303 縫界巡礼編 第十話「最深記録殿 ― 選ばれなかった笑顔たち」part2
一人きりのアリスが、海辺のテラスから立ち上がる。
誰もいない部屋へ戻る。
誰もいない廊下を歩く。
誰もいない夜の浜辺へ出る。
そして、月明かりの下で、ふと立ち止まる。
その横顔には、何の苦痛も浮かんでいない。
ただ――何も感じないように整えられてしまった静けさだけがあった。
「これは、“取りこぼさないために、最初から何も受け取らなかった未来”」
白いアリスの声が、ひどく静かに響く。
「あなたなら、こうなることもできた」
アリスの喉の奥が、わずかに固くなる。
できた。
その言葉が、一番嫌だった。
なぜならそれは、否定しきれないからだ。
自分はたぶん、本当にこうなれた。
痛みを減らし、迷いを減らし、余計なものを持たないまま、もっと速く、もっと合理的に進むことができた。
でもその結果、目の前のこの静かな島のような未来が待っていたのだとしたら。
それは勝利でも敗北でもない。
もっと質の悪い、**“正しすぎる空虚”**だ。
「……見せたいのはそれだけ?」
アリスがようやく口を開く。
声は冷たかったが、ほんの少しだけ掠れていた。
白いアリスは首を横に振る。
「まだある」
その瞬間、南の島の光景が砕けるように崩れ、次の記録球が光った。
今度は――シエステーゼ王国の王城中庭だった。
春のような柔らかな日差し。白い石畳。咲き誇る花々。そこに立っているのは、まだ今より少し幼いアリスと、ノアール王女。
だが、何かが違う。
会話が噛み合っていないのだ。
アリスは形式的に返事をしているだけで、ノアールの言葉を受け取っていない。ノアールもまた、どこか壁を感じながら、それでも無理に明るく振る舞っている。
白いアリスの声が重なる。
「これは、“最初に差し出された手を、取り損ねた未来”」
サラが胸元を押さえた。
「そんな……」
場面が進む。
その後の支援も、復興も、同盟も、表面的には成立している。だがどこか薄い。ノアールの信頼は最後まで“公的な協力者”の域を出ず、アリスもまた誰かの感情に踏み込むことを避け続けている。
結果として、大きな破綻はない。
だが、大きな絆も生まれない。
「こういう未来も、あった」
白いアリスが淡々と告げる。
「あなたがほんの少し、心を閉じたまま進んでいたら」
アリスは目を逸らさなかった。
逸らせなかった、という方が正しいかもしれない。
そこに映っているのは、自分ではない。
けれど、自分の“延長”ではある。
わずかな差。ほんの少しのタイミング。ほんの一歩の躊躇。
その積み重ねだけで、世界はこんなにも静かで、薄いものになってしまう。
三つ目の記録球が降りてくる。
今度の光景を見た瞬間、ディネが小さく息を止めた。
それは、戦場だった。
空は暗く、地面は焼け焦げ、どこかの都市の外縁が崩れている。そこにいるのはアリスとディネ――のはずだった。
だが違う。
その未来では、ディネがいない。
代わりにアリスは、一人で立っている。
敵を殲滅し、都市を守り切り、被害も最小限に抑えている。
なのに、その戦場には**“無茶を笑い飛ばす声”**がない。
ディネの顔色が変わる。
「……やめて」
その呟きは小さかった。
だが、白いアリスは止めない。
「これは、“あなたが間に合わなかった未来”」
その一言に、アリスの視線が鋭くなる。
「黙りなさい」
「見なければ、同じものをまた踏むかもしれない」
「黙れって言ってるのよ」
声に初めて明確な苛立ちが混じった。
だが記録は止まらない。
戦場の中のアリスは強い。容赦がなく、速く、迷いがない。だから勝つ。
でもその勝ち方は、今のアリスが知っているものより、ずっと冷たい。
