297 縫界巡礼編 第七話「石都の門 ― 眠る未来、囁く回廊」part2
正午を少し回った頃、四人はついに石都遺構群の外縁へ到達した。
そこに広がっていたのは、まさしく“眠る都市”だった。
巨大な石造建築が、まるで山脈のように幾重にも連なっている。円柱を備えた回廊。階段状に積み上がる神殿跡。崩れてなお均整の取れた塔の残骸。どれも風化しているのに、なぜか“崩壊しきっていない”。都市全体に、壊れながらもなお維持されている秩序があった。
そして何より異様だったのは、音の少なさだ。
風は吹いている。砂も舞っている。衣擦れの音も、足音もある。
なのに、それらが妙に吸い込まれていく。
都市そのものが音を飲み込んでいるような、不自然な静寂。
「……うわ」
ディネが思わず足を止める。
「これはちょっと、想像以上にやだ」
「うん……」
サラも声をひそめる。
「なんか……誰もいないのに、“いる”感じがします」
「正確には、“誰かがいた記録が、まだ薄く残ってる”のよ」
アリスはそう言って、都市の中央付近を見つめた。
彼女の瞳には、すでにいくつかの流れが見えていた。石柱の影に沿って漂う微かな位相のずれ。地面の下を走る精霊脈の歪み。そして何より、都市の中心へ向かうにつれて濃くなる、観測の糸。
「……中心部に近いほど、縫い目の気配が強い」
ノームが静かに言う。
「ええ」
アリスは短く頷いた。
「でも、正面から行くのはやめましょう」
「え?」
ディネが首を傾げる。
アリスは石都の正面大通りを指さした。かつては都市の中央神殿へ続いていたであろう、広く真っ直ぐな石畳の道だ。
「どう見ても“通ってください”って顔してる」
「……あー」
ディネがすぐに納得した顔になる。
「それ、罠だね」
「ええ。ものすごく親切に“こちらへどうぞ”ってしてる」
サラが苦笑混じりに言った。
「親切そうな時ほど怪しいって、最近ちょっとわかってきました」
「いい傾向ね」
アリスは口元をわずかに上げた。
「右側の外周回廊から入る。都市機構の死角になりやすいし、古代の補修導線が残ってるなら、地下へ繋がる小規模通路もあるはずよ」
「補修導線まで読めるの、やっぱりちょっと怖いなあ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
四人は正面大通りを避け、都市の右外周へ回り込んだ。
そこは中央部ほど壮麗ではないが、そのぶん生活感の名残が濃く残っていた。半ば崩れた住居跡。水路の名残。石のベンチ。壊れた市場の柱列。かつてここで誰かが暮らし、食べ、働き、笑っていた気配が、かすかに石へ染み込んでいる。
だがその中を歩いていると、ふと奇妙な違和感が混じり始めた。
最初に気づいたのは、サラだった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
ディネが振り返る。
サラは少し戸惑ったように、左手の崩れた広場の方を見ていた。
「いま……誰か、いませんでしたか?」
全員の動きが止まる。
アリスがすぐに視線を向ける。
そこには誰もいない。
ただ、壊れた噴水の残骸と、その周囲へ積もった白い砂があるだけだ。
「どこに?」
「噴水の向こうです。一瞬だけ……白い服の、女の人みたいな……」
アリスは目を細めた。
「残響かもしれない」
「敵?」
「まだわからない」
そう言いながら、彼女はゆっくりと広場へ近づく。
空気は静かだ。魔力の流れも急変していない。罠が発動する気配もない。
だが、“何かを見た”という痕跡だけが残っている。
アリスは噴水の縁に手をかざし、軽く観測術を走らせた。
すると、淡い紫銀の光が石の表面を撫で、その奥にわずかな残像が浮かび上がる。
白い裾。
長い髪。
そして、こちらへ背を向けて歩き去る細い人影。
だがその姿が完全に形を取るより先に、ふっと霧のように薄れてしまった。
「……やっぱりいたわね」
「何だったの?」
ディネが問う。
アリスは少しだけ考えるようにしてから答えた。
「普通の残響じゃない。記録として弱すぎるのに、妙に輪郭がある」
「つまり?」
「……“誘導”に近い」
その言葉に、ノームの眉がわずかに寄る。
「見せておるのか」
「たぶん」
アリスは広場の先を見つめる。
白い影が歩いていった方向は、ちょうど外周回廊のさらに奥――石都の中でも比較的保存状態の良い、半地下構造の区域へ続いていた。
まるで、「こっちへ来い」とでも言うように。
「うわあ、露骨」
ディネが顔をしかめる。
「でも、無視する?」
サラが不安そうに訊く。
アリスは少しだけ笑った。
その笑みは、いつもの皮肉っぽさと、ほんの少しの好戦性が混じったものだった。
「いいえ」
彼女は静かに答える。
「せっかく“見せて”くれるって言うなら、見に行ってあげましょう」
そうして四人は、白い影が消えた先――半地下回廊の入口へ向かって進み始めた。
そこは都市の外周部に埋もれるように口を開けた、古い石のアーチだった。階段は地中へ向かってゆるやかに下り、入口の上部には風化しかけた古代文字が刻まれている。
アリスがそれを指でなぞり、眉をひそめた。
「……“記録保管区画”」
サラが目を見開く。
「記録……?」
「ええ。都市の行政記録とか、術式管理台帳とか、そういう類を保管する区画ね」
ディネが露骨に嫌そうな顔をする。
「うわ、絶対ろくでもない情報いっぱいある場所じゃん」
「むしろ今は、その“ろくでもない情報”が欲しいのよ」
ノームは階段の奥を見つめながら低く言った。
「だが、気をつけろ。ここから下は、空気が違う」
その言葉の意味は、すぐにわかった。
一歩、階段へ足を踏み入れた瞬間だった。
空気が変わる。
温度が下がったわけではない。湿度が変わったわけでもない。
もっと直接的に、“世界の見え方”そのものが、ほんのわずかにずれた。
サラが息を呑む。
「……っ」
ディネもすぐに顔をしかめた。
「なにこれ」
アリスは何も言わず、ただ前を見つめていた。
階段の先、薄暗い半地下回廊の奥に、誰かが立っている。
白い服。
長い髪。
細い背中。
さっきサラが見たのと同じ、人影だ。
その姿は今度こそはっきり見えていた。
だが次の瞬間、その白い影がゆっくりとこちらを振り返る。
そしてアリスの心臓が、ほんの一瞬だけ止まった。
なぜならその顔は――
アリス自身のものだった。




