304 縫界巡礼編 第十一話「記録を喰らうもの ― 闇の賢者、最深部に触れる」part1
その笑い声は、耳で聞くものではなかった。
音として届いたわけではない。にもかかわらず、四人の背筋を同時に冷たいものが走った。まるで、頭蓋の内側へ直接“嗤われた”ような不快感。古代遺跡の最深部にふさわしい怪異というには、あまりに悪趣味で、あまりに人の感情を逆撫でする気配だった。
白扉の隙間から滲み出る黒紫の光が、ゆっくりと床を這い始める。
その光は液体にも煙にも見えた。輪郭が定まらないくせに、確かな意思を持っているように床石の目地を選んで進み、白い導線へ触れるたび、それをじわりと黒く腐食させていく。清浄な観測導管の網が、一本、また一本と死んでいくたびに、天井に浮かぶ記録球のいくつかが不安定に明滅した。
「あれ……っ、まずくないですか!?」
サラの声に、いつもの柔らかさはなかった。
「ええ、かなりね」
アリスは短く返しながら、すでに右手を前へ出している。指先に集まった魔力が、薄い銀紫の燐光となって周囲の空気を震わせた。
ノームは杖の石突きを床へ軽く打ちつける。すると四人の足元へ、淡い土色の円陣が重なり合うように広がった。
「記録殿そのものが侵食されておる。ここで空間構造まで食われれば、最悪、全記録層が暴走するぞ」
「暴走って、どうなるの?」
ディネが短く訊く。
「保存されている“選ばれなかった未来”が、未分化のまま現実へ漏れ出す」
ノームの返答は簡潔だったが、その意味はまったく簡潔ではなかった。
ディネの顔が引きつる。
「それ、要するに……」
「この空間に吊るされてる嫌なもの全部が、現実に染み出してくるってことよ」
アリスが代わりに言い切った。
「しかも未完成なまま。理屈も因果も崩れた状態でね」
「うわ、最悪」
ディネが本日何度目かの“最悪”を更新した、その瞬間だった。
白扉が――内側から膨らんだ。
木でも金属でもない、白い石質の扉だったはずなのに、その表面がまるで薄い皮膜のように不気味に脈打ち、次の瞬間、内側から何かが突き破るように裂けた。
黒紫の亀裂。
そこから、腕が伸びた。
だがそれは人の腕ではない。
無数の影の帯をねじり合わせ、無理やり腕の形に留めたような、不完全な肢体。表面には断片的な紋様が浮かんでいるが、そのどれもが別々の術式を途中で継ぎ足したように歪で、古代術式と現代魔術、さらに魔族系の呪式までが悪趣味に混ぜ込まれていた。
「……なに、あれ」
ディネが嫌悪を隠さず呟く。
アリスは目を細める。
「術式の継ぎ接ぎ。しかも“意図的”ね」
「闇の賢者……?」
サラが息を呑む。
「ええ。たぶん連中の痕跡そのものよ」
白いアリスが初めて、はっきりと険しい顔をした。
「違う。痕跡じゃない」
アリスが横目で彼女を見る。
「……何」
白いアリスは白扉の裂け目を睨んだまま、低く告げた。
「これは“餌付けされた侵食体”よ。向こう側から送り込まれた、記録層を喰わせるためのもの」
その言葉が終わるより早く、裂け目から二本目、三本目の腕が這い出してくる。
そして扉全体が、限界を迎えた皮膜のように一気に破裂した。
黒紫の粘膜めいた闇が爆ぜ、その中心から現れたのは、巨大な人影だった。
いや、人影に“似せた”何か。
背丈は三メートル近い。輪郭は人型だが、頭部の位置には顔がない。代わりにそこには、無数の記録片が貼り付いたような球状の塊があり、その表面で絶えず他人の表情が浮かんでは消えていた。泣き顔、怒り顔、笑顔、絶望の顔――それらが一瞬ごとに入れ替わり、まともな“ひとつの人格”を持っていないことを露骨に示している。
胴体の中央は空洞で、そこに黒紫の渦が回っていた。
