第二章華道家元 藤波若葉との出会い
このシリーズの事件のきっかけにあたる章です
銀座にあるコノハの店は、とても居心地のよい店として評判だった。
老舗の宝石商というと、格式が高く、一般の人にはなかなか近づきにくい、高嶺の花のような店を思い浮かべるかもしれない。だが、この店には不思議とそんな敷居の高さがなかった。創業以来、店が大切にしてきたのは「信用第一」。そして、決してお客様を値踏みしないこと。どんな服装で訪れようと、どんな品を探していようと、客を見た目や財布の中身で判断しない。それが、この店が長い年月をかけて守ってきた姿勢だった。
店内には海外の名のある家具が置かれている。どれも長い年月を経たものだが、スタッフは毎日丁寧に手入れをしている。古い家具には、年月を重ねたからこその味わいがある。しかし、傷んだところを「味わい」で済ませることはしない。お客様が怪我をしてはいけないからだ。スタッフは毎日、家具の傷や破損がないかを確認する。少しでも気になる箇所があれば、専門の家具職人に修理を依頼する。そうやって家具たちは、何十年もの間、この店を訪れる人々を静かに見守ってきた。
応接間の奥には、かつてアール・ヌーヴォー様式のステンドガラスがあった。
陽の光を受けると、色とりどりのガラスが揺らめき、部屋の中に静かな時代の色を染み込ませていたという。しかし、そのステンドガラスは東京大空襲で粉々に砕け散った。当時まだ幼かったコノハの父は、焼け跡に散らばったガラスの破片を一つひとつ拾い集めた。美しかったものが、一夜にして消えてしまう。その光景を見て、父は子ども心に「はかなさ」というものを感じたという。だからこそ、先代のあとを継いでもその思いを忘れることはなかった。
宝石もまた、永遠に同じ姿で輝き続けるものではない。だからこそ、人が人生の中で出会う一瞬の輝きを、大切にしてほしい。宝石という小さな光に、人生の喜びを感じてもらいたい。それが、コノハの父が長い年月をかけて守ってきた商いの心だった。高価な宝石を扱う店だからこそ、誰に対しても正直に向き合う。分け隔てなく、一人ひとりのお客様を大切にする。
その積み重ねが、「信用第一」という言葉を、この店の看板以上のものにしていた。だから銀座のこの店は、老舗の宝石商でありながら、どこか人の温もりがあり、訪れた人が不思議と肩の力を抜ける店として、長く愛されていた。
幸子は、約束の時間より少し早めに到着した。いつものことだった。コノハは幸子を応接間へ案内すると、あとは任せている。幸子には、相談を始める前に必ず行う独特の儀式があった。まず、持参した容器に精製水を入れる。花屋で買ったいつもの百合を水切りし、持参した一輪挿しに生ける。そしてテーブルにクロスをかけ、箱からタロットカードを取り出した。カードを一枚ずつ手のひらになじませるように、テーブルの上を軽く滑らせる。その日の温度や湿度によって、カードと手との間に伝わってくる感覚が微妙に違う。それを確かめるように、幸子は静かにカードに触れていた。そして集中した。
やがて、応接間の扉が静かに開いた。
「幸子、お客様がお見えになったわ」コノハの声に、
「通してください」と幸子が答える。
その瞬間、いつもの幸子とは少し違っていた。終活相談所で見せる、気さくなおばちゃんの顔ではない。
タロットカードに向かう幸子は、静かで、どこか凛としている。コノハは、そんな幸子も好きだった。いつもの幸子もいい。でも、こちらのほうが、ずっと幸子らしい。「はじめまして。藤波若葉です。こんにちは」
若葉は、薄いグリーンの着物をまとっていた。春の訪れを祝う気持ちを思わせる爽やかな色合いなのに、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。
「こんにちは。有馬幸子です。どうぞ、お掛けになってください」
若葉は美しい身のこなしで椅子に腰を下ろした。その何気ない所作からも、幸子には育ちのよさが感じられた。
そのとき、応接間の扉を軽く叩く音がした。
コノハが紅茶を運んできた。
いつものように邪魔にならないようサイドテーブルにそっと置くと、微笑んで、「どうぞ」と一言だけ告げ、部屋を出ていった。
