306 縫界巡礼編 第十二話「死んだはずの声 ― アーテルの残滓、記録殿に嗤う」part1
「――ああ、やはり来たか」
その声は、耳に届いたというより、脳の深いところへぬるりと差し込まれた。
低く、滑らかで、どこか芝居がかった抑揚を持ちながら、それでいて決して大仰ではない。人を見下しながら、あえて穏やかに語りかけてくるような響き。その声音には、かつて幾度も世界を歪めようとした邪悪な神官としての気配と、死に際にすら己を特別だと信じて疑わなかった狂気の名残が、嫌になるほどよく残っていた。
サラの顔から血の気が引く。
「……アーテル」
ディネも眉をひそめ、吐き捨てるように言う。
「は? 冗談でしょ。あいつ、もうとっくに片付いたやつじゃなかったの?」
「片付いたわよ」
アリスの返答は短かった。
その声だけは、妙に静かだった。
「本体は、ね」
侵食体の胸部空洞――黒紫の渦が回るその中心に、赤黒い光が脈打っている。さっきまで単なる固定核に見えていたそこに、今ははっきりと“意思”の輪郭があった。感情も、執念も、悪意も、すべて完全な人格に届くほどではない。だが、だからこそ質が悪い。
それは、死者が遺した思念というには濃すぎる。
逆に、生きている者の魂というには薄すぎる。
“残滓”――それが最もしっくりくる呼び名だった。
「正確には、残り滓ですらないのでしょうね」
白いアリスが険しい顔で呟く。
「記録へ食い込んだ“意志の癖”……あるいは、自我の鋳型だけがここに引っかかっている」
侵食体の胸部から、再びあの声が響く。
「残滓、か。ずいぶんと簡単な言葉で片づけるものだ。だが、まあ間違ってはいない。私は“完全な私”ではない」
その声に、わずかに愉悦が混じった。
「けれど、不完全であることは、時に完全より便利だ」
「便利、ね」
アリスが冷たく言う。
「死んだ後までしつこくこびりついてるあたり、ゴミとしてはかなり粘着質で便利そうだわ」
ディネが一瞬だけ「今のはちょっと好き」と言いそうな顔をしたが、空気が空気なので飲み込んだ。
胸部の赤黒い核が、どくん、と一度大きく脈打つ。
すると侵食体の周囲に立ち上がっていた“欠けた未来”たちが、さらに輪郭を濃くした。
一人で海を眺めるアリス。
誰にも心を開かなかったアリス。
隣に誰もいない戦場に立つアリス。
それだけではない。今度は、サラが見たこともない崩れた聖堂、ディネのいない荒野、ノームの不在によって崩落した精霊脈――そんな光景まで混ざり始めている。
「……嫌な趣味ですね」
サラの声は震えていたが、目だけは侵食体から逸らしていなかった。
「嫌な趣味?」
アーテルの残滓が、薄く笑った気配を滲ませる。
「違うな。これは“可能性の選別”だ。世界は常に無数の分岐を孕んでいる。ならばその中から、より有用な枝を拾い、不要な枝を捨てるのは、知性ある者の責務だろう?」
「うわあ、出た」
ディネが露骨に嫌そうな顔をする。
「自分を賢いと思ってるやつ特有の、最悪の理屈」
「理屈ですらないわね」
アリスが一歩前へ出る。
「選別って言葉で飾ってるだけで、やってることはただの盗み食いよ。人の可能性を勝手に摘まんで、自分の都合のいい失敗だけ集めてる」
「だが、それで十分だ」
アーテルの声は落ち着いていた。
「成功した未来は、一つの現実にしかならない。だが失敗した未来は違う。そこには、未練、悔恨、恐れ、届かなかった願いが凝縮される。実に濃密で、実に扱いやすい」
その言葉に、アリスの瞳の温度がすっと下がる。
「……そう」
それだけ言って、彼女は微かに笑った。
だがその笑みは、誰かを安心させる類のものではなかった。
「つまりあなたは、“届かなかったもの”だけを漁って悦に入ってるわけね」
「アリス……?」
サラが小さく彼女の名を呼ぶ。
けれどアリスは、もう侵食体の核しか見ていなかった。
その表情を見て、ディネがぼそりと呟く。
「……あ、これ、あいつ今かなりキレてる」
ノームが低く頷いた。
「うむ。静かな時ほど怖い類いじゃ」
白いアリスは、その横顔をじっと見つめていた。
そして、ほんの一瞬だけ、自分にはない熱を見たように目を伏せる。
侵食体が、ゆっくりと腕を持ち上げる。
それに呼応するように、周囲の未来残滓たちが音もなく位置を変え始めた。単なる幻影ではない。今やあれらは侵食体の“外殻”であり、“盾”であり、“精神攪乱の刃”でもある。
真正面から叩けば、記録片ごと巻き込んで破壊してしまう危険がある。
だが、躊躇えば侵食が進む。
一瞬の判断の遅れが、ここでは命取りになる。
アリスは息を吸い、短く言った。
「サラ」
「はい!」
「今からあれの周囲に浮いてる残滓を、できるだけ“浄化”じゃなく“鎮静”で落として」
サラが一瞬だけ目を瞬く。
「鎮静……?」
「ええ。強引に消すと、核がそれを餌にしてさらに暴れる。だから“眠らせる”」
その言葉に、サラの表情が引き締まった。
「……わかりました。やってみます」
「ディネ」
「はいはい、わかってる。中をぶち抜くんでしょ?」
「ええ。でも今回は“派手に”じゃなく“深く”」
「難しい注文するなあ……!」
口では文句を言いながらも、ディネの目はすでに侵食体の動きを追っている。
「ノームは?」
「儂は土台を押さえる。こやつ、見た目以上にこの殿堂の導線へ根を伸ばしておる。固定核だけ潰しても、床下へ逃げられては面倒じゃ」
「さすが」
アリスが短く頷く。
そして最後に、白いアリスへ視線を向けた。
「あなたは、私と来なさい」
白いアリスが目を上げる。
「私と?」
「あなたにしかできないことがある」
アリスの声は淡々としていた。
「ここに保管されてる“選ばれなかった未来”は、あなたの方が読みやすい。あれが次にどの残滓を盾に使うか、先読みして」
白いアリスは一瞬だけ黙ったあと、静かに頷いた。
「……わかった」
アーテルの残滓が、楽しげに嗤う気配を見せる。
「ほう。今の君は、ずいぶんと他者を使うのだな」
「使うんじゃないわ」
アリスは即座に返した。
「頼るの」
その一言は短かった。
けれど、その場にいた誰にとっても、それが今の彼女の答えなのだと十分に伝わった。
次の瞬間、侵食体が先に動いた。
胸部の渦から、今度は細い糸のような黒紫の線が無数に射出される。先ほどのような単純な砲撃ではない。あれはおそらく“接続”だ。記録球や導線へ触れれば、そこからさらに未来残滓を引きずり出すつもりだろう。
「させません!」
サラが一歩踏み出し、杖を高く掲げる。
「――《静聖紋・白環睡》!」
白い環が何重にも広がり、糸状の侵食線へ重なる。光は攻撃的ではなかった。切り裂くのではなく、包み込み、波を鎮めるような柔らかい輝き。触れた黒紫の糸が、一瞬だけ迷ったように揺らぎ、その動きが鈍る。
「今です!」
「おっけー!」
ディネが床を蹴った。




