第七章 消せない過去
美しく咲く花にも、いつか終わりがくる。どんなに大きく、華やかに咲いた大輪の花も、やがて一枚、また一枚と花びらを落としていく。
それは、花が枯れていくということだけではない。
人の人生も、きっと同じなのだろう。
若いころに見えていた景色が少しずつ遠くなり、出会った人との別れが増えていく。
握りしめていたものを、ひとつ、またひとつと手放していく。
そして最後には、花びらをすべて落とした茎だけが残る。
けれど、それで終わりなのだろうか。
風に吹かれ、茎が静かに揺れるように、人の人生もまた、これまで歩いてきた道の先で、次の場所へ運ばれていくのかもしれない。
花びらがどこへ舞い落ちるのか、風に聞いても答えは返ってこない。
いよいよおばちゃん探偵団クライマックスに向かっいきます
「若葉先生、澤井戸様がお見えになりました」
「ありがとう。お座敷へお通ししてください」
若葉が答える。
今日は生け花の稽古の日だ。
澤井戸は昔から若葉の個別稽古に通っている。すでに師範の免許を持っているが、さらに新しい生け花のスタイルを学びたいと、若葉のもとへ通ってくるのだ。
「若葉さん、今日はお手柔らかにね」
澤井戸がニコリと笑う。
「澤井戸先生、こちらこそ、ご期待に添えられるかドキドキですわ」
若葉も微笑んだ。
ふと、若葉の目が澤井戸の胸元に留まった。
「先生、素敵なブローチですね」
「まあ、ありがとう。実は先日、伊勢志摩へ行きましたの。その時に記念にと、主人に買っていただいたの。何年ぶりかしら……主人からのプレゼントなんて」
澤井戸は、愛おしそうにブローチに触れた。
「素敵です。とてもお似合いですわ。伊勢志摩は素敵なところですものね」
「そうなの。実はね、知り合いから、ここに老人ホームができるから、投資したらどうかと勧められましてね。それで主人と、旅行がてら見学に行ってきましたの」
「まあ、そうでしたの」
若葉は少し驚いた顔をして、それから軽く首を振った。
「先生は、まだまだ老人ホームなんてお似合いになりませんわ」
「まあ、すぐにというわけではございませんのよ。将来のために、投資のつもりでと思いましてね」
「そうですね。将来のため、ですものね」
若葉は微笑んだ。
「さあ、では、さっそくお稽古を始めましょうか」
二人は花器の前に向き直った。
「澤井戸先生、プレゼントの効果かしら。今日は乙女が舞い降りたかのような、初々しさが現れていますね」
そう言いながら、若葉は澤井戸の生け花を少し手直しする。
「本当? うれしいわ。でも、若葉さんに手直ししていただいたら、弾け飛んでまとまりに欠けていたところが、すっきりまとまりましたわ」
澤井戸はうれしそうに微笑んだ。
「お稽古をつけていただき、ありがとうございました。若葉さんとお稽古の後に一緒にいただこうと思って、冷やし菓子をお土産に持ってきましたの。先ほど、お弟子さんにお渡ししましたわ」
「まあ、それはありがとうございます。さっそくいただきましょう」
若葉は長男の嫁の瑠璃に、お茶と冷やし菓子を持ってくるよう伝えた。
二人は座り直し、生け花の出来栄えなどを話しながら、しばらく雑談をしていた。やがて瑠璃がお茶とお菓子を盆に載せ、座敷に入ってきた。
テーブルの上に湯呑みや菓子を並べ始めたところで、澤井戸がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば若葉さん。この間、ニュースで奥多摩のキャンプ場から子どもの白骨遺体が見つかったと流れていましたわね。驚きましたわ」
「そうですわね。本当にびっくりしましたわ」
若葉がお茶を澤井戸に差し出そうと、瑠璃から湯呑みを受け取ろうとした、その時だった。
瑠璃の手が、ほんのわずかに震えた。
若葉は怪訝そうに瑠璃の顔を見る。
「どうかしたの?」
「いえ……何でもないです。なんだか、ちょっと緊張したのかしら」
瑠璃は慌てて笑い、取り繕った。
「瑠璃さんも緊張することがあるのね」
若葉はそう言って、微笑んだ。
「瑠璃さんもご一緒にいかが?」
澤井戸が声をかけると、瑠璃は少し慌てたように首を振った。
「せっかくですが、これから息子を迎えに行かないといけないので……」
「まあ、残念ね」
澤井戸はそう言ってから、何気ない調子で尋ねた。
「そういえば瑠璃さん、サーナルリゾートってご存じ?」
「サーナルリゾート……? ええ、まあ。リゾートホテルなどを運営している会社ですよね」
瑠璃は一瞬、言葉に詰まった。
「この間、伊勢志摩へ行ったときに、サーナルリゾートの社長さんの息子さんにお会いしたんですの。その方が、若葉さんの息子さんの伸一さんとは以前から交流があったとおっしゃっていて……。瑠璃さんもご存じなのかと思って」
「……いいえ。主人の知り合いまでは……」
瑠璃の表情が、わずかに強張った。
「そう?」
澤井戸は首をかしげた。
その時だった。
「……」
若葉の顔から、すっと血の気が引いていた。
「若葉さん、どうなさったの?」
澤井戸が心配そうに声をかける。
「いえ……何でもありません。大丈夫ですわ」
若葉はそう答えたものの、お茶を飲もうと湯呑みを持つ手が、かすかに震えている。
「本当に?」
「ええ。大丈夫です。それより、このお菓子、本当においしいですね」
若葉は笑ってみせた。
瑠璃はそんな二人のやり取りを見ていたが、
「それでは、私はこれで……」と、急ぐように座敷を後にした。
襖が閉まる。
座敷には、若葉と澤井戸の二人だけが残った。
澤井戸は、改めて若葉の顔を見つめた。
「若葉さん……やっぱり、お顔の色がよくありませんわ」
「澤井戸先生、ご心配なさらないで。大丈夫ですから」若葉は笑った。
そして、何事もなかったように菓子を一つ手に取る。
「ほら、本当においしいですわ」
「そう……」
澤井戸は、それ以上尋ねなかった。
若葉は笑顔で取り繕っていたが、その後、澤井戸と何を話したのか、ほとんど覚えていないほど動揺していた。
澤井戸が帰ったあとも、若葉はしばらく一人、座敷に座っていた。
目の前には、先ほどまで生け花の稽古に使っていた剣山がある。
若葉は、じっとそれを見つめた。
胸の奥から、忘れたはずの過去が、ゆっくりと蘇ってくるような気がした。
――消したくても、消せない過去。
その記憶に触れることが怖かった。
けれど、それと同時に、別のことが若葉の心に引っかかっていた。
瑠璃の様子だ。
あのとき、瑠璃は明らかに動揺していた。
「瑠璃さん……あきらかに様子が変だったわ」
若葉は小さく呟いた。
何があったのか、瑠璃に確かめたい。
そう思う気持ちはあった。
しかし――。
自分にも、誰にも知られたくない過去がある。
そのことを思うと、瑠璃を問い詰めることもためらわれた。
若葉は深いため息をついた。
そして再び、目の前の剣山に視線を落とした。
忘れたかった過去と、今、目の前にある疑念。
二つが重なり合うように、若葉の胸を締めつけていた。




