉納される神楽は、
まるで天女が舞うようだったと、
古い記録に残っている。
けれど、その桜は――
もう、ない。
およそ八十年前。
社は火に包まれ、
その傍らにあった桜もまた、失われた。
残された切り株には、しめ縄が巻かれている。
“鎮める”ために。
(……なんでだろう)
なぜか。
胸が、少しだけ痛んだ。
理由は、分からない。
けれど。
どこか、懐かしい。
(……あそこ、入っちゃいけないって言われてたっけ)
風が吹く。
桜が、ひとひら舞い落ちる。
その奥で。
何かが、目を覚まし始めていた。




