301 縫界巡礼編 第九話「記録層の白階段 ― もしも、誰も隣にいなかったなら」part2
階段そのものは広く、足場も安定している。だが歩くたびに、壁面の導線がかすかに明滅し、こちらの存在を検知しているような気配があった。
「なんか、嫌な感じに静かすぎるね」
ディネが小声で言う。
「ええ。逆に言えば、“何かが起きる前”の静けさね」
「全然安心できない」
三つ目の踊り場まで降りたところで、アリスはふと足を止めた。
そこにあった石碑のひとつへ、見覚えのある紋様が刻まれていたからだ。
それは古代文明の共通記号ではない。
もっと新しい、そしてこの旅で何度も見てきたもの。
「……縫い目の印」
サラが小さく呟く。
石碑の表面には、世界の裂け目を示すあの特有の螺旋と交差線が、薄く焼き付いたように残っていた。
アリスは石碑へ手をかざし、慎重に魔力を流し込む。
すると、石碑の表面に淡い光が走り、その上空へ半透明の記録像が立ち上がった。
そこに映ったのは、地図だった。
世界地図。
だが現在の国境線とは微妙に異なる、古い時代の大陸図だ。
その各地に、いくつもの光点が打たれている。
パルキニア共和国。
リト王国。
ミケロス共和国。
レイン王国。
セントマッカーサ島。
星界へ繋がった異常座標。
そして――
今、彼らがいる石都遺構群。
ディネが顔を強張らせる。
「……全部、繋がってる」
「ええ」
アリスの声は低かった。
「しかもこれ、後から線を引いたものじゃない」
サラがはっとする。
「最初から……?」
「最初から、ここに“起こる場所”として記録されてたのよ」
その事実が意味するものは重い。
これまで起きたすべての異常は、完全な偶発ではなかった。
もちろん個々の引き金は違う。勇者召喚、裂け目の暴走、蒐集神の干渉、魔神龍復活未遂――表面上の事件はばらばらだ。
だが、それらはすべて、もともと“ほころびやすい場所”として古代から印をつけられていた地点で起きている。
つまり、世界には最初から“縫い目”があり、誰かがそれを利用し続けてきたのだ。
ノームが低く唸る。
「ならば、闇の賢者どもは……」
「古代の脆弱点地図を手に入れてる」
アリスが言い切った。
「そして、それを使って各地の異常を意図的に“繋げて”いる」
「……最悪だね」
ディネの呟きに、誰も反論できなかった。
その時だった。
地図像の一角――現在地を示す石都の光点が、不意に強く脈打った。
アリスの表情が変わる。
「下がって」
三人が即座に距離を取る。
次の瞬間、石碑の上空に映っていた地図がぐにゃりと歪み、別の像へ切り替わった。
白い廊下。
長い髪の少女。
その少女が、誰もいない回廊を一人で歩いている。
「……また」
サラが息を呑む。
映っているのは、さっきの白いアリスだった。
だが今度は残像ではない。これはもっと直接的だ。現在進行形の観測共有に近い。
白いアリスは廊下の途中で立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返る。
そして記録像越しに、まっすぐアリスを見た。
「もう、見え始めているでしょう」
その声が、広い階段空間に静かに響く。
「あなたが選ばなかったものたちが」
ディネが眉をひそめる。
「また意味深なこと言い出した」
アリスは像を睨んだまま、低く返す。
「何が目的」
白いアリスはほんの少しだけ目を伏せた。
「目的なんて、最初からひとつしかない」
「あなたに、“見ないまま進んだもの”を見せること」
「興味ないわ」
「嘘」
即答だった。
その一言が、妙に鋭く胸へ刺さる。
「あなたは、知っているはずよ」
「どれだけ多くの未来を、あなたが踏み越えてきたか」
「どれだけ多くの可能性を、“必要ない”と切り捨ててきたか」
空気が冷える。
いや、冷えたように感じるだけかもしれない。
白いアリスの声には、責める色はなかった。だからこそ厄介だった。ただ淡々と、事実を並べるように語る。
「ここには、その全部が残っている」
「あなたが選ばなかった笑い方も、救えなかった会話も、届かなかった手も、ぜんぶ」
アリスの指先が、無意識に少しだけ強く握られる。
ディネがすぐ隣で、ほんのわずかに位置をずらした。何かあれば即座に割って入れるように。
サラも、ノームも、黙ってアリスを見ている。
白いアリスはなおも静かに言った。
「下へ来なさい」
「記録層の最深部で、あなたは自分の“欠けたもの”を見ることになる」
「……断る」
アリスは冷たく言い放つ。
「私は、過去の取りこぼしを拾い集めて歩く趣味はないの」
「ええ、知ってる」
白いアリスは、そこでほんの少しだけ――初めて、哀しそうに笑った。
「だからこそ、あなたは来る」
像がそこで途切れる。
光が散り、石碑は再びただの無機質な石へ戻った。
しばし、誰も言葉を発さなかった。
最初に口を開いたのはディネだった。
「……あれ、めちゃくちゃ感じ悪いね」
「ええ」
アリスは短く答える。
「しかも、妙に私の嫌なところだけ理解してる」
「いや、そこ本人だからでは」
「うるさい」
少しだけ強めに返したその声に、ディネは逆に安堵したような顔をした。
サラが恐る恐る訊く。
「……行きますか?」
アリスは白い階段のさらに下を見た。
暗い。深い。底が見えない。
だがその先に、確かに何かがある。
縫い目の核に近いもの。闇の賢者の手がかり。そしてたぶん――アリス自身が、まだ正面から見ていない何か。
「行く」
彼女は静かに言った。
「でも勘違いしないで。私は“見せられる”ために行くんじゃない」
その目に、いつもの硬質な光が戻る。
「向こうが勝手に残してるものを、こっちの都合で利用しに行くだけよ」
ディネがにやっと笑う。
「うん、それでこそ」
ノームも低く頷いた。
「ならば進もう。最深部が近い」
サラは小さく息を吸い、それからしっかりと頷いた。
四人は再び、白い階段を下り始める。
その一歩一歩が、石都の深層へ、古代の記録へ、そしてアリス自身の“選ばれなかった可能性”の中心へ近づいていく。
やがて階段の下方から、微かに風のような音が聞こえ始めた。
いや、それは風ではない。
無数の囁き声だった。
言葉にはならないほど薄い、けれど確かに“誰かだったもの”たちの気配。
未来にならなかった未来たちのざわめきが、白い石の底で彼らを待っている。
そしてそのさらに奥で――
“孤独なアリス”が、再び微笑んでいた。




