298 縫界巡礼編 第八話「白影のアリス ― 選ばれなかった未来の入口」part1
半地下へ続く石階段の奥で、その白い影は静かに立っていた。
薄暗い回廊の先、かろうじて差し込む外光と、壁面に埋め込まれた古代灯の死にかけた燐光だけが、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。風はない。足音も止まっている。誰も何も言わないのに、場の空気だけが張り詰めていく。
その顔を見た瞬間、アリスの身体はほんのわずかに強張った。
それは恐怖というより、本来ありえないものを見た時の、生理的な拒絶に近かった。
目の前に立っているのは、アリスだった。
少なくとも、顔立ちだけを見ればそう言うしかない。輪郭、目元、唇の形、髪の流れ方。どれも見慣れた自分自身のものだ。だが、決定的に違うものがある。
その白いアリスは、まるで“感情”というものをどこかへ置き忘れてきたような顔をしていた。
無表情というだけではない。そこには怒りも、疲労も、諦めも、哀しみも、何ひとつ定着していない。ただ、凪いだ水面のような静けさだけがある。静かすぎて、逆にひどく不気味だった。
ディネが最初に息を呑んだ。
「……は?」
その声は驚きよりも、半ば呆然とした響きを帯びていた。
サラは一歩だけ後ずさり、ノームは無言のまま前方へ意識を集中させる。
だがその場で一番静かだったのは、むしろアリス本人だった。
彼女は目を細め、石段の途中で足を止めたまま、その白い影を見据える。
「……なるほど」
声は低く、冷えていた。
「そういう趣向」
ディネが横目でアリスを見る。
「え、これ、趣向って言っていいやつ?」
「悪趣味って意味でね」
アリスはそう返したが、視線は一度も逸らさなかった。
白いアリスは、こちらを見ている。
けれど敵意らしいものは感じられない。むしろそれは、どこか“待っていた”ような眼差しだった。
その静かな対峙の中で、最初に動いたのは相手の方だった。
白いアリスが、ほんの少しだけ首を傾ける。
それは、鏡の向こう側の自分が遅れて動いたような、奇妙な一致を伴っていた。
そして次の瞬間、その口元がかすかに動く。
「……来たのね」
声は小さいのに、妙にはっきりと届いた。
サラがびくりと肩を震わせる。
ディネの顔から、冗談めいた気配が完全に消えた。
アリスだけが、微動だにしない。
「誰」
短く、切るように問う。
白いアリスは一瞬だけ黙り、それから少しだけ目を伏せた。
「名前は、いらないわ」
その声音はアリス自身に似ていたが、どこか違った。温度が薄いのだ。淡々としているのに、感情がないわけではない。ただ、感情の表面がすべて削り落とされ、最後に残った“機能だけの声”のように聞こえる。
「あなたは……」
白いアリスはそこで視線を上げ、まっすぐにこちらを見た。
「まだ、そこにいるのね」
その言葉の意味を、誰もすぐには理解できなかった。
だがアリスだけは、わずかに眉を寄せた。
「何を言ってるの」
「そのままの意味よ」
白いアリスは一歩だけ後ろへ下がる。
その動きに合わせて、半地下回廊の奥に埋め込まれた古代灯が、ひとつ、またひとつと弱々しく点灯していく。薄青い光が石壁を舐め、長い影を伸ばした。
「来なさい」
「……は?」
ディネが思わず素っ頓狂な声を上げる。
「いや、なんでそんな自然に“来なさい”ってなるの!? 怪しさ満点なんだけど!?」
白いアリスはディネの方を見もしなかった。
その視線は終始、アリスだけへ向けられている。
「見せたいものがある」
「見せたいなら、ここへ持ってきなさい」
アリスは冷たく言い返す。
「わざわざついていく義理はないわ」
白いアリスは、ほんの少しだけ目を細めた。
その瞬間だけ、彼女の顔にかすかな感情の影が差したように見えた。諦めに似たものか、あるいは懐かしさに近いものか。
「そう言うと思ってた」
「当然でしょ」
「でも、あなたは来る」
「随分と勝手な断定ね」
「断定じゃない」
白いアリスは、静かに言った。
「知っているだけ」