そしてその空洞の周囲には、砕けた記録球の破片が、まるで肋骨のように並んでいる。
「……っ」
サラが小さく身を竦めた。
「記録を……食べてる……」
その通りだった。
化け物の足元には、すでに割れた記録球の欠片がいくつも散らばっている。天井に吊るされた“選ばれなかった未来”の断片を、こいつは取り込み、歪め、自分の構成素材にしているのだ。
白いアリスが、苦々しく吐き捨てるように言う。
「記録喰らい――未来侵食体」
ディネがぎょっとして振り返る。
「え、名前あるの!?」
「あるというより、ここで分類されてた危険種よ!」
「なんでそんな危険種が今ここにいるの!?」
「闇の賢者が“持ち込んだから”でしょうね!」
アリスが会話の無駄を切るように言い放つと同時に、侵食体の胸部空洞がぐるりと回転した。
まずい、と直感が叫ぶ。
「散開!」
アリスの号令と同時に四人が左右へ跳んだ。
次の瞬間、空洞から黒紫の奔流が吐き出され、彼女たちが立っていた場所を一直線に薙いだ。白い床石が触れた端から崩れ、導線がばちばちと火花を散らしながら焼き切れる。
直撃していたら、ただでは済まなかった。
「うわっ、やばっ……!」
ディネが転がるように回避しながら舌打ちする。
「見た目どおり最悪に強そうなんだけど!」
「見た目より性質が悪いわよ!」
アリスは空中で姿勢を立て直し、そのまま掌を前へ突き出した。
「――《紫晶封界》」
複数の魔法陣が彼女の周囲へ展開し、そこから放たれた紫銀の結晶杭が侵食体へ向かって雨のように降り注ぐ。一本一本が高密度の封圧術式を含んだ拘束杭だ。通常の魔物なら、直撃した時点でその場へ縫い止められる。
だが侵食体は、胸部の空洞をねじるように回転させた。
その周囲の空間が不自然に歪み、結晶杭の軌道がずれる。
数本は刺さった。だが残りの大半は、まるで“存在しなかった未来”に落ちたように明後日の方向へ逸れて床を砕いた。
「……空間じゃない」
アリスの眉が寄る。
「軌道の“可能性”をずらしてる……!」
白いアリスがすぐさま言い足す。
「観測記録を喰ってるからよ! こいつ、攻撃そのものの成立率へ干渉してる!」
「つまり?」
ディネが飛び退きながら叫ぶ。
「当たる未来を“外した未来”に食わせてるの!」
「説明が最悪にわかりやすくて最悪!」
その間にも侵食体は動く。重そうな体躯に反して異様に速い。腕とも脚ともつかない影の束をしならせ、円壇を一気に横切る。
狙いはサラだった。
「サラ!」
アリスが叫ぶより早く、サラは杖を胸元へ引き寄せて詠唱を終えていた。
「――《清紋聖環》!」
彼女の足元から白金の輪が幾重にも広がり、侵食体の進路上へ十字の光壁を形成する。ぶつかった影の腕が激しく火花を散らし、空気を焼くような異音を立てた。
だが押し切れない。
侵食体はそのまま光壁を噛み砕くように食い破り、さらに前へ出る。
「っ……!」
サラの額に汗が滲む。
押し負ける――そう思った瞬間、横から土色の鎖が飛んだ。
ノームの術だ。
「根を張れ――《地縛連環》!」
幾重にも編まれた土霊の鎖が侵食体の脚部へ巻き付き、動きを一瞬だけ止める。その一瞬を逃さず、ディネが飛び込んだ。
「止まれっ!」
彼女の両手から放たれた翠光が槍のように収束し、侵食体の胸部空洞へ突き刺さる。
精霊直結の高純度魔力。
この手の歪んだ混成体には、本来なら相性がいい。
だが――刺さった瞬間、侵食体の胸部で“別の映像”が閃いた。
それはほんの刹那の像だった。
幼い頃のディネが、一人で暗い水辺に立っている。
振り返る先には、誰もいない。
「――っ!?」
ディネの動きが、ほんの一拍だけ止まる。
侵食体はその隙を見逃さなかった。
胸部の渦から黒紫の手が伸び、彼女の腕へ絡みつこうとする。




