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302 縫界巡礼編 第十話「最深記録殿 ― 選ばれなかった笑顔たち」part1


白い階段を下りるにつれ、空気の質が少しずつ変わっていった。


冷えているわけではない。湿っているわけでもない。けれど肌に触れる感覚が、まるで薄い膜を何枚も潜っていくように不自然だった。ひとつ階層を下りるたび、世界とのあいだに挟まる“何か”が増えていく。そんな気味の悪い感触。


壁面を走る導線は、さきほどよりも明らかに多くなっていた。細い銀線のような光が、石壁の内側で脈打っている。それらは単なる照明ではなく、記録の導管であり、観測の神経そのものなのだろう。古代文明はここで、世界の“起こりえたかもしれない枝”を保管していた。


しかもそれを、ただ眺めるだけではない。


選び、比較し、必要なら利用するために。


そう考えた瞬間、アリスは胸の奥にわずかな苛立ちを覚えた。


世界を壊そうとする狂人より、こういう連中の方がよほど厄介だ。


滅ぼすつもりで触れてくる敵なら、まだわかりやすい。だが、善意や合理性の名のもとに、世界の在り方そのものへ手を入れようとする者たちは、たいてい本人たちが一番たちが悪いことに気づいていない。


「……なんかさ」


前を歩いていたディネが、ふいにぼそりと呟いた。


「ここ、静かなくせに、頭の後ろがずっとざわざわしない?」


「する」


アリスは即答した。


「観測残響が薄く漏れてるのよ。声にならない思考の端っこみたいなものが、導線を伝って空間に滲んでる」


「説明されても気持ち悪さが増すだけなんだけど!?」


「気持ち悪いものは、だいたい説明するともっと気持ち悪いわよ」


「それはそうだけどさあ!」


そのやり取りの横で、サラは耳のあたりへそっと手を当てていた。


「……聞こえる気がします」


「何が?」


ディネが振り返る。


サラは少し困ったように眉を寄せる。


「言葉、じゃないんです。もっと……思い出の切れ端みたいな……」


ノームが低く頷いた。


「儂にも感じる。ここに保存されておるのは、単なる未来像ではないのだろう」


「ええ」


アリスは階段の先を見据えたまま言う。


「未来って、出来事だけじゃ成立しないもの。そこへ至る途中の感情や選択や迷いまで含めて、初めて“未来”になる」


「じゃあここって……」


ディネが顔をしかめる。


「誰かの“そうなったかもしれない気持ち”まで、まとめて置いてある場所ってこと?」


「たぶんね」


「うわあ、やだ」


その感想は正しかった。


階段の最下層が見えてきた頃には、四人とも無意識に口数が減っていた。単純な緊張ではない。空間そのものが、こちらの心の表面をじわじわと撫で回してくるような圧を持っているのだ。


やがて白い階段は終わり、その先にひとつの巨大な円形空間が広がった。


そこが――最深記録殿だった。


一歩足を踏み入れた瞬間、サラが息を呑む。


ディネは思わず立ち止まり、ノームですら目を細めた。


広い。


ただ広いだけではない。


そこは、空間の感覚そのものが狂っている場所だった。


円形の殿堂は本来なら地下にあるはずなのに、天井が見えない。上を見上げれば、夜空のような深い暗色の虚空が広がり、その中に無数の光点が漂っている。それらは星のようにも見えるが、よく見ると違う。ひとつひとつが、薄い映像の断片を宿した記録球だった。


笑う誰か。


泣いている誰か。


戦場の一瞬。


食卓の風景。


別れ際の横顔。


言えなかった言葉。


届かなかった手。


それらが、まるで夜空の星座のように、静かにこの空間へ吊るされている。


そして殿堂の中央には、ひときわ大きな白い円壇があった。


そこへ、ひとりの少女が立っている。


白い衣。


長い髪。


感情の表面だけを綺麗に削ぎ落としたような静かな顔。


白いアリスが、最初からそこで待っていた。


「……歓迎はしないわ」


アリスが冷たく言う。


白いアリスは、わずかに目を細めただけだった。


「する必要もない」


その声はやはり、本人に似ているのに、本人よりもずっと“整いすぎて”いた。


「ここは、祝福の場所じゃないもの」


「じゃあ何」


「保管庫よ」


白いアリスは円壇の上で静かに両手を広げる。


その動きに呼応するように、天井の記録球のいくつかがゆっくりと降下し始めた。


「選ばれなかった未来の」


ディネが露骨に嫌そうな顔をする。


「うわ、絶対ろくでもないやつ始まるじゃん」


「始まるわね」


アリスも同意した。


「しかも、かなり丁寧に」


白いアリスはその軽口に何も反応しない。ただまっすぐにアリス本人を見ていた。


「あなたは、強い」


その言葉は褒め言葉ではなかった。


「だから多くを守れた」


「……何が言いたいの」


「でもその強さは、最初から“何も取りこぼさない強さ”じゃなかった」


白いアリスの視線が、ほんのわずかに天井の記録球へ向く。


「あなたが今ここにいるのは、運が良かったからでも、奇跡が重なったからでもない」


「違うの?」


「違う」


その声には、冷たさではなく妙な確信があった。


「あなたは、無数の“なれなかった未来”の上を歩いて、ここまで来たの」


その瞬間、最も近くまで降りていた記録球のひとつが、淡く光を放つ。


次の瞬間、四人の周囲の景色が揺らいだ。


殿堂が遠ざかる。


視界が切り替わる。


そこに現れたのは、見覚えのある場所だった。


南の島のリゾート。


青い海。白い砂浜。木漏れ日の落ちるテラス。潮風に揺れる薄布。あの束の間の平穏を楽しんだ、つかの間の休息の場所。


だが、その光景には決定的に違うものがあった。


静かすぎるのだ。


笑い声がない。


ディネの文句も、サラの柔らかな相槌も、ノームの落ち着いた声もない。


ただ、ひとりでテラスに座るアリスだけがいる。


「……っ」


サラが息を呑む。


ディネも一瞬だけ言葉を失った。


その“アリス”は海を見ていた。


紅茶のカップが置かれている。菓子皿もある。けれど、手をつけられていない。


景色は綺麗だ。空も海も穏やかだ。何ひとつ問題はない。


なのに、その空間には**“誰かと過ごした痕跡だけが最初から欠けている”**。


白いアリスの声が、どこからともなく重なる。


「これは、あなたが最初から誰にも頼らなかった未来」


アリスは無言でその光景を見ていた。


「面倒も、寄り道も、無駄話も、足手まといもない」


白い声が続く。


「その代わり、誰もあなたの隣へ居着かない」


ディネがぎり、と奥歯を噛んだ。


「……最悪」


その一言には、怒りが滲んでいた。


「ねえ、これ見せて何がしたいの」


彼女が吐き捨てるように言う。


「“一人で全部やる方が効率いい”って説教? だったら反吐が出るんだけど」


白いアリスは、ようやくディネの方を見た。


その視線には敵意はない。けれど、それがかえって腹立たしかった。


「違う」


白いアリスは静かに言う。


「これは、“効率の良い未来”じゃない」


その瞬間、南の島の景色がさらに進む。


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