第二十話 農園の女主人
婚約解消の話し合いから数日後、シェリルはベルナルドの農園を訪ねた。
案内されたのは、農園の事務所ではなく、梨の木の下だった。九歳のシェリルが枝へ手を伸ばし、十一歳のベルナルドに梨のもぎ方を教わった場所である。
木陰には小さな卓と椅子が用意されていた。卓上の籠には、今朝採れたという李が盛られている。
「急にお訪ねして、ごめんなさい」
「かまわない。出荷の打ち合わせも、ちょうど終わったところだ」
ベルナルドは向かいの椅子へ腰を下ろした。袖には乾いた葉が一枚ついている。シェリルが指で示すと、慌てて払い落とした。
「それで、今日は何があった?」
「婚約は無しになりました」
ベルナルドの手が膝の上で止まった。
「正式に?」
「ええ。両家の話し合いも済んでいます。アレック様は跡取りを外れ、婚約を続ける理由もなくなりました」
「そうか」
それだけ答えると、ベルナルドは籠から李を一つ取った。熟れ具合を見るように指で触れ、同じ場所へ戻す。
「それで、あの家とは?」
「エンコード家との御縁ですか?」
「ああ。君の御両親は、縁を切りたくないと考えていたはずだ」
「よく御存じね」
「昔、手紙に書いてあった」
「果物以外の話も、覚えていてくださったのね」
シェリルは籠の中から、赤く熟れた李を選んだ。
「両親も、今はそれほど心配していません。どうも最近、マリルがリシャール様と何度かお会いしているらしくて」
「リシャール殿と?」
「菓子店で果物のタルトについて話したり、ドリアンを菓子に使えないか相談したりしているそうです」
「ずいぶん変わった逢瀬だな」
「本人たちは、果物とお菓子の話をしているだけだと申しております」
「それで済むなら、君の婚約もあそこまで長引かなかっただろう」
シェリルは李を持ったまま笑った。
「マリルは、リシャール様と話していると食べたいお菓子が増えるそうです。リシャール様も、次に会う店を探していらっしゃるとか」
「では、家同士の縁は二人がつなぐのか」
「まだ決まってはいませんけれど、両親は期待しているようです。マリルも嫌がってはいません」
ベルナルドは籠の李をもう一度並べ直した。大きな実を奥へ、小さな実を手前へ移していく。
「安心なさいました?」
「少し」
「私が次の縁談を急がずに済むから?」
小さな李を持ち上げた手が止まった。
「もう、お話は来ていますよ」
「早すぎる」
「婚約が無くなったと聞いた方々から、父のところへ幾つか」
「受けるのか?」
「私一人では決められません」
「君は、どうしたい」
シェリルは李を卓へ戻した。
「その前に、一つお願いしてもよろしい?」
「ああ」
「昔のように、名前で呼んでください」
ベルナルドが顔を上げた。
「シェリル嬢ではなく?」
「九歳の頃は、シェリルと呼んでくださったでしょう。私も、ベルナルド様とは呼びませんでした」
「あの頃とは立場が違う」
「婚約中は、そうでしたわね」
梨の葉が風に揺れ、卓の上へ細かな光が落ちる。
「今は、もう婚約者がおりません」
ベルナルドの指から李が滑った。実は籠の中へ落ち、隣の李にぶつかって止まった。
「……シェリル」
「はい」
「本当に、次の縁談が来ているのか」
「ええ」
「どこの家だ」
「お教えしたら、どうなさるの?」
「断ってくれと言いに行く」
「先方へ?」
「君の父上へだ」
「父は、理由を尋ねますよ」
「理由ならある」
ベルナルドは椅子を卓から離し、シェリルの正面へ向き直った。
「シェリル。俺は君を、ほかの誰かに取られたくない」
ようやく出てきた言葉に、シェリルの口元が緩んだ。
「それで?」
「うちの農園の女主人になってくれないか?」
シェリルは笑いをこらえようとして、結局、小さく吹き出した。
「すまない。何か、おかしなことを言ったか?」
「いいえ。あまりにもベルナルドらしい求婚でしたから」
「求婚だとは分かったのか」
「『好きだ』も『妻になってほしい』も抜かして、いきなり農園の女主人ですもの。ほかに受け取りようがありません」
「俺は、君ならこの農園を任せられると思っている」
「ええ」
「果物のこともよく知っている。出荷先の菓子店にも詳しい。客の好みを見て、新しい食べ方を考えるのも得意だ」
「まだ続くの?」
「農園の女主人を頼むんだ。きちんと説明する必要がある」
「それでは、雇い入れの相談ですわ」
ベルナルドは口を閉じた。籠の中では、先ほど落とした李が一つだけ横を向いている。
「……好きだ」
シェリルが笑うのをやめた。
「昔から、君から手紙が来るのが楽しみだった。花の話も、本の話も、君が考えた果物の菓子も、全部だ。婚約してから手紙が短くなるたび、返事へ何を書けばよいか分からなくなった」
「私も、書きたいことをずいぶん削りました」
「これからは削らなくていい。毎日でも聞く」
「毎日?」
「同じ家に住むんだから、手紙より早いだろう」
「それも、ずいぶんベルナルドらしいわ」
「今度は何がおかしい」
「まだお返事をしていません」
ベルナルドの口がわずかに開いた。
シェリルは椅子から立ち、彼の前へ手を差し出した。
「ずっと待っていたのよ。ベルナルド」
伸びてきた彼の手には、指先まで土がついていた。途中で気づいたベルナルドが手を引こうとする。
シェリルは先に、その手をつかんだ。
「農園の女主人になるのでしょう。これくらい、気にしていられませんわ」
「では、引き受けてくれるのか?」
「ええ。喜んで」
ベルナルドは握った手を確かめるように、もう一度尋ねた。
「本当に?」
「お返事は一度で聞くものよ」
今度はベルナルドが苦笑し、シェリルの手を握り直した。




