第十二章 それぞれの停車場 ②
サーナルリゾート開発は、朝から大騒ぎだった。
今回の伊勢志摩プロジェクトの中心人物ともいえる営業部長、菊池陽子が突然、退職したのである。
一大事だった。
専務の水本聡は、窮地に追い込まれていた。
もともと聡は、菊池陽子の手腕を利用してプロジェクトを進め、ある程度まで段取りが整ったところで、彼女を切るつもりでいた。
だから、退職そのものに驚いたわけではない。
問題は――時期が早すぎたことだった。
この段階で、菊池陽子が何かを外部に漏らせば、自分の立場だけでなく、会社そのものの信用が地に落ちる。
そして何より、前田家との縁談が白紙になることを恐れていた。
社長に呼び出され、聡が社長室へ入ると、そこには顧問弁護士と秘書も集まっていた。
「聡、これはどういうことだ?」
社長の声が響いた。
「なぜ菊池陽子は、突然会社を辞めたんだ。非常に優秀な社員だったはずだ。今回のプロジェクトでも、かなりの成果を上げていたと聞いている。何があった?」
聡は青ざめた顔で、社長の前に立っていた。
両手を握りしめた拳が、小刻みに震えている。
「……」
何も答えられない。
「まさか……お前」
社長が絶望したような声を漏らす。
聡は、力なくうなずいた。
「なんてことを……。あれほど用心しろと言ったのに」
社長は怒りをあらわにした。
「社員は身内じゃない。頭のいい人間ほど、情勢を読み、簡単に有利なレールへ乗り換える。社員を信じるなと、あれほど言ったじゃないか」
さらに声を荒らげる。
「それに、女性関係には用心してもしすぎることはないとも言ったはずだ。お前というやつは……!」
横でその様子を見ていた顧問弁護士と秘書は、社長の剣幕に息をのんだ。
怖いというより――どこか異常なほどの焦りを感じていた。
やがて、社長は顧問弁護士に向き直った。
「とにかく、すぐに手を打て」
急きょ、対応策が話し合われた。
まず、菊池陽子については、社員には「実家の都合で急きょ帰省することになり、長期休暇に入った」と説明する。
その間、部長代理を立て、伊勢志摩プロジェクトは予定どおり進める。
さらに、弁護士事務所の職員と秘書を菊池のマンションへ向かわせ、室内や周辺の様子を確認する。
その後、実家のある仙台にも連絡を入れ、できる限りの情報を集める。
そして社員には、あくまでも「長期休暇」という説明を徹底する。
「余計なことは一切話すな」
社長は念を押した。
最後に聡へ向かって、
「明子と、前田家の由以子さんには、菊池陽子のことが耳に入る前に、お前から話しておけ」と命じた。
「いいか。営業部長の一社員が長期休暇に入った。それだけだ。それ以上のことは、何も言うな」
「……はい」
聡は小さく答えた。
菊池陽子がいなくなったことで、サーナルリゾートグループもまた、ひとつの停車場に立たされていた。
この先、どのレールを選ぶのか。
そして、その選択が――誰を巻き込み、どこへつながっていくのか。
まだ、誰にも分からなかった。
瑞穂は成田空港にいた。
日本でクラフトビールと温泉を存分に堪能した夫、リュックがカナダへ戻るのを見送るためだ。
「翔によろしくね」
「オーケーだよ。もう楽しみで仕方ないよ。キャンプ場に行ったり、カヤックで朝のコーヒーを飲んだり……やりたいことだらけだよ」
「まさに、飛んで帰る勢いね」瑞穂が笑った。
翔から、急きょカナダの自宅へ戻ることになったと連絡が入ったのだ。
いくつか更新しなければならない手続きがあり、しばらくカナダで過ごすという。さすがに一人では何かと心配だからと、リュックが急きょ帰国を決めた。
何より、翔に会えることが嬉しくて仕方がないらしい。
一方、瑞穂には日本でまだ仕事が残っている。仕事を片付けてから、後を追ってカナダへ戻る予定だった。
「これですね、翔が楽しみにしているのは」
リュックが、お土産の袋をのぞき込んだ。
中には、某メーカーの抹茶味のチョコレートがぎっしり入っている。
「そうよ。翔、これ好きだから」瑞穂が笑う。
その袋の中には、幸子に頼んで用意してもらった静岡茶も入っていた。
翔は昔から、とにかくお茶が好きなのだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「気をつけてね。翔によろしく」
「オーケー!」
リュックは笑顔で手を振り、搭乗口へ向かっていった。
瑞穂はその姿を見送ると、車を停めてある駐車場へ向かった。
空港のロビーを出たところで、ふと、一人の女性とすれ違った。
――どこかで見たような気がする。
瑞穂は一瞬、足を止めた。
振り返ろうとしたその時、スマホが鳴った。
画面を確認すると、仕事の電話だった。
電話に出ると瑞穂はそのまま外へ出た。
すれ違った女性のことは、すぐに頭から消えてしまった。
