第八章 藤波家の秘密
「鷺坂さん、綺麗なオフィスですね。警視庁もこれくらい綺麗だったら、僕も気持ちよく出勤できますよ。それに、このコーヒー、おいしいです」
相変わらず清水はうるさいな、と思いながら、鷺坂もコーヒーを口にした。
「うまい!」思わず声が出た。
「でしょ。やっぱり大手の会社は違いますね」清水が笑った。
そこへ、スーツ姿の男性が入ってきた。
「お待たせしました。社長の水本です。そして、こちらが妻の明子です」
「警視庁捜査一課の鷺坂です」鷺坂が名刺を差し出す。
「清水です」清水も名刺を渡した。
「どうぞ」
水本の合図で、四人は応接室のソファに腰を下ろした。
「早速ですが、先ほどお電話でもお話ししましたように……」
鷺坂は一度言葉を選んだ。
「先日、奥多摩で発見された白骨化した遺体の一部が、二十年前に行方不明になった、お嬢様の水本華さんであることが確認されました」
「あ……」
母親の明子が、両手で顔を覆った。
「半ば、あきらめていました……。それでも、この二十年間、どこかで生きているのではないかと……。そう思うと、どうしてもあきらめきれなくて……」
明子の声が震える。
「そうですか……華でしたか……」水本は肩を落とした。
そして、隣で泣き崩れる妻の肩を、そっと抱きしめた。
鷺坂は、こういう場面が一番苦手だった。
何を言えばいいのか分からない。
無責任な慰めの言葉を口にすることもできない。
結局、黙って二人の悲しみが少し落ち着くのを待つしかなかった。
そんな鷺坂に代わるように、清水が今後の手続きについて淡々と説明した。
「それでは、必要な書類が揃いましたら、警視庁へお越しいただき、今後の手続きを進めさせていただきます。本日はこれで失礼いたします」
二人は立ち上がり、応接室を後にした。
その瞬間――。
部屋の中から、廊下いっぱいに響き渡る泣き声が聞こえてきた。
鷺坂は足を止めた。
一瞬だけ振り返り、静かに頭を下げると、そのまま歩き出した。
ビルを出ると、鷺坂は何気なく建物を見上げた。
そこには、見慣れた企業名が掲げられている。サーナルリゾートグループ。
「……サーナルリゾートグループか」鷺坂は小さく呟いた。
息子を幼稚園へ迎えに行くと言って家を出た瑠璃だったが、実はまだ迎えの時間には早かった。
瑠璃は車を停められる喫茶店に入り、少しでも気持ちを落ち着けたかった。
幸い、平日の店内は客も少なく、静かだった。
瑠璃は手帳を開き、一枚の写真を取り出した。
そこには、家族三人が並んでピースをし、笑っている姿が写っている。
写真を見つめているうちに、瑠璃の目から涙がこぼれた。
「どうして……こんな人生になってしまったんだろう」
悔しさが込み上げてくる。
――私は、どこでレールを乗り換えてしまったのだろう。
瑠璃の実家は、奥多摩で小さなキャンプ場を営んでいた。
家族と昔からの知り合いだけで、こぢんまりと経営していたが、豊かな自然や渓流、魚釣りや蝉取りを楽しめる環境は、都会の喧騒を離れて過ごしたい人たちに好評だった。
毎年、決まった時期に訪れる家族もいた。その中の一組が、水本一家だった。
当時の水本家は、まだ小さな会社を経営していた。
家族で楽しめ、リゾート気分も味わえる場所の開発を手がけていた水本社長にとって、そのキャンプ場は喉から手が出るほど欲しい土地だった。
毎年、子どもたちを遊びに連れてくることを口実に、瑠璃の両親と親しくなり、いずれは買い取りたいと考えていたのだ。
しかし、そんな思惑を瑠璃も両親も知るはずもない、家族ぐるみの付き合いが、何年も続いていた。
ところが、ある頃から瑠璃は、水本家の娘・華を苦手に感じるようになった。
