第十二話 婚約解消の話
「同じ日、わたくしとリシャール様は花冠亭へ参りました」
アレックの指が、椅子の肘掛けから離れた。
「なぜ、花冠亭に?」
「市場の青果店で、アレック様の行き先を伺ったからです。マンゴーの籠を受け取った御方を確認するために参りました」
「俺のあとをつけたのか」
「公園でお待ちしました。花冠亭から出ていらしたお二人を、リシャール様と一緒に拝見しました」
マリルは記録した時刻と場所を読み上げた。
正午前。花冠亭南側の公園。
薄桃色のドレス。胸元には赤い花。
ネリアの腕には、マンゴーを入れた籠。
アレックはネリアの腰へ手を添え、ネリアはアレックの腕へ自分の腕を絡めていた。
「婚約中の男性が、幼馴染へ手を貸しただけだ」
「平らな道で、腰へ手を添える必要がありますの?」
「親しい者同士なら、その程度のこともある」
「ネリア様は、御結婚後も今までどおり会えるのかとお尋ねになりました」
アレックはマリルの手帳を見た。
「聞き違いだろう」
「私も聞きました」
リシャールが口を挟んだ。
「兄上は、何も変わらないと答えました。シェリル嬢には家と店を任せる。自分が誰と会うかまで、口を出させるつもりはない、と」
「会話の一部だけを取り上げるな。結婚後も友人付き合いを続けるという話だ」
「そのあと、ネリア嬢へ、会いたくて会っているとおっしゃいました」
マリルの指が、次の行へ移った。
「お前が好きだ、とも」
「昔から大切に思っている。それを好きと言って何が悪い」
「口づけも、昔からのお付き合いのうちですの?」
母の扇が卓へ置かれた。
「アレック。口づけをしたのですか」
「ネリアが不安がっていたので、安心させただけです」
「二度なさいました」
マリルは記録を追った。
「一度目のあと、ネリア様がアレック様の首へ腕を回しました。二度目は、最初より長く続きました」
「見張って時間まで測っていたのか?」
リシャールの椅子が鳴った。
「兄上、問題は――」
「座りなさい、リシャール」
父に言われ、リシャールは椅子へ戻った。
アレックは両家の顔を順に見た。
「確かに口づけはしました。ネリアとは長い付き合いです。彼女は、俺が結婚すれば捨てられると思い込んでいた。そんなことはないと伝えました」
「捨てないのですね」
シェリルが尋ねた。
「人聞きの悪い言い方をするな。彼女とは、これからも親しい友人でいたいだけだ」
「お好きなのでしょう?」
「好きだよ」
母が目元へ手を当てた。
アレックはシェリルへ向き直った。
「君の立場を脅かすつもりはない。ネリアも、君から何かを奪いたいと思っているわけじゃない。君は妻として家と店を守る。ネリアとは時々会って、茶を飲む。それで困ることがあるか?」
シェリルの筆が止まった。
「わたくしは、あなたの妻として家を守り、店で働く。お子が生まれれば育て、両家のお付き合いも引き受けます。その間、あなたはお好きな方と会うのですね」
「ネリアとの間に子を作るつもりはない。家の名も財産も、君との子が継ぐ。当然だろう」
ライエット子爵が椅子の肘へ手を置いた。
夫人が袖へ触れると、その手が肘掛けへ戻った。
シェリルは筆を置いた。
「わたくしにも、お慕いしていた方がおりました」
「何?」
「果物の育て方や、収穫したあとの扱いについて、いつも教えてくださる方です。その方とお話しする時間を、わたくしは楽しみにしていました」
ベルナルド。
先ほども、その名が出ていた。
「そいつと、何があった」
「仕事のお話をしてまいりました。アレック様との婚約が決まった時、自分の気持ちは納めました」
「誰だ。ベルナルドという男か?」
「お名前をお答えする理由はありません」
「婚約者に隠すのか?」
「婚約中のあなたが、ネリア様と口づけをしていらしたのですよ」
アレックは口を閉じた。
「わたくしは、両家で決めた婚約を守ろうとしました。アレック様も同じように、御自分のお気持ちを納めてくださったと思っていました」
「結婚すれば、俺は夫としての務めを果たす」
「わたくしが欲しかったのは、それだけではありません」
「では、何が不満なんだ。店も続けられる。エンコード家との取引もある。暮らしに困ることもない」
「店はライエット家のものです。仕事も、わたくしが選びました」
シェリルは卓の中央にある覚書を取り、自分の署名がある頁を開いた。