幸子は紅茶に目を向けた。「今日は日本の紅茶ですの。紅茶も緑茶も、もとは同じ茶葉なのに、製法が違うだけでまったく別の飲み物になる。不思議ですよね」そう言って、幸子は微笑んだ。「日本の紅茶というと、『日本で紅茶が採れるの?』って驚かれる方も多いんです。でも、こんなに身近なお茶なのに、案外知られていないんですよね」
幸子が紅茶を一口飲む。「どうぞ」若葉もカップに口をつけた。
「おいしい……。渋みがないわ」思わず若葉が声を漏らす。
幸子は小さく笑い、「でしょう?」と目で答えた。
そして、テーブルの上のタロットカードへ視線を戻した。
「では、はじめましょうか」幸子の目が、きらりと光った。
「藤波若葉さんの生年月日……」
幸子はノートに必要な情報を書き込んでいった。
占いの世界でも、今ではアプリなどを使ってデータを計算し、そこから全体の運勢を読み解いていく方法が増えている。けれど、幸子は昔ながらの筆記派だった。時間はかかる。それでも、ペンを走らせながら考える時間が、幸子にはちょうどよかった。数字を眺め、書き留め、時には手を止める。
そのわずかな時間が、幸子の想像を膨らませてくれるのだ。
「では、若葉さん。今日は、どのようなことをお知りになりたいですか?」
若葉は少し目を伏せた。
しばらく何も言わず、やがて何かを決意したように顔を上げた。
「私は藤波流という華道の流派の家元で、息子夫婦と孫と暮らしています」
幸子は黙って耳を傾けた。
「主人とは数年前に離婚しました。今は息子と一緒に、弟子の育成にあたっています」
「息子さんも華道を?」
「ええ。後継者ですから、直接指導することもあります。ただ、息子は新しいことにも積極的で、最近はオンラインレッスンなども行っています」
若葉はそこで一度言葉を切った。
「そこで知り合ったお嬢さんと結婚しまして、今では子どもが一人おります」
「そうでしたか」幸子が相槌を打つ。
若葉は膝の上で手を組み直した。
「今日、ご相談したいのは……息子の嫁のことですの」
「お嫁さんのこと?」
「ええ」
若葉は少し迷うように言葉を選んだ。
「明るくて、はきはきしていて、さっぱりした性格の女性なんです。人付き合いも上手ですし、結婚したばかりの頃は、私もとても好感を持っていました」
「では、何か気になることが?」
「それが……」
若葉は一瞬、言葉を探した。
「時々、とても冷たい表情をすることがあるんです。人を寄せつけないというか……」幸子は何も言わず、若葉を見つめた。
「もちろん、誰にでもそういう瞬間はあると思います。でも、最近は、その表情を目にすることが増えてきました」若葉は小さく息を吐いた。
「結婚するときにも、ほんの少しだけ違和感を覚えたことがあったんです。でも、私の考えすぎだと思っていました」
「今は、そのときの違和感を思い出すことが多くなった?」
幸子の問いに、若葉は静かにうなずいた。
「ええ……。最近になって、あのとき感じた違和感が、また強くなってきたような気がするのです」
「そうですか・・・」とタロットカードの束に手をのばし、配り始めた
ふと手をとめて、カードをみた
「月・・・・」独りつぶやく
もう一枚
「運命の車輪・・・」か
もう一枚
「愚者」
そろいすぎ・・・そしてこれを導くものがいる・・・
幸子はもう少し若葉の話を聞くことにした。
「若葉さんもし差し支えなければ、ご主人と離婚をしたいきさつをお聞きしても・・」
「離婚を・・・・」若葉の顔が曇った
「失礼しました・・・無理には結構です」
「有馬さん離婚のことは息子に影響を及ぼしていますの?」
「いえいえお気になさらず・・ごめんなさいね」沈黙し時が流れた
幸子は失敗したかなと反省「あせりすぎた・・・」と話を変えようとしたとき
若葉が口を開いた
「主人とはお見合いで結婚しました。婿養子です。私の口から申し上げるのも憚られるますが藤波流というと、華道会ではある程度の家柄です。結婚となるとそれ相応の家柄でなければと、当時は自分の気持ちだけでは結婚する自由はございませんでした。どうしても親の決めた方と結婚する・・今の人からすると馬鹿馬鹿しい話ですよね。」と微笑だ。