華が成長するにつれ、自分が裕福な家庭の子どもであることを鼻にかけるようになったからだ。
瑠璃をまるで召使いのように扱い、自分の両親にまで命令する。
それを華の両親も、特にたしなめることはなかった。
兄の聡まで次第に態度が横柄になり、母親をまるで使用人のように扱うようになった、その頃から、家族ぐるみだった付き合いにも、少しずつ亀裂が入っていった。
そして、あの日――。
水本一家が宿泊する二日前、奥多摩を激しい雨が襲った。
沢は増水し、危険な状態になっていて瑠璃の父親は、立入禁止の措置を取った。それでも華たちは、滝を見たいと勝手に沢へ向かった。
その姿を、瑠璃は見ていた。
止めることもできた。
けれど――止めなかった。
「……あいつらなんか、川に流されてしまえばいい」
瑠璃は、そう吐き捨てた。
しばらくして、泥だらけになった聡が、泣きながら戻ってきた。
「華が……川に落ちた……。どこにもいない……」
キャンプ場は、一気に騒然となった。
警察が駆けつけ、やがてマスコミまで押し寄せた。
当初は、子どもたちが立入禁止区域へ入り、事故に遭ったという見方だった。
しかし、捜索が長引くにつれ、今度はキャンプ場の安全管理に問題があったのではないかと、瑠璃の両親にも責任が向けられるようになった。
結局、キャンプ場は閉鎖、多額の賠償金を背負うことになった。
その頃、水本の会社は中堅リゾート開発会社として注目され始めていた。
そのため、この事故は格好のニュースとなり、マスコミにも大きく取り上げられた。
賠償金を支払うため、瑠璃の家族はキャンプ場を手放し、一家はひっそりと、瑠璃の母親の実家がある仙台へ移った。
父親は心労が重なり、ほどなくして亡くなった、そこで母親は実家に身を寄せた。
幸い、母親の実家は地元でも知られた資産家だった。
独身で家を継いでいた瑠璃の叔母は、姉とその娘を快く迎え入れ、二人の面倒を見てくれた。
やがて母親も亡くなり、跡を継ぐ者がいなくなった叔母は、瑠璃を養女に迎えた。こうして、瑠璃は「佐藤瑠璃」となった。
――幸子が、苗字と名前の画数を見て「?」と感じたのは、こうした事情があったからだった。
もちろん、そんな過去を幸子が知るはずもない。
そして瑠璃自身も、この過去を誰にも語るつもりはなかった。
喫茶店のテーブルの上で、瑠璃はもう一度、写真を見つめた。
笑っている両親の顔・・でもこの写真をみるたびに華を思いだす。あの時止めていれば、今でもお父さんやおかあさんといっしょに笑っていられたのかなと
さらに涙があふれてしまった。
どのくらいいたのだろう、時計に目をうつした。
もうじきお迎えの時間だ、こんな目でいったら、息子が心配すると、あわてて
目をふき、カバンからコンパクトをだし、顔を整えた。
色の変わってしまったクリームソーダをのみ終えると、瑠璃は喫茶店を後にした、車のエンジンをかけ幼稚園へ向かった。
そのころ若葉は、自宅で書類の整理をしていた。
離婚して以来、会計や経理は人に任せず、すべて自分で行っている。
澤井戸から聞いた、サーナルリゾートの息子の話が頭から離れない。
そんなことを考えながら、業者への支払いなどを確認するため、銀行の取引履歴を開いた。
「……?」
見慣れない入金が目に留まった。
五百万円。
若葉は慌てて振込人の欄を確認した。
「ワカムラヤ」
その文字を見た瞬間、若葉の顔から血の気が引いた。
まったく予想していなかった名前だった。
震える手でスマホを取り出す。
数年間、一度もかけたことのない元夫の番号を表示した。
「たぶん、電話番号も変わっているわ……」
そう思いながらも、指は通話ボタンを押していた。
呼び出し音が鳴る。
やはり出ない。
「そうよね……」