「どちらも、アレック様から与えていただくものではありません」
「俺と結婚すれば、もっと大きな商いができる」
「流通については、リシャール様とお話しすれば十分です。倉庫長とも直接やり取りができます」
アレックは弟を見た。
リシャールは父の隣で、背を伸ばして座っている。
「シェリル。腹が立っているのは分かる。ネリアとはしばらく会わない。それでいいだろう」
「しばらく、ですか」
「結婚式が済むまでだ。その間に皆も落ち着く」
「わたくしは、もう決めました」
シェリルは覚書を両手で持ち、アレックの父へ差し出した。
「アレック様との婚約を解消いたします」
アレックは椅子から身を起こした。
「口づけ一つで、婚約を壊すのか?」
「二度ですわ」
マリルがすぐに訂正した。
「回数の問題ではない!」
「先ほどから、御自分に都合のよいところだけ小さくなさいますから」
「マリル、今は黙っていなさい」
ライエット子爵に言われ、マリルは手帳へ顔を戻した。
父が、シェリルから覚書を受け取った。
「ライエット子爵からは、正式な申し入れを受けている。エンコード家も婚約解消に同意する」
「父上!」
「お前の話を聞いた上で決めるつもりだった。今の話で十分だ」
「両家の取引はどうするのです。ここで婚約を壊せば、今まで準備したことが無駄になる」
「今後の取引は、私とリシャールがライエット子爵と話し合う」
「俺が進めてきた取引です!」
「倉庫から品を持ち出し、好きな女へ配ることが、お前の商いか」
「ネリアは、そんな女ではありません!」
アレックの声が応接室に響いた。
扉の外で、誰かの足音が止まった。
「俺たちは幼い頃から、互いを大切にしてきました。結婚できなくても、その気持ちまで捨てる必要はないでしょう」
「ならば、ネリア嬢と添い遂げればよい」
母が卓上の扇を取り上げた。
「シェリル嬢に、あなた方二人の暮らしを支えさせる理由はありません」
「母上まで……」
「あなたは先ほど、シェリル嬢には家と店を任せると話しましたね。妻となる方へ御自分が差し出すものを、一つも挙げませんでした」
「家の名と財産があります」
「シェリル嬢も子爵家の御令嬢です」
母は扇を開き、口元へ寄せた。
「あなたとの結婚だけが、将来ではないのですよ」
父が覚書を二つに畳んだ。元からついていた折り目が、再び重なる。
「婚約解消の書面は、双方の代理人に作らせる。お前は署名のために呼ばれた時だけ来なさい。それまではライエット家にも、シェリル嬢の店にも近づくな」
「シェリル」
アレックは椅子を離れ、彼女の前へ出た。
「本当に、これでいいのか。長く準備してきただろう。今さら婚約がなくなれば、君だって困るはずだ」
シェリルは書き終えた紙をマリルへ渡した。
「お父様。こちらも代理人へお渡しください。今日伺った内容をまとめました」
「シェリル、俺の話を聞いているのか」
「伺いました」
シェリルは立ち上がり、アレックへ向き直った。
「わたくしは、アレック様と結婚するために諦めたものがあります。あなたは何も手放さず、わたくしへ我慢を求めました」
「これから改めれば――」
「アレック様」
シェリルは一歩下がった。
「これからは、ネリア様のために果物をお選びください。わたくしが受け取る支度をすることも、もうございません」
ライエット子爵が娘の外套を侍女から受け取り、その肩へかけた。
三人の妹も立ち上がる。サミュールは記録を揃え、エリールは姉の手袋を持った。マリルは最後まで使っていた鉛筆を手帳に挟んだ。
リシャールは父へ一礼してから、ライエット家の者たちへ続いた。
「待ってくれ」
アレックが呼び止めると、シェリルは扉の前で足を止めた。
「俺との婚約を解消して、その男のところへ行くつもりか?」
シェリルは振り返った。
「それも、これから考えますわ」
扉が開き、外で待っていた家令が脇へ退いた。
その向こうでは、荷受け室から来たらしい従僕が困った顔で立っている。
「旦那様。若旦那様宛てのお荷物について、御相談がございます」
「あとにしなさい」
「ですが、先ほどから、少々……」
従僕が廊下の奥を振り返った。
父は眉間を押さえ、アレックを椅子へ戻すよう家令へ命じた。
「お前には、まだ話がある」
ライエット家の者たちが廊下を進んでいく。
アレックの前には、折り畳まれた婚約の覚書と、マンゴー六つの代金を記した紙が残った。