「家柄にふさわしい方との結婚は親なら誰でも思いますわ、それが、家を守ることであり、後継者を育てる事だと・・・若葉さんのお家柄でしたら誰でも思うことですわ」幸子は若葉をみつめた。若葉の顔たちは整えっているがそれ以上に先祖代々伝わる伝統を守ろうとする覚悟が見える。
若葉はさらに
「主人の実家は京都の老舗の呉服屋でした、我が家の着物はいつもそちらへお願いしていた為、馴染みもございまして、次男ということでお見合いし結婚しましたの」
「まー京都の呉服屋」やはり一般庶民とは話のスケールが違うわ・・・と心の声が「こら!集中」と幸子
「ええ、主人は会の行事、ご接待、経理とすべて完璧で私たち家族も本当に良い婿様だと褒めていました。お惚気にお感じになるかもですが、本当に幸せでした」
「幸せでした・・・・?」
「はい、実は今だに信じられないないのですが、ある日主人が浮気をしているのではという話をお弟子さんから聞き、主人を問い詰めてしまい、それからぎくしゃくしてしまったのです。更に、その時一人息子が、家を継ぎたくないとけんかの毎日で、イライラしてしまい、主人も私が嫌なの、私がなにをしたの?と八つ当たりみたいに自分を抑える事ができなかったのでつい」若葉の声がつまった。少し興奮したようだ
幸子はゆっくりと緑茶をいれた
「どうぞ」さしだした。
「お茶?」若葉が幸子をみつめた
「お茶です・・・紅茶もお茶ですよ」とニコリとした。
若葉ばお茶で喉を潤すと落ち着いたようだ
「少し興奮してしまいましたわ・・お恥ずかしい」と若葉が俯いた
「私が離婚のことをお聞きしたからです。ごめんなさいね」あえて親しみを込めて謝った。
「いえ、家元という立場上お弟子さんに話こともできず、仲間にこのようなこと話たら、スキャンダルのネタにされて、あっという間に広がってしまうので、このような姿、誰にもみせれなかったのごめんなさいね」と若葉がいった。
「その後主人の浮気の噂はなくなったのですが、逆に主人が、出かける事が多くなり、会のお金の使いこみもわかり、結局離婚ということになりましたの」
「そうでしたか・・・」やはり、なにかに導かれるている感じがする・・・・証拠もないし、これは黙っておこう。
「それで……息子には、お嫁さんと幸せに過ごしてほしいんです。だから、お嫁さんに何か息子への不満があるのかしらと思って、尋ねたりもするのですが……」
若葉は手元を見つめた。
「そのたびに、『大丈夫です』と答えるだけで……」
「子どもの幸せを願わない親はいません。若葉さんが気になるお気持ち、お察しします。お嫁さんのお名前は?」
「瑠璃さんといいます」
幸子はメモ帳に書き留めた。
「旧姓は?」
「佐藤です」
佐藤瑠璃――。
幸子は名前を見つめながら、生年月日など必要なことを一つずつ尋ね、メモ帳に書き込んでいった。
「息子さんのお名前は?」
「藤波伸一です」
藤波伸一――。
幸子は名前を書きながら、ふと思った。
――そんなに悪くない出会いだわ。
けれど、
「瑠璃……」
佐藤という姓に、瑠璃という名前。
なぜかその組み合わせが、幸子の心に引っかかった。
幸子はタロットカードを手に取った。
「佐藤瑠璃……藤波伸一……」
二人の名前を心の中で繰り返しながら、カードをテーブルの上でゆっくりと螺旋を描くように滑らせる。
やがてカードを並べ、一枚ずつ裏返していく。
幸子は急ぐことなく、カードの絵柄を丁寧に見つめた。
一枚。また一枚。
カードの意味を頭の中で組み合わせながら、浮かんでくるものを追いかける。
すべてのカードを開き終えると、幸子は「ふう……」と小さく息を吐いた。
「若葉さんは、全国にお弟子さんを持つ華道の家元であり、母であり、そして伝統を受け継ぐ立場でもあります」
若葉は黙って幸子を見つめている。
「いろいろなものを抱えていらっしゃる。カードは、その荷物をいったん降ろし、少し身軽になることが大切だと示しています」
「荷物……」
「ええ。ただし、どの荷物を降ろすのかは、若葉さん自身で決めてください」
幸子はカードに目を落とした。
「若葉さんは、今、一つの停車場に着いたのだと思ってください。ここで荷物を降ろし、次のレールへ進む」
若葉はじっと耳を傾けている。
「でも、降ろした荷物が、若葉さんの思い描いた未来へ運ばれるとは限りません」