切ろうとした、そのときだった。
「……若葉か?」
どこか懐かしい声が聞こえた。
若葉の目に、思わず涙が浮かんだ。
「……ええ」
声が詰まる。
「よく、この電話番号が分かったな」
「あなたこそ……まだ、この番号を使っていたの?」
数年の空白を埋めるには、あまりにも味気ない会話だった。
「元気だった?」
「ああ……いろいろあったけど、まだ生きているよ」
「まあ、大げさね」若葉は、ほんの少しだけ笑った。
「あなたに聞きたいことがあるの。『若村屋』は、あなたの実家よね?」
「ああ」
「五百万円が振り込まれているの。でも、どうして……?」
「ああ……それか」
夫の声が少し低くなった。
「実は、実家の呉服屋を廃業したんだ」
「え……」若葉は言葉を失った。
「驚くのも無理はない。近い取引先にしか事前に伝えていなくてな。若葉のところにも連絡しようと思っていたんだが……なかなかできなかった」
その声は、昔と変わらず穏やかだった。
京都生まれの夫は、東京に婿入りしてから、京都弁が出ないようにずいぶん気を遣っていた。そんなことまで、若葉はふと思い出した。
「その五百万円は、藤波家に返すお金だ」
「……私に?」
「あのとき、実家のことで藤波家のお金を無断で使っただろう。ずっと後悔していた。いつか必ず返そうと思っていたんだ」
「あなた……そんなこと、一言も言ってくれなかったじゃない」思わず責めるような口調になった。
「ああ。俺も、あのときは馬鹿だった。婿入りした身で、実家のために金を借りるなんて……無意味なプライドだったよ」
「ごめんなさい。あなたを責めるつもりじゃ……」若葉は言葉を濁した。
「でも、五百万円なんて大金……。あなたは大丈夫なの? 今、何をしているの?」
「お前は、昔から顔に似合わずせっかちだな」夫が少し笑った。
「今は神戸の小さな会社で経理をしながら、母親の介護をしている」
「あんなに元気だったお母さまが……?」
「ああ」声から、夫の苦労が伝わってきた。
「老人ホームの投資話があってな。実家が、まんまと引っかかってしまったんだ。借金が膨らんで、俺を頼ってきた」
「……」若葉は言葉を失った。
「あのときのショックで、母は倒れてしまった。生きる気力もなくしてな。今は施設で世話になっている」
「施設って……投資した老人ホーム?」
「まさか」夫が苦笑した。
「会社の近くの特別養護老人ホームだよ」
「あなた……」若葉は何と言えばいいのか分からなかった。
自分のことばかり考えて、夫を責めていたあの頃。
その裏で、夫にも、そして夫の家族にも、こんな事情があったのだ。
「そんな大変なときに……このお金、受け取れないわ」
「いいんだよ」夫の声は穏やかだった。
「藤波家には、本当によくしてもらった。それなのに、俺は砂をかけるようなことをしてしまった。ずっと心に引っかかっていたんだ」
「……」
「これで、やっと肩の荷を下ろせる。これからの人生を生きていけるよ。今まで、ありがとう」
「待って!」若葉は思わず声を上げた。
「そんなこと言われたら……私はどうしたらいいの?」
「私のほうが……あなたを……」
「言うな!」夫の声が突然、強くなった。
若葉は息をのんだ。
「あなた……知っているの?」
「…………すぎたことだ、私は忘れた」
しばらく沈黙が続いた。
そして――電話が切れた。
若葉は、スマホを握ったまま動けなかった。
胸の奥に、忘れたはずの言葉が蘇ってくる。
あのとき、幸子に言われた言葉。
――「ただ……一つだけ、若葉さん自身が生涯をかけて背負うことになる荷物があるようです」
若葉は、心の中でガラスが割れる音を聞いた。
その向こうに見えたのは、忘れたはずの過去だった。