その言葉と同時に、回廊の空気がわずかに揺れた。
次の瞬間、白いアリスの輪郭が霧のようにほどけ、奥の暗がりへ溶けていく。追おうと思えば追えたかもしれない。だがそれより先に、彼女が立っていた場所の床へ、淡い光の線が一筋だけ浮かび上がった。
それは回廊の奥へ続く、細い誘導路のようだった。
「……消えた」
サラが呆然と呟く。
「いや、消えたっていうか、もう完全に“ついてこい”って言ってるよね」
ディネがげんなりした声を出す。
「露骨すぎて逆に怖いんだけど」
ノームは石壁に手を当て、しばらく感覚を探っていたが、やがて低く言った。
「術式反応はある。だが攻撃性は低い。少なくとも、この誘導線そのものは罠ではなさそうだ」
「“そのものは”ってのが嫌なんだけど」
ディネのツッコミはもっともだった。
アリスはなおも白い影が消えた先を見つめていた。
胸の奥に、説明しづらい違和感が残っている。
顔が似ているからではない。
声が似ているからでもない。
もっと根本的に、**“あれは自分の延長線上にあるものだ”**と、本能のどこかが理解してしまっているのだ。
だからこそ、気持ちが悪い。
そして、だからこそ放っておけない。
「……行くわよ」
アリスがそう言うと、ディネが即座に振り返った。
「えっ、本当に行くの?」
「ここで引き返しても、別の形でぶつけられるだけよ」
「それはまあ、そうかもしれないけど……」
「それに」
アリスは少しだけ視線を伏せた。
「今の、ただの幻でも敵の分身でもない」
ノームが頷く。
「うむ。残響の類ではあるが、普通の残留思念とは質が違う。強く“選別”されておる」
サラが小さく首を傾げる。
「選別……?」
「あり得た無数の可能性の中から、意図的に一つを引き上げて固定している、ということよ」
アリスが説明を引き継ぐ。
「つまり、あれは単なる見せ物じゃない。誰かが、あるいは何かが、“その未来だけを見せたい”と思っている」
「……余計に嫌だなあ」
ディネが眉をひそめる。
「見せたい未来って、大体ろくでもないやつじゃん」
「そこは全面的に同意」
アリスは短く息を吐き、先頭に立って石段を下り始めた。
半地下回廊の中は、地上の石都以上に静かだった。
石壁は滑らかに磨かれ、一定間隔で古代灯が埋め込まれている。だがその多くは死んでおり、ところどころだけが弱々しい青白い光を放っていた。そのせいで、回廊の奥行きは実際よりもずっと長く、ずっと深く見える。
足音が妙に響く。
だが不思議なことに、その反響が時折“遅れる”のだ。
一歩踏み出してから、ほんの一拍遅れてもう一つ足音が返ってくる。まるで、別の誰かが同じ歩幅で少し後ろを歩いているような、嫌な錯覚。
サラが小さく身を縮める。
「……これ、普通じゃないですよね」
「普通ではないわね」
アリスは前を見たまま答えた。
「位相が少し重なってる」
「簡単に言うと?」
ディネが訊く。
「“ここじゃないどこか”の音が、たまに混ざってる」
「簡単に言われても怖いんだけど!?」
アリスはわずかに肩をすくめる。
「安心しなさい。まだ致命的な重なりじゃない」
「“まだ”がつく時点で安心できないよ!」
そんな軽口を交わしながら進んでいると、不意に回廊の右手に大きな開口部が現れた。
その先は、半地下の広間になっているらしい。
アリスが足を止め、そっと中を覗き込む。
そこは確かに、記録保管区画の一部だった。
広間の壁一面に石棚が並び、その多くにはすでに何も残っていない。だが床には割れた記録板や、封印容器の残骸が散乱していた。天井の一部は崩れているものの、構造そのものは驚くほどよく保たれている。
そしてその中央には、ひときわ大きな石卓が据えられていた。
「……調べる?」
サラが小声で訊く。
アリスは少しだけ考えたあと、頷いた。
「手早くね」
四人は広間へ足を踏み入れた。
空気はひんやりとしている。長い年月の埃と、乾いた石の匂いが鼻をつく。
ノームが周囲の地盤を確認し、ディネが入口付近の警戒を引き受ける間に、アリスとサラは石卓の上に残された記録板を調べ始めた。




