305 縫界巡礼編 第十一話「記録を喰らうもの ― 闇の賢者、最深部に触れる」part2
だが次の瞬間、銀紫の閃光がそれを断ち切った。
アリスだ。
「見るな!」
叩きつけるような一言とともに、彼女の刃状魔力が侵食体の腕を斬り裂く。影の束が散り、黒い霧となって床へ落ちた。
ディネがはっと息を呑む。
「……今の」
「記録の反射よ」
アリスは侵食体から目を逸らさず言う。
「こいつ、喰った未来の断片を餌にして、こっちの判断を鈍らせてくる」
「最悪じゃん……!」
「だから言ってるでしょ、最悪だって」
その時、白いアリスが円壇の縁から一気に跳躍した。
動きは軽い。だが軽やかというより、無駄が削ぎ落とされすぎていて逆に怖い。
彼女は空中で指を鳴らすように振るい、白い糸のような光を何本も展開した。
「記録導線を使う。合わせて」
アリスが一瞬だけ目を細める。
「命令口調が腹立つわね」
「今そこ?」
「でも使う」
二人の声がほぼ同時に重なった。
次の瞬間、白いアリスの張った光糸が、天井から床へ降りる記録導線へ接続される。すると殿堂中の導線が一斉に明滅し、侵食体の周囲だけ位相の噛み合いがずれた。
「今!」
白いアリスの合図に、アリスは即座に両手を重ねる。
「――《断界・紫煌圧》」
重層展開された魔法陣が前方へ重なり合い、圧縮された紫銀の砲条が侵食体へ叩き込まれた。今度は逸れない。白いアリスが“当たる可能性”の導線を固定したのだ。
直撃。
轟音。
侵食体の上半身が大きく仰け反り、顔のない球体表面に浮かんでいた無数の表情が一斉に悲鳴めいた歪みを見せた。
「効いた!」
サラが叫ぶ。
だがノームはすぐに首を振った。
「いや、まだだ!」
その言葉どおりだった。
侵食体の胸部空洞がさらに激しく回転し始める。床に散らばっていた砕けた記録片が、まるで磁石に吸われる鉄片のように浮かび上がり、そいつの体へ次々と貼り付いていく。
砕けた笑顔。
半端な会話。
途中で途切れた未来。
それらすべてが、黒紫の肉に取り込まれていく。
そして、侵食体の周囲の空間に、次々と“誰か”の姿が滲み始めた。
「……え」
サラの声が震える。
それは幻ではない。記録の滲みが、半実体化しかけている。
一人で海辺に座るアリス。
心を閉ざしたまま中庭に立つアリス。
誰も隣にいない戦場に立つアリス。
さらにそれだけではない。
サラのいない旅路。
ディネのいない戦線。
ノームのいない精霊脈。
**“仲間が一人ずつ欠けた未来”**が、侵食体の周囲に薄く立ち上がり始めていた。
「こいつ……!」
ディネが顔を強張らせる。
「喰った記録を“殻”にして、別未来の残滓を纏ってる……!」
白いアリスが険しい顔で言う。
「長引かせるとまずい。こいつはただ壊すだけじゃ駄目」
「核を抜く必要があるわね」
アリスが即座に理解する。
「胸部空洞の中心――あそこに“固定核”があるはず」
「でもあそこ、攻撃が届きにくいよ!」
ディネの言う通りだった。空洞周囲には複数の未来残滓が層のように重なり、まともに踏み込めば精神ごと引きずられる危険がある。
アリスは一瞬だけ考え、すぐに決めた。
「サラ、浄化で外殻を削る。ノーム、足止め。ディネは私と一緒に中を穿つ」
「了解!」
「承知しました!」
「任せろ!」
三人の返答は早い。
その時、白いアリスが低く言った。
「私も行く」
アリスがちらりと彼女を見る。
「……あら。消える側のくせに、随分やる気ね」
白いアリスは少しだけ眉を寄せた。
「ここが壊れれば、私も消える」
「そう」
「でもそれだけじゃない」
ほんの一拍、彼女は言葉を選んだ。
「……こんな形で、終わりたくない」
その声は小さかったが、今までで一番“人間らしい”響きを持っていた。
アリスは数秒だけ彼女を見つめ、それから小さく息を吐く。
「じゃあ勝手に死なないでついてきなさい」
「言い方」
ディネが思わずツッコむ。
「気遣いが雑すぎるでしょ」
「十分優しいわよ、私にしては」
「基準が怖いんだけど!?」
そんな軽口の最中にも、侵食体は膨れ上がり続けていた。胸部の渦がさらに深くなり、その中心で何か赤黒い光が脈打ち始めている。
固定核。
あれが完全に活性化すれば、この記録殿そのものを餌にして、さらに巨大化するだろう。
アリスは魔力を練り直し、視線を鋭く細めた。
「……一気に行くわよ」
その瞬間、侵食体の球状頭部に浮かんでいた無数の顔が、一斉にこちらを向いた。
そしてその中のひとつが――
倒したはずのアーテルの顔に変わった。
「――っ」
サラが息を止める。
ディネの目も見開かれた。
アリスだけが、微動だにしなかった。
だがその瞳の奥に、冷たい殺意が静かに灯る。
侵食体の内部にある固定核。
そこに、ただの記録片では済まない**“意志の混入”**がある。
つまりこれは、闇の賢者の単なる置き土産ではない。
誰かが、ここを通して“見ている”。
そしてその誰かは、彼女たちがよく知る、あの忌まわしい名と繋がっている。
アリスの声が、静かに落ちた。
「……やっぱり、あなたなのね」
侵食体の口なき顔たちが、いっせいに歪んで笑う。
次の瞬間、最深記録殿全体が震えた。
そして、侵食体の胸部空洞の奥から――
“アーテルの声”が、はっきりと響いた。