助かった都市の人々は彼女を称える。感謝もする。
けれど誰も、彼女の隣へは立たない。
立てないのだ。
あまりにも遠く、あまりにも完成されすぎていて。
「……もういい」
今度はディネが、はっきりとそう言った。
その声には、珍しく怒気があった。
「こんなの、“可能性”って顔してるだけで、結局あんたが見せたい方向へ切り取ってるだけじゃん」
白いアリスがわずかに目を細める。
「違う」
「違わない」
ディネは一歩前へ出た。
「未来なんて、いくらでも枝分かれするでしょ。なのに見せてるのは、どれも“アリスが誰も受け取らなかった時”のやつばっかりだ」
その言葉に、アリス自身もはっとする。
たしかにそうだ。
これまで見せられたのは、どれも“アリスが閉じていった未来”ばかりだった。
取りこぼした未来。受け取らなかった未来。心を開かなかった未来。
だが逆に言えば、それはつまり――
白いアリス自身が、そういう未来の集合体だということでもある。
アリスはゆっくりと白い自分を見上げた。
「……なるほどね」
その声に、白いアリスが静かに視線を向ける。
「あなた、見せてるつもりで、実際は“自分の形”しか見せられてない」
ディネが振り返る。
「え?」
アリスは白いアリスから目を逸らさないまま続けた。
「あなたは“選ばれなかった未来”全部の代弁者じゃない。ただの一つよ」
白いアリスの無表情が、ほんの少しだけ揺らぐ。
「……何が言いたいの」
「簡単な話」
アリスは静かに言った。
「あなたは“私の可能性”ではあっても、“私の全て”ではない」
その瞬間、最深記録殿の空気がぴん、と張り詰めた。
天井の記録球が、一斉にわずかに震える。
白いアリスは黙ったまま、初めて少しだけ苦しそうな顔をした。
その変化を、アリスは見逃さなかった。
「あなたがここへ私を呼んだのは、説得のためじゃない」
アリスの声は静かだった。
「確認したかったのね。自分が“本当に私の延長線上にいるのか”を」
その一言が、深く刺さったのだとわかった。
白いアリスの指先が、わずかに震えたからだ。
そしてその時、最深記録殿の奥――円壇のさらに向こう側にある巨大な白扉の隙間から、黒紫色の細い光が一筋だけ漏れた。
ノームが即座に顔を上げる。
「……来るぞ」
サラがはっと息を呑む。
アリスもまた、その気配を感じ取っていた。
白いアリスとの対話の裏側で、ずっと奥に眠っていた何かが、今の言葉の衝突をきっかけに目を覚まし始めている。
しかもそれは、単なる記録装置ではない。
もっと濁っていて、もっと悪意に近いもの。
おそらく――闇の賢者が最深部へ触れた痕跡そのものだ。
白いアリスもそれに気づき、初めて明確に表情を変えた。
「……まずい」
「へえ」
アリスが目を細める。
「あなたでも“まずい”って思うことあるのね」
「冗談を言ってる場合じゃない」
「それはこっちの台詞よ」
黒紫の光は、白扉の隙間からじわじわと広がり始めていた。
それは記録殿の白い空気と明らかに相容れない、外から持ち込まれた異質な魔力だ。腐食にも似た侵食性を持ち、周囲の導線を黒く染めながら広がっていく。
アリスの表情が冷えた。
「……やっぱり、ここまで来てる」
闇の賢者。
あるいは、そのさらに奥にいる者。
彼らはすでに、この最深記録殿へ“手をかけて”いる。
そしてその目的は、おそらく一つ。
選ばれなかった未来の残骸を、現実へ引きずり出すこと。
アリスは一歩前へ出た。
白いアリスもまた、円壇の上でゆっくりと身構える。
奇妙なことに、その瞬間だけ二人の動きはよく似ていた。
本人と残響。
現在と、選ばれなかった可能性。
本来なら相容れないはずの二つが、今だけは同じ敵を見ている。
そして次の瞬間、白扉の向こうで――
何かが、笑った。




