296 縫界巡礼編 第七話「石都の門 ― 眠る未来、囁く回廊」part1
翌朝、空は驚くほど澄んでいた。
昨夜の冷え込みをそのまま抱えたような青白い空気が、朝の光の中で透明にきらめいている。草の先には細かな露が残り、野営地の周囲を囲む低木の葉には、朝日を受けて淡く金色の縁が浮かんでいた。あれほど不穏な話をした夜の翌朝だというのに、世界の見た目だけは何事もなかったかのように穏やかだった。
そういう平穏ほど、時々ひどく皮肉に思えることがある。
アリスは野営地の端に立ち、まだ薄く白い息を吐きながら、遠くの地平線を眺めていた。彼女の視線の先には、ゆるやかな丘陵の向こうにうっすらと灰色の影が連なっている。それが今日の目的地――石都遺構群の外縁だった。
朝食を終えたディネが、荷を肩に引っ掛けながら隣へやってくる。
「眠れた?」
「それなりに」
アリスは振り返らずに答えた。
「あなたは?」
「私はいつでもどこでも寝れるタイプだから」
「便利ね」
「でしょ?」
ディネはそう言って笑ったが、その目はアリスの横顔を少しだけ注意深く見ていた。昨夜の焚き火のあと、アリスは見た目ほど深く眠っていなかった。寝息は静かでも、意識の底がずっと張っているような気配があったのだろう。
それに気づいていないふりをしてくれるあたり、ディネは案外気が利く。
「……また、変な夢でも見た?」
何気ない調子を装って訊かれたその言葉に、アリスはわずかに眉を上げた。
「どうしてそう思うのよ」
「勘」
「雑ね」
「でも当たることあるでしょ」
アリスは少しだけ沈黙した。
夢、という表現が正しいかはわからない。昨夜、浅い眠りの底で彼女が見ていたのは、夢というより**“見せられた残響”**に近かった。
誰かが歩く石の回廊。
閉じた扉。
扉の向こうで、何かが待っている気配。
そして、聞き覚えのないはずなのに、妙に胸の奥へ引っかかる声。
――選ばれなかった道は、捨てられたわけではない。
目が覚めた時には、その続きは霧のように散っていた。だが不快感だけは妙に鮮明に残っている。
「……大したことじゃないわ」
アリスは結局、そうだけ答えた。
ディネはそれ以上追及しなかった。
「そっか」
軽く頷くだけに留めて、彼女は視線を遠くの灰色へ向ける。
「にしても、あれが石都かあ。遠目でも、なんかもう近づきたくない雰囲気あるね」
その言葉は正しかった。
丘陵の向こうに見える石都遺構群は、ただの廃墟とは違う“静かすぎる圧”を持っていた。建物の輪郭が遠目にも異様に整いすぎていて、崩れているのにどこか完成された印象がある。まるで、都市そのものがまだ“役割”を持ったまま眠っているような、不自然な秩序が残っているのだ。
そこへサラとノームも合流してきた。
「準備、できました」
サラが小さく報告する。
ノームは短く頷き、遠くの遺構群を見やった。
「空気が違うな」
「ええ」
アリスも同意する。
「まだ距離があるのに、精霊流が引っかかってる」
サラがそっと目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませるようにして言った。
「……水の流れも、変です。普通なら朝って、もっと地面の下から静かに上がってくる感じがあるのに……あそこだけ、途中で何かに曲げられてるみたいな……」
「私も同じ感覚がある」
ノームが低く唸る。
「自然に淀んでおるのではない。意図的に、流れを“使える形”へ変えられておる」
ディネが肩を竦めた。
「つまり、行く前からもう面倒ってことだね」
「ええ。かなり面倒」
アリスはため息交じりにそう言うと、荷を背負い直した。
「行きましょう。昼前には外縁へ着けるはずよ」
四人は朝の野営地を後にし、石都遺構群へ向けて歩き出した。
道は途中から徐々に荒れ始めた。
最初はただ草の背丈が高くなる程度だったが、やがて地面には人工的な石畳の名残が混じり始める。半ば土に埋もれた古い舗装。ところどころに立つ崩れた道標。風化しきって読めない碑文。かつてはここにも、人や荷車や旅商人が行き交っていたのだろう。
だが今は、鳥の声すら少ない。
静かすぎる。
しかもその静けさは、自然の穏やかさではなく、何かに“聞かれている”ような静けさだった。
「……ねえ」
しばらくして、ディネが小声で言った。
「さっきからさ」
「何」
「道の脇の石像、こっち見てない?」
サラがびくっと肩を震わせる。
「や、やめてください……」
アリスは視線だけで周囲を確認した。
確かに、古い道沿いにはところどころ石像の残骸が立っていた。半身だけ崩れた人型像。翼を持つ獣のような意匠。何かを捧げ持つ巫女像。どれも顔の一部が欠けていたり、首から上だけが風化していたりするのだが――
「……見てるわね」
「えっ!?」
サラが本気で青ざめる。
ディネも一瞬だけ固まったあと、半眼になった。
「いや、冗談で言ったんだけど?」
「冗談じゃないわよ」
アリスはあっさり言う。
「視線追従型の観測像。古代文明の都市防衛機構の一種ね」
「ちょっと待って、そんなさらっと言うこと?」
「もう動いてないから大丈夫」
「そういう問題かなあ!?」
アリスは少しだけ肩をすくめる。
「ただし、“完全に死んでる”わけじゃない」
「やっぱり大丈夫じゃないじゃん!」
「観測機能の残滓だけなら、こっちの人数と魔力反応を拾ってる程度よ」
サラが不安そうに像を見上げる。
「……つまり、誰かに“来ました”って伝わってる可能性は……」
「ある」
「即答……!」
だが、もともと隠密行動が成立するような状況ではない。昨夜の時点で、向こうはすでにこちらの接近を想定しているはずだ。
むしろ問題は、どこからが“見せるための異常”で、どこからが“本当に隠している部分”かを見誤らないことだった。