「……どういう意味でしょう?」
「荷物は、受け取った人が、どこへ運ぶのかを決めるものだからです、それは息子さん夫婦が考える事です。付け加えますと、お嫁さん瑠璃さんはおそらく若葉さんが自分たちを警戒して荷物を渡さないのではと勘違いされているかもしれません、ここは息子ご夫婦と話しあった方がよいと思います。」
幸子は少し間を置いた。
「ただ……一つだけ、若葉さん自身が生涯をかけて背負うことになる荷物があるようです」
「……」
「正直に申し上げます。私にも、それが何なのかは分かりません。カードが、そう示しているだけです」
若葉の表情がわずかに揺れた。
「もし、何か思い当たることがあったとしても……それは、若葉さんの胸の中に納めておいてください。そして、ご自身で向き合ってください」
突然、若葉の目から一滴の涙がこぼれた。
「有馬さん……何かお気づきですの?」
幸子は静かに首を振った。
「若葉さん、ご期待を裏切って申し訳ありませんが、私はただのおばちゃんですよ。何もかも見通せるわけではありません」
そして、いつものように微笑んだ。
「ただ、誰にでも、過去のちょっとした出来事が、その後の人生に影響を与えることはあります。生涯、心のどこかに抱えていかなければならないものがあるのは、若葉さんだけではありませんよ」
幸子はそう言うと、空になった若葉のカップに紅茶を注ぎ足した。
若葉はにっこりと笑った。
「お茶ですね」
「ええ。せっかくですから、もう一杯どうぞ」
若葉は一口飲んだ。
「美味しい……。ここしばらく、こんなふうにお茶を楽しんだことがありませんでしたわ」
「私も、よい時間を過ごせました」
応接間の窓ガラスから、春の淡い西日が差し込んでいた。
穏やかな夕暮れだった。春の夕暮れはまだ短い。眠っていた季節が、ゆっくりと動き始める時間でもある。
やがて若葉は席を立った。
「これ、本日の鑑定料ですわ」美しい和紙の封筒をテーブルの上に置く。
「恐れ入ります」
若葉は一礼してから、ふと思い出したように振り返った。
「有馬さん……」
「あっ、幸子で構いませんよ」
「では、幸子さん。また、お話を聞いていただけますでしょうか?」
「もちろんです。いつでもお待ちしています、若葉さん」
若葉は微笑み、応接間を出ていった。
幸子は、その後ろ姿を見つめていた。
そのときだった。
「あっ……」
なぜだろう。若葉の後ろ姿に、妙な違和感を覚えた。寂しい。ただ、それだけだった。さっきまで笑っていたのに、なぜかひどく寂しそうに見えた。
「またお話ししましょう」と言って帰っていったはずなのに――
胸の奥に、切ないものが残った。
「縁起でもない……」幸子は小さく首を振った。
そのとき、百合の花びらが一枚、はらりと落ちた。
幸子は花を見つめた。生花は、身を削りながら人を癒やし、場を清めてくれる。だから幸子は、占いをするときには必ず花を置く。
「ありがとう」幸子は百合にそう声をかけ、丁寧に片づけ始めた。
やがて、コノハが応接間へそっと入ってきた。
「幸子、ありがとう。恩に着るわ」
「どういたしまして」
「帰りに今日の記念にって、帯留めをご購入いただきました」
「コノハ、ちゃっかりしてるわね」幸子は苦笑した。
「でも、若葉さんって素敵な方ね。……ただ、伝統とか家柄とか、抱えているものが多いわね」
「そうね」コノハも頷いた。
すると幸子が、ふと思い出したように言った。
「えーと、コノハ。あなたも一応、老舗のご令嬢なんだから、いい加減、自覚しなさいよ」
「何よ、突然」
「おとといの電話。あれ、何なの? 言いたいことだけ言って、こっちが返事する前に切っちゃうなんて」
「ああ……」コノハは少し考えた。
「そう言われれば、そうね。何かあった?」
「……もういい」幸子が拗ねると、
「ごめん、ごめん。じゃあ今日は仕事も終わったことだし、咲代と瑞穂とご飯に行こう! 今日はいいお酒が飲めるわぁ」コノハが無邪気に笑った。
幸子もつられて笑った。
そのときの二人は、まだ知らなかった。
若葉の後ろ姿に幸子が感じた、あの説明のつかない寂しさが――やがて現実になることを。
おばちゃん探偵団と藤波若葉が今後どのように絡みあうのか乞うご期待!