その頃、幸子は急な来客の準備に追われていた。
訪ねてくるのは、藤波若葉。
先日の占いの続きを聞きたいと、突然連絡が入ったのだ。
幸子の自宅は、終活相談所の奥にある部屋と廊下でつながっている。
その中でも、祖母の部屋は幸子にとって特別な場所だった。
幸子の実家は、もともと不動産会社を営んでいた。しかし、ある事件に巻き込まれて両親を亡くし、幸子は祖母に育てられた。
その祖母は、静岡の山間のお茶農家の出身だった。
縁あって東京の有馬家に嫁いだが、故郷とのつながりはずっと続いていた。
幸子が普段から愛飲している静岡のお茶も、祖母の実家のお茶だった。
祖母の実家にいる、甥っ子夫婦がそのお茶を送ってくれ、幸子は大切に飲んでいる。そして幸子にとって、お茶は単なる飲み物ではない。
占いの前に一服することで、気持ちを落ち着かせ、心を整える。
幸子にとって、お茶もまた、占いの時間には欠かせないものだった。
祖母の部屋は、今では占い専用の部屋になっている。普段は使わないため、若葉が来ると決まってから、幸子は急いで部屋を整えた。
最後に、一輪挿しへ百合を一輪。ほのかに甘い香りが部屋に広がる。
「やっぱり、これね」
幸子は小さく微笑んだ。
香を焚くと、部屋の空気がすっと変わった。
まるで、眠っていた部屋が息を吹き返したようだった。
そのとき――
玄関のチャイムが鳴った。
藤波若葉が訪ねてきた。
幸子は、静かに玄関へ向かった。
若葉が再びこの部屋を訪れたことが、これから始まる出来事の扉を開くことになるとは、まだ誰も知らなかった。
幸子はゆっくりと玄関を開け、若葉を招き入れた。
玄関には、先ほど焚いた香の残り香が、かすかに漂っている。
若葉はその香りに包まれると、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
ふと目を上げると、玄関の先には小さな中庭が見える。
決して広くはないが、草木は丁寧に手入れされ、静かな佇まいを見せていた。
「まあ……なんて見事な……」
若葉は思わず足を止めた。
「お恥ずかしいです。こんな狭い庭ですけれど」
幸子は少し照れたように笑った。
「幸子さん……やっぱり、私が思っていた通りの方ですわ」
「え?」
「自然であることを、とても大切にされているのですね」
若葉は庭を眺めながら、奥にある小さな手水鉢に目を留めた。
「あのお手水は?」
「あれですか?」
幸子は庭へ出ると、手水鉢のそばまで歩いていった。
「昔からある井戸水なんですよ。以前は、この井戸の水でお茶を淹れていたんですけどね。今はいろいろとありますから、鑑賞用です」
そう言って、井戸を眺める。
「それにしても不思議なんです。このあたりもすっかり都会になったのに、この井戸だけは枯れないんですよ」
「まあ……」
若葉は、しばらく井戸を見つめていた。
何百年も前から、ここに水を湛えているのだろうか。
人が生まれ、暮らし、そして去っていく。
その間も、変わらずここにあるものがある。
そんなことを考えながら、若葉は幸子の後について奥の部屋へ入った。
部屋には、先ほどの百合の香りがほのかに残っていた。
幸子は若葉を座らせると、静かに急須を手に取った。
湯を注ぐ音が、しんとした部屋に響く。
やがて、穏やかな茶の香りが広がった。
「どうぞ」
幸子が湯呑みを差し出す。
「いただきます」
若葉は両手で湯呑みを包み、一口含んだ。
口の中に、柔らかな香りと、ほんのりとした苦みが広がる。
若葉は目を細めた。
「……美味しい」
幸子は微笑んだ。
「以前も、同じことをおっしゃっていましたね」
「あら……そうでしたわね」若葉は湯呑みを見つめた。
「本当に不思議です。華道と茶道は、切っても切れないものですから、これまでたくさんのお茶をいただいてきました。でも……こんなふうに、煎茶の味わいを深く感じたことがあったかしら、と」
そう言って、もう一口お茶を含む。
「今日は……なぜか、とても美味しく感じます」
幸子は何も言わず、若葉を見つめていた。
若葉の表情には、先ほどまでの緊張が少しずつ薄れている。
けれど、その奥にはまだ、何かを抱えている人の目があった。
幸子は急かさなかった。
ただ、静かに若葉が湯呑みを置くのを待った。
やがて若葉が顔を上げた。
「幸子さん……」
「はい」若葉は一度、息を整えた。
幸子は、なにか決意をしたような・・そんな若葉の気持ちを察したように、穏やかな声で言った。
「……さあ、続きをお聞かせください」
部屋には、百合の香りと、淹れたばかりのお茶の香りが静かに漂っていた。
若葉はゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、長い間、心の奥にしまっていたことを話し始めた。
「ある愚かな女性の話です。」と語り始めた。




