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307 縫界巡礼編 第十二話「死んだはずの声 ― アーテルの残滓、記録殿に嗤う」part2


彼女の体が風にほどけるように軽くなり、次の瞬間には侵食体の側面へ回り込んでいる。両手に集めた翠光は槍の形ではなく、今度は細い穿孔錐のように圧縮されていた。


「――《翠穿尖》!」


放たれた一撃が、未来残滓の薄膜を二枚、三枚と貫いていく。


だが四枚目で、急に軌道がぶれた。


そこに立ち上がったのは、**“サラがいない未来”**の残滓だった。


聖なる補助のない旅路。癒しも、祈りも、やわらかな声もないまま続く道。その薄い像が、ほんの一瞬だけディネの視界をかすめる。


「っ……!」


その揺らぎを、白いアリスが即座に読む。


「右へ一歩、次に下!」


鋭い指示。


ディネは反射で従った。


すると彼女のいた位置を、侵食体の影腕が紙一重で薙いでいく。


「助かった!」


「礼はあと!」


白いアリスの返答は短い。


その間にアリスは、まっすぐ侵食体の正面へ踏み込んでいた。


黒紫の腕が二本、三本と彼女へ襲いかかる。だが彼女はそれを最小限の動きで避け、あるいは魔力刃で切り払いながら、一歩ずつ核へ距離を詰めていく。


「無駄だよ、アリス」


アーテルの残滓が甘く囁く。


「君は、どれだけ進んでも結局同じところへ戻ってくる。守ろうとして、拾おうとして、抱え込み、そしていずれ取りこぼす」


その声とともに、侵食体の周囲の未来残滓がさらに濃くなる。


今度、アリスの前に現れたのは――


**“誰も救えなかった未来”**だった。


崩れた都市。


燃え落ちた聖堂。


折れた剣。


砂塵の中に横たわる、見慣れた誰かたちの姿。


サラの白い衣の切れ端。


ディネの翠の髪飾り。


ノームの杖の破片。


そしてその中心に、一人立ち尽くすアリス。


「――」


一瞬だけ、息が止まる。


ほんの一瞬。


だが、その一瞬をアーテルは見逃さない。


「そうだ。それを恐れろ。君が本当に恐れているのは、負けることではない。選び損ねることだ。間に合わないことだ。救えなかった現実を、自分のせいだと思ってしまうことだ」


「……黙れ」


アリスの声が低く落ちる。


「君は強い。だからこそ、いずれ壊れる。誰にも頼らず、誰にも背負わせず、全部を自分で握ろうとする者は、最後に必ず空になる」


「黙れって言ってるのよ」


次の瞬間、アリスの周囲の空気が変わった。


魔力の密度が、一段深く沈む。


怒りで爆ぜるのではない。逆だ。静かに、静かに、底の方へ落ちていくような圧。


白いアリスがその変化に目を見開いた。


「……まさか」


アリスは足を止めない。


目の前に広がる最悪の未来像を、今度は逸らさずに正面から見たまま進む。


そこに映る喪失を、痛みを、恐れを、全部見たうえで。


それでも彼女は、前へ出る。


「勘違いしないで」


その声は静かだった。


「私は、怖くないわけじゃない」


未来残滓の中の“孤独なアリス”が揺れる。


“救えなかったアリス”が揺れる。


“閉じてしまったアリス”が揺れる。


「取りこぼしたくないし、間に合わないのも嫌いだし、失うのなんて、最悪に決まってる」


一歩。


また一歩。


侵食体の目前へ。


「でも――」


アリスは、そこでようやく顔を上げた。


その瞳には、恐れも痛みも、ちゃんと残っている。


なのに、それでも折れていない光があった。


「だから誰かと一緒に来てるのよ」


その瞬間だった。


サラの鎮静術が、未来残滓の外層を一気に薄くする。


ノームの土霊鎖が侵食体の脚部と床下導線を完全に固定する。


ディネの翠穿尖が、ちょうど胸部空洞の防御膜を貫く。


そして白いアリスが、鋭く叫んだ。


「今! 核の“当たる未来”を固定する!」


彼女の両手から放たれた白い導線が、侵食体の胸部へ突き刺さる。未来の分岐を縫い止めるように、無数の可能性の揺らぎが一点へ収束していく。


その一瞬だけ、核が“逃げられない”。


アリスは、右手をまっすぐ前へ突き出した。


掌の前に現れた魔法陣は、一枚ではなかった。


二枚、三枚、十枚、二十枚――幾何学的に重なり、深層で位相を変えながら、ひとつの極小点へ力を圧縮していく。


「――《紫煌断芯》」


放たれた一撃は、光というより“決定”だった。


一直線。


迷いなく。


核の中心へ。


赤黒い光が、貫かれる。


その瞬間、侵食体の中から、アーテルの声が初めて明確な苦痛を滲ませた。


「――なっ……!」


だが、終わらない。


核は砕けたはずなのに、胸部空洞のさらに奥で、まだ何かが蠢いていた。


赤黒い光の向こう側。


もっと深い場所。


そこに、別の術式陣が埋め込まれているのが見えた。


アリスの瞳が細くなる。


「……二重核?」


白いアリスが息を呑む。


「違う……あれは」


ノームの顔色が変わった。


「召喚式じゃ」


サラが凍りつく。


ディネが叫ぶ。


「ちょっと待って、それってまさか――!」


侵食体の胸部奥で、砕けた核の向こうから、古い、古い術式文字が血のように浮かび上がる。


それは、この旅の始まりの一つでもあった。


パルキニア共和国で行われた、禁忌の勇者召喚式と酷似した紋様。


アーテルの残滓が、ひび割れた笑いを漏らす。


「そうだ……ようやく、そこまで来たか」


砕けかけた声なのに、その愉悦だけはまだ濁っていない。


「この記録殿は、入口に過ぎない」


黒紫の渦が、崩れながらもなお回る。


「縫い目の根は……もっと下だ」


その瞬間、最深記録殿の床全体に、巨大な召喚陣がうっすらと浮かび上がった。


白い床石の下に、最初から埋め込まれていたかのように。


いや、違う。


**“最初からここへ通じていた”**のだ。


闇の賢者は、ただ記録を喰わせていたのではない。


この場所そのものを利用して、世界中の“選ばれなかった未来”を一つの巨大な供物として集めていた。


そしてその先にあるものは、おそらく一つ。


パルキニア共和国の地下深く――あの古代遺跡の、さらに奥。


アリスの喉元に、冷たい理解が落ちた。


「……繋がった」


ディネが息を呑む。


「全部?」


アリスはゆっくりと頷く。


「ええ。勇者召喚、次元の裂け目、星界の異常構造、蒐集神の干渉、セントマッカーサ島、そしてここ」


彼女は崩れゆく侵食体の奥にある術式陣を睨みつける。


「全部、“同じ縫い目”の別の端だったのよ」


その時、砕けたはずの侵食体の内部から、最後の最後に、アーテルの残滓が笑った。


「ようこそ、深層へ」


そして次の瞬間――


最深記録殿の床が、ゆっくりと割れ始めた。


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